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4067文字、カントの権威は、どのような意味で修正されるべきかについて

2023-9-004

カントが偉大であるにせよ、理想現実関係に関する疑似問題からの脱却機会をガリレオ以降も文系では逸してきたという文脈が、
標準化されない限り、位置づけには過大評価の側面(修正余地)が含まれ続けるのでないかと思います。

数学で自然を説明する事になったガリレオ以降の理系では領域全般で、理想現実関係(特に、プラトンとアリストテレスの間の上下論)が、
抽象化具体化の交互反復として捉え直されてる形である上に、実験精度向上の側面をナチュラルに伴わせてるのに対して、

ガリレオ以降に理想現実関係を直接取り上げた形でありながらカントは、上下論の域を出てない
(知性面については理想切り捨て、倫理面については現実切り捨て)と言えるでしょうし

(個別性が根拠になる局面における理想現実関係を、同種の他との差異要素捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消の対象としてれば、
自然言語における主語の切り出しや主語からの述語の切り出し、さらには、両者からの意味の切り出し、
ひいては、文系的局面における論理展開、これらもその方向で捉え直されるはずで、この観点からも冒頭の文脈は対カントで重要と思われます)、


仮説検証の交互反復と同等の枠組みを、文系に持ち込んだ形であるヘーゲルはしかし、
検証に開かれてるだけでは改善上限に繋がる事も、改悪に繋がらない事も保証されないにもかかわらず、実験精度に相当する具体化精度の高低に合わせた扱い差異を組み込めてない
(内実確からしさが上限なもの同士でなくとも、表層の反転関係でもって統合対象になってしまう)のに、

この点が現在に至るまで修正されてない(妄信は妄信対象の歪みをそのまま継承してしまう一方で、
歪みを掴み切れてない批判は反動反発の類であって、この場合、質の差異を語れない点は保存されてしまうのに、
冒頭の文脈の不在が批判をこの類に留まらせてる)せいで、文系地平は矮小化され続けてるとも言えるように思います。



実際、ヘーゲル後の主流の一つだろう、ラッセル系譜は美味しい林檎も不味い林檎も林檎は林檎だ的理系的処理センスを、
文系的局面に持ち込んでる以上、個々の個性が疑似化してるかどうか(文系的具体化精度の差異)についての検討は射程外でしょうし、

同様に、ニーチェ(先のカントとの対比で言うと、知性面、倫理面ともに理想切り捨てであるように思える)の系譜も、体系化否定のアプローチであれ判断停止のアプローチであれ、
実態露呈に留まる以上、実態が疑似化してるかどうかについての検討は射程外(具体化精度向上が中途半端)でしょうから、

個別性が根拠になる局面での個別性捨象と個別性内実無検討の二択地平のままでも、文系権威でいられる環境の原因にそれらは、哲学の権威と相まってなってると言えます。


また、マルクス系譜も、宗教否定と宗教肯定という表層上の反転関係はあれど、秩序を担う立場になると個人の精神(国家の権威や科学の在り方も)を縛る展開となる点
(各々の課されてる条件上の上限であるという受容条件ラインから見て、高くても低くても、

極端であるほど、現実との間に齟齬を来す類の介入が、帰属操作の規模拡大に歯止めをかけるべく必要となるだろうに、得る資格を開いた点)が中世ヨーロッパと共通であるのと同様に、
観念論を唯物論や実践重視へと表層形反転させたところで、ヘーゲルに関する先の修正点を保存してると見るべきでしょう。



例えば、自分のついた嘘によって自分の行動が縛られるという事態への対処に、
昨日の自分と今日の自分は事実上の別人である的な分断をもって過去への責任を避ける、という戦略があり得るとして、

確かに、同じ本を5年後に読んで前回とは異なる印象を持った的現象はあるにせよ、オオカミ少年的な事態が想像される為、
過去も現在も未来も、責任はその時点で課されてる条件上の上限との乖離部分にだけ生じる
(子どもなら子どもなりの、怪我してるなら怪我してるなりの、異なる時空に置かれてるなら異なる時空に置かれてるなりの上限以上を求めない対人関係像や対テキストと整合的)と捉え直す、

つまり、その時点での上限を紡いだ歴史であれば、変化不変化の程度によらず受容に値すると見なし、
理想を犠牲にする程度を最小にしてる現実(代替不可能な内外事情にしか応じない実存による対真善美や対無限者など)をその上限、したがって、受容に値する歴史の構成要素とする事で、
変化と放縦の結び付きも、過剰な連続性も、同時に抑えるという修正が必要に思われます。



しかし、この修正は、抽象化具体化の不十分さ解消を歴史性に導入してる形ですから、ヘーゲル歴史観の採用者はそれを更新せざるを得ないわけで
(もちろん、カントの場合、理想を割り引く現実というプラトン的指摘を、認識に対する理解に持ち込んだ時点で離脱不可となる、
割り引き加工というある種の嘘を認識が都度生み出してる事態に関する収拾を、人間形式の共通性をもってつけてる形でしょうから、

