振り回されの正負同時抑制が内実の自由と整合的かどうかで、頭の中や社会における体系を肯定否定し、目指す秩序の形を定めよう
2020-8-006(005の補足)
人生哲学に関するスレへの投稿内容:
資質にも環境にも代替不可能な要素にしか応じない(振り回されを正負共に阻止)配慮の下で、
脳にインストールするもの(枠組み的な何か)しないものを決めてる
(その配慮があってなお引き受けるに値扱いの内在外在性質と、齟齬のない体系を立ち上げてる)なら、
当然、それは教育で与えられたり求められたりするもの(態度含む)との距離取りの方針ともなってきます。
(そこを自己判断で決める場合、厳密には捨象対象の選定偏向というパラダイムレベルの問題があるにせよ、
要点導出、内在場外在場の要点から乖離しない形での差異への大騒ぎと見て見ぬ振りの同時否定、
それらがある程度可能なら、小学生でも自己判断可能なだけの実力はある程度あると見込んで良いはず。)
インストールしてしまえば点数取るには効率が良いものも、上の配慮の下で受け入れる受け入れないを決め、
脳にインストールしないものもある中で取りに行った点数で良しとする、
学力で言うと、これを質を犠牲にせず保障しつつの学力(形骸でない学力)と見るべきだろうに、
この種の観点(いらぬ特化の除去)を既存教育(その結果を評価する側も)は欠いていて、それが、
同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象の価値非対称(場と捨象の齟齬に鈍感)という難
(恐らく、絶対性について培った感覚と相まって、表層反転レベルの解決に留まってしまう原因)を持つ、
近代パラダイムそのままの知性による蹂躙を許してる一因でもあると考えます。
確かに、偏りを持った形でしか他者なり世界なりに接する事はできないけれど、
自分は己の偏りを代替不可能な代物へと持ってく(負わせるものに確からしい根拠を与える)配慮欠く一方で、
外界から受ける限定作用に対しては、それに混入してる代替可能要素の程度と無関係に嫌がる、
という構図はご都合主義(確からしい根拠を欠いた利得、とはいえ単なる我慢では表層反転)なわけで、
このご都合主義(通用が行き渡ってる原理への収束逸失による大騒ぎ状態)を回避するルートが、
あるにもかかわらずそれを選んでない点は、人間(の属性)という括りに負わせる話でなく、
一個人という括りの責任(思うに、不当な扱いというものへの抽象化の不十分と関わってる)であるはずです。
フェアな割り振り(問われるべき差異のみの取り出しが保障されてる、茶番でない割り振り)が、
あらゆる場(性質変化もある)で展開されてる状態に近付くほど、泣き寝入り強要が、
(反転化に過ぎない見かけの減少でなく)総体として減じてく、
生じにくい環境(当然、自分が不当な扱い受ける機会も根元から減)になってくとするなら、
場の管理者ポジションについての要件意識の(先の差異取り出し保障と整合的な内容への)捉え直しと共に、
上のルート選択を阻害してる枠組みの(振り回されの正負同時抑制が内実の自由と整合的な)組み直しを、
働き掛ける内容が、秩序改善の本筋であり実質でしょう。