生と向き合ってると言える為には目下のところ、欧米的知性やその産物を相対化しつつの、絶対性と相対性の同時否定(反動の振り子からの脱却)が志向されてる必要あり(補足付記)
2020-5-003
間違った考えに気付く方法に関するスレに投稿しておきました:
例えば、特段専門的でないピアノ曲を弾くのでも、
前提に持ってる、関連する抽象具体の関係構造が確からしい人ほど、弾き出された音にそれが反映される為、
聴く人に卓越性を覚えさせる可能性が高いのだと考えます。
ある対象について何々だと判断したり発するといった振る舞いについても同様に考えると、
丸々踏まえるに値する価値をそれらが持つには、
主語として切り取る作業や主語を述語化する作業に相当する処理に際して、
前提に持たれてる関連する抽象具体の関係構造(理解)が確からしいものである必要がある為、
確からしいか検討する、より確からしくしようとするだけの問題意識を持つに越した事ないはずですし、
生(生物にとり所与課題)をどう具体化するか、この問いもその種の問題意識に変換されると想像されます。
しかし、通用が全体に行き渡ってる感やいない感の精度が低ければ、その種の問題意識は機能しません。
その感覚精度は、何の確からしさ(通用領域の広狭)を問うてるのか(全体に当たる枠)、
つまり、取り上げる差異の設定次第(局面と着目無視の合致配慮であるフェアの程度が選抜の精度)なので、
着目からいらぬ偏りを取り除く(解決対象や解決スタイルを代替不可能化する)志向が、
確からしさを何かについて問うという限定作用自体に確からしさを求める志向が、例えば生に、
向き合う(通用が行き渡っているいないを誤魔化さない)事の中身と推測されます。
表層性を剥いでくれるはずの知性や倫理を、次元設定の操作性の高さとしての人間性を、
それらにいらぬ制約与えてる形の近代性(検討された内外分離に解決を見る差異センス)から、
解放する試みも、以上の文脈で捉えましょう。
近代性から解放されるには、場に合わさない絶対性と、場にその表層まで含めて合わせる相対性の、
同時否定(反動の振り子からの脱却)としての、場の本質にだけ合わせる方向性に、
通用が行き渡ってる感を覚える必要があるにもかかわらず、
これまでの対近代(反動の域である以上、近代性の外に出たつもりで出てない)を見る限り、
その方向性が自然には獲得されないらしい欧米的知性やその産物に、
立脚する事、(具体形パターンの網羅志向による)参考情報以上の位置付けを与える事を、
止める覚悟を我々は持つべきです。
同種の他との差異要素を捨象する理系的な確からしさ保証と共通要素を捨象する文系的な確からしさ保証の、
使い分け(局面との齟齬解消)への不理解を導いてる、前者の領域侵犯と後者の埋没という、
あるいは、自我や文化やパラダイムといった解決スタイルの代替不可能化を阻害してる、
内実の通用領域(確からしさ)の差異を内在や外在に見ないという、近代の傾向やその産物を相対化しつつ、
場の本質に即した扱われ方を差異にも求めてる形の、
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(やその下での抽象と具体の行き来)、
問われるべき事(場の本質)と捨象対象の(処理量増大への耐用持った)合致配慮、
この両者の相補性(端的にはフェア)によるいらぬ飛躍の除去に、
知性や倫理の働き(の一方が表層的要素に振り回されてるなら他方にも響く表裏関係)、
(無限有限関係との直接対峙の迂回はじめ、抽象具体の関係構造個々の多重債務的錯綜を許してる)人間性、
第一原理(通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性)への立脚、
ひいては、生の可能形の、回復を見ましょう。
以下、補足です。
生に対してであれ、無限性と有限性の関係やその産物に対してであれ、
関わり方は、より確からしいものが取って代わる運動性の、その時点での帰結が採用されてる。
一方で、第一原理(通用領域の広狭と確からしさとの相関、より確からしいものが取って代わる運動性)と、
何に関する確からしさかという、それへの限定作用(存在者という現象自体も含む)との、
関係(合わさったものとしての特定の志向含む)も構造は、
内在の性質と外在の性質の合わさり方の問題(代替不可能的な性質であるほど現象として確からしい)。
(雨が降ろうが槍が降ろうが、それがそれである限り引き受けざるを得ない性質は、通用領域が広い。)
解決対象(身体等)や解決スタイル(自我等)を、
理解や自由の実質に当たる、ある種の相補性(確からしい現象の導出と同等で、端的にはフェア)でもって、
(いらぬ飛躍を除く事で通用領域を広げられる余地があるか)検討してるなど、
限定作用(具体化作用)自体にも確からしさを求めてると言える形が、
第一原理(無限性そのもの)の保存された表層形(保存しつつの表層変容)を、過不足ない解決を、
可能にし、また、第一原理(主張選抜もここに依拠)への立脚の回復に相当する、というイメージ。
次元設定は具体化条件(置かれる場の性質)を規定してるわけで、
着目無視設定の細やかさは内面世界での割り振り原理を、つまり、場の固有性を割り出す精度に貢献するが、
設定の操作性の高さ(人間性)による志向の保持(的具体形)が、内面世界の錯綜を保存させもする、
この負の側面(問う差異を損なわないように形式を組み上げた結果の保持性と見れば相補性不全に帰着)も、
立脚が回復されれば抑えてくれるはず
(抽象具体の関係構造の確立を個々としてだけでなく、その連関体系としても、フェア基底で打ち直してくれるはず)。
ちなみに、抽象と具体の行き来として歴史性を見、それが確からしさの向上や確保を担う、
その実質に当たるのが、理解や自由の実質でもある、
ある種の相補性(確からしい現象の導出と同等で、端的にはフェア)、
さらに、無限性(確からしさそのもの)自身が自己足るべくこの構造(ひいては有限性)を要請してる、
との現立場なので、
(無限有限関係との直接対峙の帰結として、確からしさ向上確保をある種の相補性に担わせる有り様を疑う)
抽象と具体は基本、それが理想と現実という内容であったとしても、
価値対等(論点は実質の有無)と見るべきではないか(他方に反動する必要なし)と考えます。
点から直線が作られる、直線から点を切り出す、そうした全体と部分の関係に対しても同様で、
(歴史性もそれを個々として見れば部分になる)
局面と無関係に上下(体系)を見る必要はないし、
体系はフェア基底で立ち上がっていれば肯定する(損得や役回りの自他への受容根拠)、
というイメージ(見ない見るは価値対等)です。
フェア基底の世界や生活を望みましょう。