哲学を咎めるのに十分な理由があるとしても、不当な非難となるのを防ぐのに必要なものはあるはずで、それについての考察(細々修正有り)
2020-7-003
哲学者への疑念に関するスレに投稿しておきました:
与えるや対抗しないといった方針は、
有限かつ、求め続ける者がいるという前提下での秩序原理としては、現実通用性が低いと思われ、
実際、個人の判断や国家の権威を縛る形でのテコ入れが歴史上起きたと見るべきでしょう。
そうだとして、例えば、お金儲けへの縛りを解く理屈を編み出し、
求め続ける者という属性を資本に付与した結果の被害者を、その方針の類でもって救済する(上塗り)、
この種の構造(論点履き違え連鎖)に何ら疑問を持たない人が今なお大勢いて、中には哲学に造詣が深い人も、
普通にいる(時事含め、付け込まれる隙を潰す機会たる実証相当事例からのフィードバックすら疑問符付く)、
という事実があるわけです。
場の本質を損なわないように形式や帰結が組み上がってる秩序を、社会なり内面世界なりに求めてないから、
場の本質と割り振りとの合致(フェア)をもって、競合形や協同形の許容境界や合意根拠としたり、
量的派手さを縛ったり、自他の尊重に際する差異への着目無視方針(捨象対象の選定原理)としたり、
内実の確からしさを実質問わない表層形根拠での断罪なり進行方向進行速度制御なりを防いだりする事もなく、
また、自他が持つ理解(対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた、通用が行き渡った感)に、
非専門性からくる不十分さを割り引いてなおその秩序からの乖離があったところでスルーしてしまう、
少なくとも、乖離縮小が(下の枠組みで)目指されたものとしての修正形が得られる事もないのでしょう。
(注、目指す場合、行動の情報から行動原理を仮説的に得るように、理解についての情報から得た、
通用領域がいらぬ限定を負ってる感から、限定の傾向なり要因なりの抽出まで必要なら試みるイメージ。)
さらには、子どもなりの最善、怪我してるなりの最善、そうした条件による割り引き(場に合わせた加工)の、
妥当性を正確に問えない(条件下での最善、という平等地平に持ってけない)事態も意味する為、
過去や現在を評価する際の過大過小(引き受けざるを得ない有限性の割り出し失敗)も避けられません。
つまり、理想と現実の関係への問いが哲学において提示されて以来、二千数百年経ってるにもかかわらず、
何ら加工されてない状態の追究(理想を取り違えるのを阻止)も含めた、加工の代替不可能化という枠組みを、
哲学は持たなかった(近代の性質上、理系域に限っては抽象化具体化処理の機能不全には当たらないかも)し、
自身を的確に咎め、修正する術さえ持ってないと言えます。
しかし、ものを数える時はじめ、状況に応じた必要な捨象処理(次元設定)自体は誰もがこなしてるので、
哲学にしろ、その場その場の性質の下の平等追求、及び、場の性質把握の確からしさ追求に関する、
阻害要因によって、先の求めるべきものとしての秩序観がいらぬ加工を帯びてるが故の姿
(例えば、体系化による暴力への、先の組み上がってる秩序まで拒む、
当然に肯定否定根拠にも採用しないような、固執的問題意識の産物)とも思われます。
林檎は数えられるが蜜柑はできない状態なのに数を数えるは十全と見なしてる的構造に、
問題解決(理解作業はもちろん、生そのものも含む)が陥らないよう回避する試みに対し、
より確からしくなろうとする姿勢(ご都合主義にならざる得ない原理欠如状態に甘んじているいないの差)を認め、
かつ、古代以来の上の問いを多角的に重ね(この意味での哲学の意義を認め)つつ、
阻害要因除去(囚われの除去)として、先の枠組み(そこでは抽象と具体は価値対等)を、
差異要素の捨象要請局面(理系域に典型)外をも取り込んだ形に持ってく(上で言う回避試み)のに必要な、
局面に対し同種の他との共通要素を最大限捨象する事で得たその固有性と捨象対象との合致を、
基底とする形で知性や倫理の働き(表層的要素を表層的要素として位置付ける作用)を立て直し、
つまり、より確からしい方(通用領域の広い方)を選ぶという反応(我々はそれをしてるだけ)における、
機能不全要因を除去(その反応自体を確からしく)し、
その方向と整合的な視座で、哲学の過去や現在を捉え直しましょう。