社会的強者によるアンフェアと社会的弱者によるアンフェア、扱いに不当な差が生じるのを防ぐには、抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究が必要
2019-6-003
社会的強者によるアンフェアと社会的弱者によるアンフェアに対し、
対アンフェアを原理レベルで扱うべく抽象化させてるか、
局面事情(具体化条件)と無関係に両者の扱いに差をつけるか、
カバー領域の広狭と確からしさの相関に厳格なら、
前者を選ぶはずです。
前者への道を閉ざすせいで倫理不全の原因ともなってる、
リベラルに悪意なく親和的な人達には、
その厳格さを持ってもらいましょう。
例えば、人種の差異に言及していようと、
局面の本質的性質(問われてる事等)と着目無視(次元設定)が、
一致してるなら妥当、
こうした理解、つまり、
場の本質に即した扱い(損得の割り振り含む)への支持を欠くから、
先の後者の形となり、逆差別のような事態も生まれるわけです。
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げるよう、
場の管理者に要求するのではない倫理的働きかけに、
寛容な人に対しては、
先の厳格さを求めましょう。
また、悪意を持つ人も、
Aにしか勝てないよりもBにも勝てる方が強いといった、
通用領域の広狭と確からしさの相関を根拠にしてる点は、
持たない人と同じですし、
土台に問題があれば、その上に構築したものもその反映を受ける、
この事についての理解もあるわけです。
つまり、悪人は、
そこの理解の抽象度(捨象の対象となる具体形パターンの網羅程度)が低い為に、
何についての確からしさが問われてるのか、
という次元設定(着目無視)を違えてるだけであり、
先の相関を見る対象についての抽象度
(確からしさを見る対象、という枠に関する確からしさ)が、
低い(先の厳格さの欠如含む)だけです。
結局、悪意の有無によらず、
先の相関(より確からしいものに差し替える運動性と合わせて第一原理)を、
働かせる領域を制限する要素、その最大限除去の欠如が、
特に、自己における資質や環境、内面や局面の代替可能要素を、
削ぎ落とす捨象(同種の他との共通要素の捨象)を怠ってる不誠実さが、
倫理不全の根本原因であるわけです。
また、近代以降の世界の歪みも、
デカルトにおける先の相関への中途半端な在り方を、
デカルト以降も保存してる点が原因と言えます。
疑える疑えないについて、
デカルトが、通用領域の差を厳格に見たのは事実ですが、
井の中の蛙による対象(自己や局面含む)規定の形を、
薄めているいないの差を見ない個人観、
先の相関以上の事は言えないところを、
局面事情次第では確定的に扱うだけ、との形でない実在非実在観、
こうした側面を強めるだけの要素を彼が持っていたのも事実です。
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究という枠組みをもって、
先の相関と次元設定(具体化条件である、場の性質)の関係も、
論理飛躍の除去の重要性を提起(知の実質という論題含む)した、
ソクラテスへの回答も、
包含した先の相関への誠実さから、
デカルト的な歪みを帯びて乖離した姿(倫理不全の具体形含む)が、
近代以降の世界とも言えると思います。
功罪共に大きい近代を真に乗り越えるべく、
先の相関への厳格さ、誠実さを自他に求めていきましょう。