![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/27669518/rectangle_large_type_2_2d58c042941c80998b7f6a39efbc54b7.png?width=1200)
主観から逃れられないなりの知性枠組み、存在理解、宗教性との関わり、哲学体系の修正について
2020-6-003
科学的や論理的といった概念も、
その局面での確からしさを保証する捨象タイプとアプローチとの、齟齬可能性の高さを齎してる、
同種の他との差異要素の捨象アプローチの領域侵犯と共通要素の捨象アプローチの埋没という知性枠組みに、
人を落とし込む形で持ち出されてるのなら害ありと思います。
そしてそれは、客観と主観、理系と文系といった対立構図(やその無化)でも同様に言え、
本来は、主観に対する捨象タイプの二つの方向性を、局面に合わせ使い分ける関係があるだけと疑います。
また、場に合わさない絶対性、場にその代替不可能な固有性以外も込みで合わせる相対性、
それら(盲信と反動反発)よりも、場の本質にのみ合わせる方が確からしい(通用領域が広い)。
あるいは、理想を割り引く程度が条件上の最小となるように現実を成り立たせるべく、
抽象化や具体化条件割り出しを最大限追究する、
この排安易な志向の下に語るのでなければ、理想や現実を根拠として持ち出すのは害あり。
これらの立場を、ある前提枠組みを認めるならこう言える(前提と同時に成り立つ類含む)という時の、
前提に対する態度として採用する事で、
主観から我々は逃れられないという事実から、上の捨象使い分けへと至る事が可能になると考えます。
さらに、前提枠組み(の絶対性の否定)に対するその態度を、対有限性の一種と捉え直し、
かつ、論理展開を、通用が全体に行き渡ってる状態を保存しつつの局面に合わせた表層変化と見て、
加工作用(場と齟齬のない有限形に規定)の確からしさ問題と解する。
以上の二つから、我々が無条件レベルで前提として持って良い(頼って良い)のは、
有限性(内外境界)と通用領域に関する比較や選択性と想像されます。
ここで、通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、
我々の認識はこの二つを、何かについての確からしさを問うという形で限定的に展開してるだけであり、
限定される前のそれらが、確からしさそのものである無限性に当たる上、
抽象と具体の行き来(歴史性)によって確からしさは向上や確保が果たされる、
つまり、無限性は自己足るべく有限性(有と無の差異含む)を要請する。
そう解せるならば、主観から逃れられない事実に立脚し、逸脱しない様を実際的と呼ぶとして、
後段は認識の構造の拡張の範囲に抑えた、実際的な存在理解や宗教性との関わりを意味し、無条件の前提は、
無限性だけ(自己に資する、沿う有限性に要請が限られてれば、絶対性に加え相対性も否定)とも言えるはずです。
我々が負うのは、無限性への限定作用(無限性と場との内在外在関係)についての確からしさ追求
(場の性質把握の精度最大化を担保する、ある種の相補性の保持)のみで、
体系(概念の理解内容含む)が場の本質を損なわない形では組み上がってない場合の修正圧力もその一環。
理想と現実の関係、主語と述語の関係を、場に置かれる前と後の関係正常化の観点で捉えなかった、
当然、抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(の下での抽象と具体の行き来)、
問われるべき事(場の性質)と捨象対象の合致配慮、この両者の相補性でもって関係正常化を図る事もなかった、
プラトンやカントの体系の修正も、その文脈で為されるべきだろうと思います。
いいなと思ったら応援しよう!
![欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/20187017/profile_f329feb0d2c5830ec2986250a587faca.jpg?width=600&crop=1:1,smart)