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文系の学問観や教育観を理系並みの内容(いらぬ飛躍除去に対する厳格さ)に持っていきましょう、という話

2022-12-001

数学を用いて自然現象を説明する場合、当然、具体化条件割り出しに問題(入力に不備)があればるほど飛躍が生じますが、
抽象次元の拡張(数学追究)だけ見ても論理飛躍の有無は厳格に問われてるわけで、

理系は、抽象化具体化の不十分さがその時点で可能なだけ解消されていれば良い、
という過去現在未来観(表層形によらずそこの解消具合でしか肯定否定されないという意味で、表層形断罪を防ぐ平等観から成る歴史観)が、
結果的に機能してるし、学問観や教育観の内実にもなってる(条件上の最善を超える過剰な要求などの、疑似問題化が防がれてる)と言えるように思います。


一方で、抽象次元拡張にも具体化条件割り出しにも、その時点で十分防げる類のいらぬ飛躍
(理系的処理の領域侵犯による個別性の内実不問化込み)を許してるのが文系の現状、

例えば、政治経済の語られ方(民主制や市場が実態主義、つまり、場の性質に反映される個々事情の内実が不問である、
それこそ、できなくて良い事得なく良い事が有る点、あるいは、それらが存在と引き換えな内在性質外在性質の反映であるかどうかが顧みられない現状などは、
上で言う入力不備と同じ事態)と言えるように思います。


この原因は、同種の他との共通要素捨象への厳格さ、同種の他との差異要素捨象への厳格さが、
文理それぞれの前提になってない(後者しか養成しない既存教育が、前者を要請してる局面での後者の持ち込みを許す原因の一つになってる)という、局面と着目無視の不一致問題


(認識的な自由平等の失敗とも言えるその不一致は、場の尊重に関する、
さらには、対有限性で言えば、理解限界や死といった有限性個々具体への反応差異を、もちろん、特定の個々具体への固執を、
林檎は数えられないのに蜜柑は数えられてるつもり的有り様から解放するものでもある、抽象化具体化の不十分さ解消自体に関する、
抽象化具体化の不十分さに遡れるので、

理解や実力は、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像に過ぎないとして、その像に対するより確からしいものが取って代わる運動性への阻害の最小化、
理想を割り引く程度を現実が成り立つ範囲で最小に抑えるもの、帰属関係の修正を何に対して取り組むかという特化の過不足を縮減するものとしての、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像から成る生を内容とする、
それの達成度に論点を見る認識観や実存観の不在の弊害と疑える)、



そして、その不一致の結果である、
場次第性の無視はもちろん、都合反映や実態尊重のようにその疑似化(事実上の他場の性質の被越境であり、場に置かれてるものにとって負わされる筋合いのない影響部分)の許容故、
場の個別性(ひいては、その場に置かれ、ポジションなり具体的有り様なりについて、つまりは、現象の仕方について場の影響を受けるもの)を尊重してるとは言えない有り様が、

次元設定自在性という人間性に、つまりは、捨象の精度や維持を生かして問題に対応できるせっかくの自身の形式に振り回されてる宝の持ち腐れの点で、
理系で言うところの2+3を10や100と言い張ってる的状況と同列視されてない状況にあると思われます。


そしてこの問題は、近代以降においては、観点なり認識場なりの個別性の疑似化問題を埋没させる、内実不問な主観
(通用領域の広狭と確からしさとの相関に頼ってる認識作用が、優劣付けに内実の確からしさを持たせる働きの不在故、
より確からしいものが取って代わる運動性にしか頼ってない形になってない、という意味で肥大化した自我)

の始点化(要するに、デカルト)に、遡れる類の内実不問的肯定(意見選抜や感情選抜をはじめ、場の疑似でない固有性の反映でないポジション振り分けを擁護するなどの、
知性や倫理を帰属修正と見た時の形骸化である、内実不問な個別性保障が先立つが故の帰属操作、

あるいは、上の運動性を無限性と見るとして、無限者と有限者の関係正常化不全の下での判断)、

加えて、優劣問題に通用してないと後に判明してる理論群(ここではカント、ヘーゲル、ニーチェを想定)がなおも影響力を有してる過剰権威
(理想と現実の関係、および、主語切り出しや主語述語関係を、同種の他との共通要素の捨象を用いた先の解消問題として捉え直す事によって捨象できる疑似問題)の形で、

