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対社会が過小要求でも過大要求でもないような、社会との関係性について(対神や対真理にも応用)

2022-9-007

自身のいらぬ特化を避けるよう促す教育の不在は、対獲得や対喪失でのそれをはじめ、文系的ないらぬ飛躍を除去する能力が不全なままの人達
(問題発生状態に対し気付いてなかったり取り違えてたりで、確定不確定のバランスをいらぬ飛躍のない形にとれないなど含め、問題解決に過不足を許してしまう人達)
によって社会が構築されてる、という事態を齎してるとも言えるので、

余裕等の有無に関係なく社会の現有り様に対し合わせるよう、あるいは、受容するよう促す働きは、
いらぬ飛躍の保存を、外在への過小要求を強いてる形であるように思われます。


他方で、社会に対し合わさないよう、受容しないするよう促す働きは、文系的ないらぬ飛躍の除去も不全でない人達によって構築されてる社会でないから、という点以外の理由を許してる場合、過大要求への誘導、

どちらも負わせるに値しないものであるAとBの闘争状態への誘導(いらぬ飛躍の縮減を妨げてる)と見なせるように思います。

両者は社会に関する場に合わせる合わさないの二択の関係ですが、その関係を場と捉えてそこに合わさないとする反応も問題発生構造自体(いらぬ飛躍の保存)は変わらないので、
場に合わせる合わさないの二択地平(文系的な具体化精度問題の埋没)が一掃目指す対象と想像されます。



したがって、主体で言えば、内在事情外在事情の代替不可能な要素にのみ応じてる像の帰結(獲得や喪失もその像と整合的である)と言える時、その有り様はいらぬ飛躍がない
(当然、自己含め対象の有限性形態がどうであれ、その像でないという点でしか対象を、
負わされるに値しないものを負わせてくる形で存在してる状態扱いできないの意味で、否定できない)とするとして、


対社会(もちろん、対市場や対民主制に応用可能)は、上の不全でない人達によって構築されてる社会という地点
(負わされるに値するものだけから成ってる世界、および、その世界において達成される尊重、
言わば、各人の内面世界や、自身を具体化条件とした時の自身の内在事情外在事情を含む、場を疑似化から解放して保障する類の尊重)

からの乖離部分への否定反応を、件の像の下に具体化してる時、
件の像の下で社会に合わせたり合わさなかったり、社会に修正を働きかけたりかけなかったりしてる時、
過小要求でも過大要求でもない関係(目指すべき態度)になってる、と解せるのでないかと思います。



また、対神や対真理も、同様の修正によって獲得観に由来する歪みを抑制可能と期待します。

内外境界意味する有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、
これらに帰属がある現象は、帰属に修正余地がなく(問題発生状態でなく)、引き受けるに値するものと言えるとして、

場の疑似化を剥いだ固有性にのみ合わせた帰結(割り引かれるか割り引かれないかの疑似問題反応に代表される、場に合わせる合わさないの二択の否定)は、その現象に相当しますから、
割り振りがその帰結である事が、獲得や喪失の少なくとも理論上の受容根拠と見なせるわけです。


したがって、有限性故に避けられない類(負わざるを得ない類)の不幸とは異なるいらぬ不幸を取り除く働き
(帰属の修正余地を潰すものである為、自由や責任、条件下最善のような自己帰属範囲と関わる概念の実質としての所在だろう、いらぬ有限性を取り除く働き)をするのはその運動性であると解しつつ、

その運動性を無限性と読み替えれば、対神における過大要求過小要求は避けられるように思われます
(フィードバックのイメージを重ねる事で、有と無の差異をはじめとする、有限性の登場原因をその意味の無限性に帰する事ができると期待してます)し、

その運動性を場の性質把握に対して働かせて得たものと、場に置かれたもののポジションや具体的有り様との整合に、
要求(する尊重の内容)を限れば、救済機関や保護対象の管理者ポジションへの要求も、過大過小を抑えられるはずです。



主語の切り出しや述語への変換に、相当する処理に関する先の帰結(観点に対して上の運動性を阻害なく展開した上で、通用領域の広狭と確からしさとの相関を持ち出した帰結)が、

認識のその時点での獲得上限(ここからの乖離だけを修正対象としてれば、認識主体への過大要求過小要求は抑えられてる形だけれども、
修正できていようと、具体的扱いはあくまで場から受ける整合次第)であると解せば、


対真理(原理抽出を含む対帰属関係)なり対テキスト(対歴史)なりを、相対主義化や絶対主義化させる、
つまり、どちらであれいらぬ飛躍の有るものを無いものかのように押し付ける泣き寝入り強要な内容化
(自身が不当な扱いを生む事への鈍感さは、対概念におけるその発生を含んだ思考しかその人ができない事を意味する)させる事もない

(逆に言うと、場に合わせる合わさないの二択地平である限り、そうさせてしまう)わけです。


(これまでの文系場は、形式論理に代表される、理系的捨象センスの領域侵犯を、
ひいては、取り違えた着目無視設定の下で通用の行き渡っているいないが判断される冤罪を、許した形で立ち上がってるので、

不当合理と過剰特殊の二択地平を乗り越えるのに必要な、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいないの区別が、
例えば、無自覚的なもの含めた諸々の獲得の結果である有り様、着目無視設定の根拠にしてる局面把握、
内実の確からしいものにしようとする試み自体は小学生でも可能な為に年齢が言い訳にならないこれらについての、つまりは、いらぬ特化阻止を可能にするそれが、

対文系思考、特に、文系事象なAとA以外との境界差異を仮説と見た時の、仮説形成と検証実験の関係に相当するものを、精度最大化された抽象化具体化の交互反復な内容に持ってく試み、
これが果たされてないと修正が十全に機能しない為、修正前提というていがご都合主義を押し通す為の偽装工作でしかなくなるその試み、

における焦点になってると想像されます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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