個別性捨象故に、個々人の、ひいては各人都度の、認識場が疑似化しているいないという具体化精度問題は射程外)、
逆に言うと、疎外現象や物象化現象を指摘できたところで、マルクス系譜には、局面変化に即した過不足ない形式運用を期待できないと疑えるはずです。



同様に、先の受容条件ラインを、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてる事と言い換えると、
ライン下げの否定には、個別性捨象的な方向で、抽象化具体化の不十分さ解消による帰属関係の修正余地なさの達成と関係なく、倫理を語るカントの対人イメージを更新する必要がある為

(認識対象が認識場に合わせて加工されてる像の一方で、現実事情に合わさない倫理像を採用してる以上、
カントの体系は場に合わせる加工を原理としては持ってないと言えて、内在場と外在場のこの非対等性には、

問題解決という抽象像から自己絡みを切り出してくるか他者絡みを切り出してくるかは局面次第、といった態度の不在の意味での非平等性も、
実存に対する抽象化具体化の不十分さ解消の結果、つまりは、上限としての帰属修正の結果である先の実存へと至るルートの遮断による、
その実存ではない者同士の間の関係が協調形競争形によらず持つ帰属操作側面の受容強要、
および、内在場の性質を仮説として見た時のその実存が内包してる仮説改善機構の奪い去りも、含まれてる)、


今なお系譜が権威を持ってるそのイメージに対する更新(イメージ採用者に対する、疑似問題に振り回されてる扱い)を妨げたり、
逆に、文系的局面における同種の他との交通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さの、
解消方向とは関係ない類のカント乗り越え(疑似問題の着せ替え誘導)を図る系に付き合わされない為にも、

冒頭の文脈の標準化、および、それによって可能になる過大評価部分の除去が、文系空間には必要であると考えます。



個人的には、人間性(人間形式)は次元設定自在性の事であり、これは相対主義的事態に収拾をつけてくれるものなのではなく、
自在故に容易に振り回されてしまうという制御問題のデフォルト性を意味していて、

この振り回されを根本的に抑えてくれるもの(人間性を生かす為の、あるいは、人間性に溺れてしまわない為の条件)が、
局面と着目無視との合致(何々し過ぎな過大反応も、何々しな過ぎない過小反応も、捨象されてる状態)への志向であると考えます。

この観点から冒頭の文脈を捉え直すと、抽象化具体化の不十分さ解消は、同種の他との差異要素捨象としてはあるけれど、同種の他との共通要素捨象としてはないままであり、
これは、個別性が根拠にならない局面では前者捨象を持ち出し、なる局面では後者捨象を持ち出す使い分けの不在による、との指摘に他ならないわけです。


カントは、個別性が根拠になる局面に前者捨象を持ち込んでる形の倫理や文系論理を、現在まで継承させた立場であると共に、
方法的懐疑もその相関に拠ってるにもかかわらず、通用領域の広狭と確からしさとの相関を第一原理

(否定反応も、通用が行き渡ってないとの判定の現れなので、ここから逃れる事のできる認識者はいない認識前提)としなかった為、
次元設定自体に対する確からしさ判定が不問なまま主観が根拠になれる状況に繋がったという、
デカルトの歪みをそのまま継承した立場でもある、との位置づけを押さえましょう。



カントレベルの権威者だろうが、学問自体だろうが、倫理とされてきたものだろうが、抽象化具体化が不十分な状態にあるものはすべて
(例えば、場の上に立ち上がってる体系に対する、場の疑似でない個別性と整合してるものへの否定や整合してないものへの肯定は具体化精度不足であり、

場には当然、自他の内面世界も、単に人数数えるだけといった内実を気にしない局面も含まれるし、
個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象を機能させられない段階では上の整合不整合の把握精度が低く、

場の上に立ち上がってる体系の内、文系事象に対する、その段階にある人によって為された肯定否定は、
局面次第でしかないものを局面に合わせられない、当然、現象からどの側面を切り出してくるかも局面に合わせられない結果の産物への肯定を意味する為、ここで言うすべてに含まれる)、


修正余地を持つ、課されてる条件さえ許せば修正しにいくべき(いかない場合、抽象化具体化不十分状態が意味される)対象なのであって、

この意味での問題解決から切り離すという意味での矮小化を、哲学に強いてまで、修正余地を保存するなら、
問題解決の原理を持たずに、個々の問題解決の一つとしての哲学に取り組んでるという、形骸な哲学行為の証拠と捉えましょう


(帰属修正の一種でしかない特定の倫理行為を、帰属修正の原理とは、つまり、抽象化具体化の不十分さ解消とは無関係に推奨するのは、
林檎を数えてるのにそこに数を数える側面が十分には内包されてない的な、形骸物に満足を覚えさせる帰属操作への誘導に等しいと見なしましょう)。

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