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3211文字、存在論に遡った場合に肯定される文明の条件について

2024-12-006

有と無が完全一致でない場合、互いに他方を外側に持つ為、存在は有限性に帰属してると言えます。
なので、資質なり環境なり何らかの事情から存在論に取り組んでる、かつ、帰属関係に修正余地が残っているいないと問題状態解決状態とが一致してる

(デカルトは実態露呈で止まったわけで、対象が実態だろうと理念だろうと修正余地を覆い隠してしまわない)との意味で知性が機能してる人は、
全体における有限性の位置(始点なのかどうかなど)に言及してない存在論に対し、帰属関係の修正余地を潰し切ってない段階のものであるとの判断を下すはずです。


個人的には、歴史性は抽象化具体化の交互反復から成っていて、この交互反復(同一性と変化性の同時達成)は単なる変遷だけでなく、
抽象化具体化の精度が最大である時に抽象次元の確からしさ向上が最大になるという側面も持つ、

この構造における抽象次元に限定通用状態を常に免れてるが故に常に確からしさの上限である無限性を、具体化結果に有限性有り様を置く事によって、
有限性の位置、および、有限性有り様が具体化精度最大時の産物である必要性が説明されると期待してます。

また、この流れで、世界に対して有限的な形でしか関われない有限者性を負ってる認識は、
人間種の認識システム(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた評価を、
自我という内在的問題解決スタイルと文化という外在的問題解決スタイルから成る傾向を着目無視に持たせつつ、次元設定自在性の下で駆使するアプローチ)を生かし切るという観点込みで、

より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害を最小にしてる限定性の一種である、代替不可能な内外事情にしか応じない実存
(取り違え最小な局面事情と着目無視設定との合致状態の維持という、次元設定自在性に振り回されない為の要件を内包してるこれ)、

この体現具合が論点(認識に際する割り引かれの発生自体は認めつつも、割り引かれに修正余地なさを持たせる事ができているいないを問題とする枠組み、
絶対主義的安易さと相対主義的安易さを同時回避するこれをもって捉えるべきもの)になると考えます。



ところで、精度の低い実験結果を真に受けると仮説改悪に繋がる以上、具体化精度確保を知性倫理美意識の像構築やその像の下での使用に先立たせる必要がある為、
具体化精度確保の不在は、その人の知性倫理美意識が機能してない(修正余地のあるものをないものと同等に扱わせる働きを持ってしまってる分だけ、
より確からしいものが取って代わる運動性と整合的な意味での真善美との架橋に阻害が生じてる)証拠になります。

理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実でもある上の実存は、具体化精度確保の一種です。
つまり、知性倫理美意識が機能してる人(場の実態でなく、場の本質に合わせるし、場の本質の保障を損なう内容の理念、
例えば、先の合致状態を越えてまで自他を助けにいったり、解決しにいく内容の理念に与さない人)が存在論に取り組んでも、上のように解釈すれば、

自身の有り様を否定する結果(内面世界が持つ偏りについて、代替可能不可能を問う対象とするのでなく、これ自体が否定されるものとする結論込み)にはならないし、
先の体現が認識(知性倫理美意識)の受容条件となる以上、知性倫理美意識の産物(文明という規模込み)の内、
先の体現(理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実の実践やその集積)を損なってないものまで否定される結果にはならないと考えます。



例えば、向かい風か追い風かはともかく、Aさんは強い風を、Bさんは弱い風を受けて、何らかの印象を持ったかも持たなかったかもしれないとして、
両者はAさんBさんをそれぞれ内在性質とした時の外在性質が異なるわけですが、
Aさんが強い風を受けたのをBさんが見たケースでは見た事で得た情報も外在性質を構成すると言えます。

いずれにせよ、こうした事態は代替不可能な内外事情にしか応じない実存(局面事情と着目無視設定の合致込み)であれば解決状態であり、
そうでないならこの場合の内在性質と外在性質の統合結果として生じてる反応には修正の余地があるというだけです。

対して、通念的な善悪観や自由観や平等観に現象を落とし込む枠組みは、善悪や自由不自由や平等不平等の差異と、確からしさを上限化させた反応であるかないかの差異とが重なってる分には問題ないけれど、
重なってない事例であるほど有害なものになって(修正余地のあるものをないものとして、あるいは、修正余地のないものをあるものとして扱う程度が大きくなって)しまいます。


なので、可能なら(可能でないケースではその枠組みは、余裕がないという局面事情において要請される次善の策として、ある種のマニュアルの立ち位置になる、
もちろん、独自な倫理観が通念的なものと比べ、より重なってる場合もより重なってない場合もあり得るし、知性観や美意識観でも話は同じ)、

場の性質把握の取り違えが小さいほど、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を持ち出す際の観点も正確で、選ばれる反応は形骸でない確からしさ判定の産物になる、
かつ、場の性質把握に関して理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実である
(つまり、これ以上を求めるのは疑似問題)と言えるのは、代替不可能な内外事情にしか応じない実存によって為されてる時である、

この具体化精度確保が論点になってる理解枠組みに差し替えるべきと考えます。
(この差し替えは事実上、個別性が根拠にならない局面では個別性捨象が要請されてるのに、
個別性が根拠になる局面では個別性の取り違え最小化、つまりは、個別性でないものの根拠化の阻止が要請されてない既存の世界、および、それに疑問を抱かない有り様との、

例えば、内実不問な個別性根拠化を齎したデカルトの傾向と個別性が根拠になる局面にまで個別性捨象を持ち込むカントの傾向、
この一方への批判にかこつけて他方を押し通すロジック、内実不問の点で同じである両者の上下論故に、抽象不足からくる井の中の蛙的な取り違えが生じてるこれや、
両傾向の保有状態を全体であるかのように見せるロジック、両傾向に対する個別性捨象故に、後者傾向の拡張でしかないものを両傾向の対立克服と見なしてるこれが、まかり通る状況との決別です。


なので、差し替えに際しては、個別性が根拠になる局面で個別性の内実不問な言動を見せる文系者が、
形骸な知性倫理美意識の持ち主、および、文系事象に対して繰り出される批判には必ず冤罪的側面が含まれてる冤罪メーカーとして扱われる世界との整合がより高まるよう、次の理解も押さえる必要があるように思います。

表層の洗練具合を論点にしてるなど、表層次元を生きてる人が通用の行き渡ってる状態を求めると、
割り引かれや優劣関係の発生自体が否定されるべきものになる、例えば、標準扱いされてるものとは異なるルートによる成立という閉塞状態開放それ自体で満足し、検討が止まるのに対して、

歴史展開や論理展開であれ選抜であれ無意識系への尊重であれ、具体化精度確保が論点になる内実次元を生きてる人が通用の行き渡ってる状態を求めると、
割り引きや優勢劣勢有り様は、場の本質を場全体に行き渡らせる内容の整合として生じてる場合に限って肯定されるべきものになり、

場に合わせる合わさないの表層形反転二択である相対主義絶対主義の対立関係は、
この整合を、ひいては、場の本質に合わせるという具体化精度確保を阻害する枠組みの一種で、対有限性の論点を掴み損ねてる知性倫理美意識の現れとして扱われるべきものになり、
有り様を修正する力を用いるにせよ受容するにせよその根拠が、主体によらず、また、管理者立場の時かプレーヤー立場の時かによらず、場の本質の発現阻害の縮減に限定されてる世界を体現する形になる。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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