社会現象(政治系)が確からしい内実を持つには、対社会現象などでの自己の具体化に関する安易さを潰してる人が増える必要あるのでないか(004の投稿版)
2021-6-004'
負わせる負わされるに関する妥当不当の感覚が確からしい人
(妥当な観点を採用した時の帰結への支持は前提で、何らかの保護を確からしい観点への志向に先行させない人)を増やさない事には、どんな働きかけも小手先でしかない主題なのに、
増やすのを本筋(余裕に応じて割り引かれる)として位置付けてない(近代的権利観をその内実不問性へのケアなく持ち出した時点でそうなる)構想や施策に終始してるパターン、
これを対需給事情(市場レベル)で展開する、相当都合の良い条件がそろわないと厳しい代物に、
時代の表層的性質に合わせた結果として関わった人達
(対社会現象などでの自己の具体化に関する安易さは、安易に受容したり安易に拒絶する、必要な修正を果たせない能力実態を意味してる)の事例について。
政治を、
同種の他との共通要素捨象がベース(場の代替不可能な固有性の、つまり、条件変動に振り回されない要素の抽出作用がそれベース)になってる、各場(内面世界含む)の固有性に即した割り振りへの、
移行や保持の働き(成立や達成に、不当獲得の可能性を見てその発生抑える場の管理)に関する対社会性の側面と見なしてれば、
5より10を得る方が通用領域広い(確からしい)から、2+3は10じゃなきゃ嫌だ(理不尽と見なす)的願いを、
叶える(形骸な論理展開を通す)働きやその争奪戦(による社会的ポジションかその扱いの変動)、
この意味で既存と何ら変わらないものを刷新物扱いする事も、先のパターンもないわけなので、
政治の働きに対する未だに有る誤解が、そういう形で現れるような条件下に偶々置かれてただけでしょう。
ところで、理由なく殴ってる形に、自分がなってる可能性から目背けてるのに、少なくとも、その可能性下げる働きが弱いままで、他者の有り様にケチつけてたら、
批判対象が実際に批判に値したとしても、無駄に説得力下げてる状態と言えますし、
林檎は数えられるけど蜜柑はできない的状態を意味する以上、数を数えるが十全にできてるつもり的勘違いに相当する、問題点把握のずれを抱えてると言えます。
なので、自分が外界に何かを負わせる事が避けられないにせよ、
妥当(帰属先きが確からしい)な負わされまで嫌がる受け手(による理不尽訴えや正当性主張)は不当を望んでるようなもので、取り合う必要ないと見なして、
妥当と言える形にできるだけ持ってく、自分が受け手側の場合は受容拒絶に同じ根拠を用いる有り様を、
その妥当形を各場の代替不可能な固有性に紐づけられてる割り振りと規定しつつ、小学期段階で求めてく事が、
批判効果を早期から確保したり、問題点把握のずれを早期に縮減させる為にも必要と考えます。
(内在場外在場の代替不可能な固有性を埋没させてる有り様、例えば、させた結果の能力獲得を、自他や概念に認めない態度にも繋がるので、
近代的な論理理解のインストールやその下で為される理不尽訴えなり正当性主張から、距離を取る準備としても必要です。)
また、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情(内在場外在場の代替不可能な固有性)しか引き受けてない状態(自由状態)を、
保持せずに得たものは、能力だろうと思考展開だろうと幸福や満足だろうと問題解決(有り様や選択肢の多様性確保含む)だろうと不当獲得であり、
不当な分だけ何かが、負う必要ないものを負わされてるイメージが言えるとして、
負う必要ないものを負わされない世界(上の自由状態の集積)に近づける働きが機能してれば、
数を数えられるから林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられる的意味で、自己についても負わされが妥当な範囲に収まってる状態へと近づいてく、
つまり、機能させにいく(利己利他の差がない次元を確からしくする)事が、自己に関しても対不当負わされに相当するはずです。
自己についての負わせる負わされる問題が不当獲得への問題意識に転換されてれば、政治の働きに求めるものもその反映になるはずで、
その転換を阻害してるものとして、余裕の有無といった局面事情とは無関係な量先行(質軽視)を齎してる諸々、
成立や達成に対し不当獲得の観点を度外視する拘りなり思い違い(理系論理と文系論理の差異性共通性の無理解からくる、得る上限の弛緩)、
捨象傾向(分離による解決への過大評価からくる無闇な内実不問)故に、上で言う自由状態を志向しない近代性はじめ、表層次元で事足りるとするスタイル(問題の把握や処理にそれを要求してる形の知的プラットフォーム)、
何かを主張してる形な時点で、これは通用領域が広いとの含意があるにもかかわらず、(自己正当化が先立つ等から)通用が行き渡ってるものに帰結を帰属させる働きとしては持ち出されない知性や倫理、
これらが疑える為、政治の矮小化の原因は結局、
限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存の枠組み(先の規定の意味での妥当形への志向含む、捨象精度が最大化されてる抽象化具体化への志向)を、
理想と現実の関係(質と量の関係)への対応とする、また、主語の切り出しや述語化に際する論点(論理展開や歴史展開の論点)とする内容の対プラトンの欠如と思われ、
逆に言うと、
自己についての負わせる負わされる問題をその枠組みに
(各局面での確からしさ差を意味する差異と捨象処理の帰結との一致度を捨象精度とし、同種の他との差異要素捨象に特化させる近代パラダイムと距離を取りつつ)落とし込む文化の醸成が、
世界の状況を変えてくれると期待できるように思います。