無題0

社会生活の健全化の点からも、教育現場での不幸な再生産を防ぎに行こう的な話(コミュニケーションへの教育現象の影響にも触れて)

2019-12-004
日本人の対英語に関するスレに一応投稿しておきました。


原理ない状態で達成要件を満たす第一段階、
達成に原理持たせるべくロジック(抽象と具体の関係構造)を見出し洗練させる第二段階、
その確からしさはともかく、何らかの原理をもって達成要件を満たす第三段階があるとして、
綺麗な達成形だけが遊離し全体や別物のイメージ、あるいは、お手本になってるケースが問題と思います。

第一段階(どんな形でもそれさえ満たせば達成)を押さえずに地に足のついてない取り組みになったり、
林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的状態(例えば、原理欠いた生達成)で満足してたりは、
日本の英語教育やサッカー、哲学について散々言われてきた事を鑑みれば、
多くの分野(プロアマ問わず)で陥る事が十分に想像されるので、
非柔軟性、パニック、過大な劣等意識、中身ない評価による表層的関わり、
理想形との不健全な関係と言えるそれらに加え、達成要件やロジックの検討を欠く事による発展障害、
こうしたそのケースの弊害を被りやすいとの自覚が我々には必要なのでしょう。

ところで、英語教育に上のような事情が見られるという事は、
近代化や国際化にまつわる様々なトピックを、上の観点で反省する必要があるというだけでなく、
日本におけるコミュニケーション系の教育現象全般に同じ弊害を疑う事も可能なはずです。
そもそも、内面世界含めた場の管理者ポジションの要件でもある為に、対人評価に際しても指標とすべき、
場の本質(問われるべき事)を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力が、
教える側教えられる側共に欠如してるが故に生じてる事情と言えるので、
言わば、教育の現場で不幸な再生産が繰り返されてきた(手を加えずばこれからも)わけです。

そうした教育状況の下では、
個性(自我や文化やパラダイムにより生じてる偏りの代替不可能化と無関係に差異の達成が語られてる)や、
主体性(最低限の達成にマニュアル必要だったり、あえて最低限に抑えたりで自己判断の抑制も選択肢)を、
理念として学校内外で持ち出す事も同じ理由により有害ですから、
ただでさえ原理欠いた生達成で満足されがちなところに、教育現象がコミュニケーションに対して、
ひいては、社会生活(社会との関わり全般)に対して直接的にも間接的にも不健全さを持ち込んでる形です。

なので、社会生活の健全化の意味でも、先の教育現場での不幸な再生産を防ぎにいきましょう。
算数の文章問題解こうにも、文章中の林檎について、その特質に思いを巡らすなどしていたら無理なわけで、
逆に言えば、問われるべき事と着目無視の合致配慮自体は、小学生でも持ち合わせてると見るべきです。
従って、その能力を現行教育では健全に育てられない点が不幸な再生産の原因です。
特に、同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の内、前者に特化するよう仕向けてるも同然なのが、
近代以降の教育の特徴なので、局面性質に合わせて両者を使い分ける方向へとシフトさせる必要があります。

抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究(性質把握の要、振り回されなさの意味での自由の実質)、
問われるべき事(場の本質)と捨象の合致配慮(次元設定の要、場を越境しない配慮込みで平等の実質)、
この相補的両者によるいらぬ飛躍の除去(通用してる領域、つまり、確からしさの拡大)に、
真偽判定含めた論理性(捨象の特化により矮小化されてる)も、理想と現実の関係構造も、
帰着させる(具体化の前後、場に置かれる前後の関係正常化の問題としてまとめてしまう)。
この方向で教育(倫理教育含む)を再構築し、教育現場で見られる不幸な再生産に終止符を打ちましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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