現象説明を歪めてしまっているのだと考えます。



ところで、善悪の話が、いらぬ飛躍の有無と関係なく展開される原因の一つに、
次善の策を認めない、余裕のある局面でなお次善の策に頼り続ける、この両者の同時否定という観点の不在があるように思います。

理想と現実の関係が、抽象化具体化の不十分さを解消してる状態の反映であれば良い、
との理解の不在の下に、過去や現在や未来が語られてしまう、対局面が処理されてしまう点で、

常識やパラダイムとの付き合い方(特定時空に合わせた加工処理との向き合い方)にも同じ問題があって
(テキスト解釈が、課されてる条件によらず条件上の最善を求める平等観から成る歴史観の不在故に、読み手時点の絶対化や書き手時点の絶対化の側面を帯びてしまう問題にも言える)、


対近代に際して、デカルト等の過剰権威部分が修正されない、
特に、優劣問題が、受容に値するだけの内実を優劣に持たせる話(扱われ差異、振り分け差異の問題に拡張可能)にならないのも、
文系がそこの解消に問題対応の焦点を当てていない弊害と言えます。

(そこの解消は、対象から疑似問題に相当する部分を分離させるのにも、
つまり、既存権威へのその問題点を取り出さないまま、あるいは、取り違えたままの肯定否定、オリジナリティの主張のような、単なる否定以外のものも含むそれ、
特に、近代の外に一歩も出てない類の新しいもの、より確からしいものの提示が繰り返される歴史を終わらせるのに、必要です。)



とはいえ、同種の他との共通要素を捨象する(存在と引き換えの要素を個別性から取り出す)能力が機能してないなら焦点を当てても、文系的な解消には至らないわけで、

しかし、その能力が機能してる人は十代であろうと、例えば、真面目という表層形を取り上げた場合、
それと不真面目という表層形とを個々具体とする抽象次元にその捨象を用いて遡り(不真面目という表層形を取り上げた場合でも同じ)、
それに付す具体化条件(その捨象を用いて割り出されたもの)次第で表層形が決まってるのなら問題ない、という内容を、

つまりは、先の解消問題を、表層形の選択肢確保と結びつけるだろうと期待できるのに対して、

その能力が機能してない人は知的権威であろうと、選択肢確保(自由や平等)を、内実に疑似化を許してる状態と結びつけてしまい、
具体化精度の確保に対し、つまり、内実不問を否定する有り様に対し閉じてる感、通用が行き渡ってない(選ぶに値しない)感を覚えてしまうだろうと想像されます。

(前者が、表層形でなく帰属の修正余地のなさを論点とする事で表層形を開放してるのに対して、
後者は、存在と引き換えの要素に帰属してないものもそれに帰属してる事にする余地を護ってる形なので、帰属操作、もっと言うと、奪い合い世界を前提にしてるも同然であり、
内実不問は表層形断罪を引き出すものでもある為、後者的有り様が不当格差や差別反応といった問題の本丸と疑える。)



したがって、局面と着目無視との合致(認識における具体化精度確保)の要求は、客観視とフェア志向とを同列化するレベルでは通らない可能性がある為、
その通らない原因と目される部分を潰すべく、共通要素捨象の確保を選択肢確保に先立たせるよう働きかけていく事が、

具体化精度の確保の下に、場に置かれるもの全てが結びつく世界
(管理者立場とプレーヤー立場で言うと、それぞれがその確保に向けて協力し、この観点からの要求は引き受ける社会、
管理に対して、ひいては世界に対して、誤魔化しでしのぐのとは逆方向の有り様)を、

不当な扱いが生じてない、負わされるに値しないものを負わされないという意味で理想とした時の、
理想を割り引く程度を現実が成り立つ範囲で最小にする振る舞いに相当するのでないかと思われます。



注、

余裕の有無によらず次善の策を認めない(カント的な)人が、テキスト解釈において書き手時空の持つ価値観を無批判的に扱ってる(相対主義的態度)場合、
もっと言うと、対象理解が実態主義に留まってる場合、先の構造から、自分が自分を認めてない形になる気がするのですが、

こうした事態も、倫理と文系知性を個々具体とする抽象具体関係構造が、実力評価の対象に含まれる方向への文系空間の修正をもって、十分防げるのでないかと推測します。

ご支援の程よろしくお願い致します。