2898文字、多様性潰しとそう見えるだけに留まる多様性の退け方について、存在課題の観点から
2024-1-006
存在するという課題(認識はこれを具体化する作用持ってる)における場に通用させ続ける、
という側面に着目すると、場の性質変化への弱さの許容は、存在課題の取り違えと言える為、
外から何もやって来ない、やって来ても友好的であり、未知の病原菌なども持ち込んでない的な都合の良さへの寄生によって成り立ってる秩序である井の中に留まるのは、
当然、非を認めないという、より確からしいものへと修正する機会を放棄するスタイルも、存在課題の取り違えです。
逆に言うと、存在課題を取り違えてないのであれば、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にする
(したがって、それを持たない人の真善美への志向はどれだけ強くとも確からしさの上限にまでたどり着けず、
受容に値する状態にまで帰属修正できてない状態のものにも十分な真善美を見出して、できてる状態への接近が知性や倫理や美意識と見なされるのを真善美の名の下に阻害するなどが起きる)、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針を、採用してるのと同等の状態であるはずです。
(この実存方針と能力や情報や可能性の獲得喪失とを、整合させずとも高学歴には至れる現状では、
問いに答える能力に関する高学歴が持つ高さは、存在課題を取り違えてないという事実を保証しません。)
対象理解が制限を負ってる為に、否定が冤罪的非難の側面を持ってしまう、という知性倫理関係で言うなら、
能力や情報や可能性の獲得喪失と上の実存方針(限定性を剥ぐ方向と引き受けざる得ない限定性を割り出す方向の追求によって通用領域を、
ひいては、確からしさをその時点での上限へと持っていく、抽象化具体化の不十分さ解消、
利己利他対立のように抽象次元に遡らない、および、この場合、知性倫理美意識間と同様の比重や明晰曖昧間と同様のスペクトラムを含む、
局面次第という具体化態度を持たないせいで生じる疑似問題や疑似解決を防いでくれるそれの一種であり、
より確からしいものが取って代わる運動性との関係においては、その運動性が負う限定性に修正余地なさを持たせる後者方向の追求に相当する)
とを整合させてる状態で生じてる冤罪的側面は受容に値し、そうでない場合は修正余地がある、
この理解から見て過剰な否定も、過剰な肯定も、言い換えると、有限性と向き合ってない(内外事情をくまない)せいで生じてるいらぬバイアスに由来する疑似問題も、
有限性(内外事情)に修正余地を見ないまま受容するせいで生じてるいらぬバイアスに由来する疑似解決も、存在課題の取り違えにまで話は遡れるわけです。
同様に、多様性潰し(個々の内外事情をくまない)も、それを批判するのにかこつけて主張されるそう見えるだけに留まる多様性(個々が踏まえてる内外事情に帰属修正余地の有無を見ない)も、
存在課題の取り違えの弊害であるいらぬバイアスの現れと見なす(感情なり意見なり、内面世界での選抜結果に対する、
ドーピングによる金メダルのような、通用してる領域と確からしさとの相関を持ち出す観点設定の精度欠いた末の茶番を、抽象化具体化の不十分さ解消が受容条件でない為に許容してる形であり、
観点設定自体にもその相関を見るよう求める具体化精度確保の要求が内容の自身への糾弾を矮小化して、
茶番な選抜結果の押し付けに与してる自身を正当化しさえする、両立場からの働きかけに取り込まれないだけの)リテラシー、
特に、個別性が根拠になる局面での、内外事情が同種の他との共通要素捨象に十分さらされているいないの差異に対する問題意識を、
その実質として持つ(能力や情報や可能性の獲得推奨の有り様からしてその問題意識とは無縁な、
したがって、存在課題と整合してない既存の学校教育を通しては持てない)それをもって退けられるものと見なしましょう。
(ちなみに、哲学という概念の持つ権威を何らかの形で利用してる人が、認識者が認識対象を置く認識場の個別性に対し、
上で言う相関を見ないで済ます点についてはデカルトに、個別性が根拠になる局面でも個別性捨象を展開する点についてはカントに責任があるという、
上で見た両立場の側面を共に備えてるように見える二人についてのこの関係像を採用してない場合、
その人には、内面世界での茶番な選抜結果の押し付けを許してるパラダイムが今なお支配的な件についての責任が生じてるように思われます。)
注1
限定性を剥ぐ方向と引き受けざる得ない限定性を割り出す方向の追求は、いらぬ限定性の除去であり、言い換えると、抽象化具体化の不十分さ解消はいらぬ特化の除去です。
いらぬ特化は大した理由なく死角をつくるようなものなので、修正余地ない理由で生じてるケースとの間には、
そこで都合の悪い事が起きた時の、都合の悪さやそれが反映した生遂行有り様についての受容に値する程度に差異があり、
その差分は都合の良さへの過剰な寄生を自身に強いてる分に相当してると言えるでしょうから、
いらぬ特化(抽象化具体化の不十分さ)を自身に許してるのは、その結果の獲得喪失(洗練込み)がどれだけ都合の良いものでも、対存在での安易さの現れと見なせるはずです。
注2
本文を認めると、過剰獲得有り様と言える悪意系も含め、防げる冤罪的非難の発生を抑えるには、
社会における上の実存方針である人や、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消を文系事象の受容条件にしてる人の割合を増やす必要があるわけですが、
同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さを解消する能力については育ててる現行教育が、
同種の他との共通要素捨象のケースについても育て、AにもBにも言える事をAに固有の性質としてしまう、
例えば、今何が問われてるかという局面事情を取り違えてるとの意味で内実の確からしくない知性倫理美意識にまで権威を認めてしまう理解力を修正対象にしてくれれば済む話ではあります。
(実際、利己利他対立を前提にした言説も、抽象度を上げるべき局面で明晰化洗練に走り、洗練の成果として見出した抽象度を上げてたなら生じない対立を、
周りが有り難がる評価状況がなければ、ここまで蔓延る事はなかったはずですし、
例えば、客観性欠如が状況把握に支障を来すレベルまでいく為、生遂行と現実との連関をアウトソーシングせざるを得なくなる記憶障害の事例を踏まえると、
主観と客観は対立関係でなく、個別性が根拠になるならないという局面事情に即した、主観の影響力の強弱枠組みがあると捉えるべきでしょうから、疑似問題であり、
主観の個別性に、修正余地なさという受容に値する為の、ひいては、根拠に値する為の条件を持たせているいないの差異の、
埋没に繋がる点で有害である、主観客観対立を前提にした言説にも同じ話が言えるはずです。
ちなみに、主観から客観性を剥ぎ取る事に対し、意義を覚えたり真善美と結び付けたりする発想や、これを前提にした問題意識は、
成功体験故に分離処理を過大評価していて、不当合理と過剰特殊保障の二択に話を矮小化する近代パラダイムの産物な疑似問題として疑えるように思います。)