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2948文字、デカルトニーチェ系権威からもカントヘーゲル系権威からも個別性を保障する方法、および、それによって可能になる秩序や生について

2023-3-002

例えば、林檎Aも林檎Bも林檎は林檎だ的処理に対し、隠蔽的側面を見るなら否定的に、開放的側面を見るなら肯定的になるとして、
重要なのは、これがリバタリアンとリベラルの対比になるだけでなく、個別性が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないの観点

(十分にはさらされてない段階で対象が持つとされてる性質が、対象と不可分なものかのようなニュアンスをまとってる場合、その対象が個人であれ社会であれ、
帰属操作の責任を存在に擦り付けてる点で、人に帰属する罪を神の名の下に為す類の信仰が持つ形骸性の、存在実存間バージョンと言え、
知性や倫理や美意識の働きが帰属修正であるなら、対存在におけるそれらの働きにとっては前提となるだろう観点)
からは、この差異を両者とも隠蔽してる立場になる点でないかと思います。


そして、以上を、資格付与を通じた救済なり政治なりの矮小化問題と捉えつつ、より抽象的な次の理解を押さえるべきと考えます。

個別性が根拠になる局面(文系的局面)で、あくまでも仮説でしかない個別性に対し改善フィードバックを、つまりは、根拠の確からしさを上限化させるには、
具体化精度が確保された具体形パターン(検証結果に相当するもの)の網羅への志向(通用してない領域を潰す働き)を機能させる必要があるのに、
デカルトニーチェ系の権威は外在軽視の方向から、カントヘーゲル系の権威は外在の個別性軽視の方向から、阻害を齎す働きをする。


ここで、フェアを疑似化からの性質救出も含む、外在場尊重(内在不問外在軽視な典型自由観とも、外在場の本質と外在場の見せる割り振りとの不整合を受容する生ともバッティングし、
空気を読むのでも各場の本質への応答としてであればバッティングしない態度)と、
したがって、フェア志向は先の権威による阻害の無効化に相当すると解するとして、

特化に過不足がある状態を、同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消
(有限の与件性から不可避である限定に対する限定前後での確からしさ保存であり、
理想現実関係の安易でないバランスの達成でもある為に理想や現実を語る資格に当たるポイント)が取り込まれるよう、

フェア志向の内包された、代替不可能な内外事情にしか応じない実存へと、あるいは、その拡張としての抽象化具体化の交互反復な歴史へと持っていく
(持ってく事で捨象される類は、それが理論実践関係や内外関係に関する何かであろうと、個人や社会が歴史的に獲得したものしなかったものに関する何かであろうと、疑似問題として扱う)。


この移行(その実存と整合的でない獲得喪失を強いる、整合的な獲得喪失であっても断罪しさえする上に、そもそも同種の他との共通要素捨象の能力を育成しないので、
文系者にとっては熱心であるほど不備のある枠組み、例えば、冒頭の両者隠蔽事態に疑問を持たない知性なり倫理なりに、特化してしまう既存教育とバッティングするそれ、

逆に言うと、個別性抽出としての理想や現実など、対文系で根拠になってくるものの用意や評価が機能する状態を、
被教育状況下であっても保障してくれるそれ)をもって、平等概念や自由概念の内実刷新も見越しつつ、

近代性を乗り越えた対真善美(各々のその時点での有限性形態の下での距離最小として、
真理と認識との間の断絶の例で言い換えるなら、全体像が常に欠けを持つ状態での判断となる事情から避けられない為に全否定の対象とすると冤罪的帰属操作になる愚かさに対する、肥大化による疑似問題発生への対処として、
真善美込みの理想に対峙させるべき現実の達成)としたり、

同対問題(準備不足やリスク評価不全、といった対自然や対人間での脆弱性も、自分はできるが他人はできない、あるいは、その逆の事態への過大評価過小評価も当然含み、
内面世界で生じてるか、自国社会や国際社会で生じてるかの区別も当然ない、帰属修正余地の集合全体に対して、
各主体が与えるどの部分にどれだけ関わるかという限定についての帰属の修正余地のなさの獲得達成)とする。


この移行者の割合高める方向の保障(敵とも味方とも自分とも人以外とも場の疑似でない固有性を、
特に局面と着目無視の合致からくる捨象を、介して立ち上がってる関係性が増えるので、
割合高まるほど場の性質が場の本質に近づいてく類では特に、非対等性有り様や捨象対象が場の本質の反映形であり続ける秩序の実現に必要)をもって、

近代性を乗り越えた対市場(需給実態への、それを構成する個々事情が根拠に値するだけの確からしさを持つかどうかを論点としないという意味で内実不問な、
重視の下での不当合理や軽視の下での不当合理からの脱却状態)等とする。


この移行を自我(内在的問題解決スタイル)と文化(外在的問題解決スタイル)の関係、
続けて、そこでの統合産物である注力形式を介した無意識と意識(注力的問題解決)の関係、それらの落とし込み先とする事をもって、

近代性を乗り越えた対人生(次元設定自在性という人間性や行動原理へのフィードバックという生命性の、形骸化に対する縮減試み)とする
(ちなみに、ニーチェ含めた矛盾上等なスタイルには、不整合による通用の行き渡っていなさの指摘は無効なので、
個体や種を場に通用させ続けるという存在課題が引き受けられてる生命における形骸化の観点を、どう押さえるかが対処のポイントになると思われます)。


こうした先の意味のフェアで個別性を保障する方向をもって、過剰特殊と不当合理の二択縛り(先の権威による阻害込み)な近代以降の文系地平、
および、その産物(例えば、場の本質が反映された非対等性かどうかとの観点を持たない類の、秩序理論や絶対化相対化実践など)が持つ影響力を過去にしましょう。



倫理は帰属修正の働きである(阻害含め、これ以外の働きとして持ち出してるケースは疑似問題である)との理解の不在が、

さらには、その働きはつまるところ、
有限性(内外境界発生)が与件である点とより確からしいものが取って代わる運動性(これそのものであったり、阻害がない場合、常に確からしさの上限であるという意味での変わらなさを意味してる)、

これらから成ってない現象をこれらから成ってる現象(帰属の修正余地がないので、
受容に値する状態、例えば、実存が負わせるに値するものしか外界への影響力を持ってない状態)へと持ってく事に他ならない為、

例えば、分かりやすいところで、嘘をつかない事が倫理的に肯定されるのではなく、
疑似化部分を剥いでいった先の内在性質と同外在性質とが合わさった結果の加工状態から見て、過大でも過小でもない事態が倫理的に肯定される、といった理解の不在が、


解消される(加えて、教育が同種の他との共通要素捨象能力を、ひいては、観点設定に響く、局面の個別性把握の精度を、
文系の専門家の必須条件として育成する)事により、倫理と政治とが重なる世界も、

主体の個別性の疑似化程度が区別されない、余裕がない局面での有り様と余裕がある局面での有り様とが区別されない、こうした差異隠蔽を含んだ尊重対象拡張からの政治の解放
(例えば、民主制や市場に対する、場の性質把握の優秀性の観点からの検討)も、
可能になると考えます。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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