2941文字、機能不全という観点から見た感情についての理解を、真善美の論点共通性にも触れつつ
2024-5-001
問題状態を帰属修正が不十分な状態と解し、解決状態を帰属修正が十分な状態と解せば、
帰属修正が十分な状態であり、かつ、不幸な状態は、不幸にもかかわらず解決状態(少なくともその時点での受容に値する状態)として扱われる事になります。
つまり、帰属修正余地に相当するいらぬ不幸部分を越えて不幸を修正余地扱いする
(フェアを越えた自他救済を肯定する、したがって、各場の取り違え最小な性質に即した割り振りを、ひいては、具体化精度確保を支持しない)など、
幸不幸という表層形への着目は、基本的には問題解決(生はこの集積物)を阻害し、
負ってる条件の良し悪しを帰属操作(奪う振る舞い)の根拠にする等の、帰属修正が
(無限者でないなら有限性は与件であり、内外境界の線引きに対しより確からしいものを選ぶ対有限性があるだけなのに)先立ってない知性倫理美意識に繋がるわけです。
(問題を持つという現象についての解決状態は、抽象度を上限化させた問題状態から、
取り違え最小な内外事情にしか応じない実存像を具体化条件に、具体的問題を切り出してる場合であって、
問題の獲得喪失に関する特化の過不足を避けるこの処理は、内在性質と外在性質への帰属修正の上限化である、限定を受けてない状態の準備とそれが負わされる限定条件の縮減限界から成る為、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を認めた時の、自身が取り組むべき問題を勘違いしてる程度の抑制と言え、
個別性の取り違え最小化の下で具体化条件を付したり外す処理の機能具合は、その人の対問題の質を決めてると見なせます。
また、10秒前、5秒前、1秒前の自分はそれらを個々具体とする抽象次元において同一と言え、
これを具体化抽象化の交互反復による変化性同一性同時達成として捉え直した時の、上で言う付したり外す処理が機能してる状態は、
内在性質と外在性質への帰属修正が十分である現象に相当しており、変遷に修正余地なさを持たせてるだけでなく、仮説改善に相当する効果も生じ得るこの状態にある個人、
言い換えるなら、この状態のまま交互反復が続いてる点をもって解決状態としてる為、
それ以上を望む対歴史という意味での疑似問題を持たない人だけから成る集団であるかどうかは、その集団におけるいらぬ不幸の発生程度を決めると考えます。)
例えば、痛みを覚えた場合、問題が発生してるわけで、問題に対する大騒ぎや見て見ぬ振りに相当する反応過不足が生じてるのであれば、機能不全と言えます。
一方、痛みが耐えられない時に、肥大化を抑制してなおそうであったり、肥大化抑制ができないなら、
あえて機能不全(精度放棄)を選ぶ次善の策もあり得て、痛みの有無という表層形への着目も局面事情次第と言えます。
もちろん、感情にも同じ話(対局面は理性の機能具合問題)が言えて、その精度は知性(秩序に関して獲得してる原理の内容)、
倫理(利己利他を個々具体とする抽象化や不当な扱いの受け手を無生物や概念等にまで拡張する抽象化の達成具合)、
美意識(単なるプロ的洗練のみを安易さ判定の基準にする矮小化、理想を過剰に割り引いた現実である肥大化した実存のまま対峙してる対存在性等の、いらぬ特化の許容を回避してる程度)が関わる為、
先に見たように、次善の策として要請されてるわけでもないのに表層形に着目するのは、
問題状態や解決状態についての勘違いが持ち込まれる事による精度悪化、ひいては、機能不全の原因となる、そう解しましょう。
(受ける扱いは場の性質の反映であって、自他の認識場であれ何らかの社会であれ、場の性質の取り違え具合が論点なので、
先に見た有限の与件性と関わるこの論点と整合してない問題意識から成る対価値を疑似問題として捨象しつつ、
自己との遠近によらず、あるいは、負ってる条件の良し悪しによらず、内在場や外在場の性質取り違え最小化が求められてる点、
言い換えると、取り違え最小な内外事情にしか応じない実存を要求されてる点は、
誰しも同じと認め、感情や理性の反応過不足の意味での機能不全を避けましょう。
テキスト解釈で言えば、文系的概念の用いられ方に、先の付したり外す処理の不十分さが確認された場合に、
通用が行き渡ってない有り様を選んでしまってる事態の文系バージョンとして、
つまりは、文系的論理性の不備として扱う位置づけ処理を拡張したものと見なせる、
読み手が対象にとっての具体化条件である認識場としての自身、および、テキストの原理である書き手に対し、
置かれてる時空条件に関する同不十分さを修正余地として扱いながらの理解構築、
つまりは、怪我してるならしてるなりの最善であれば受容する的態度の、読み手時空の価値観と書き手時空の価値観への適用を内容とする先に見た対有限性を、
展開しながらの対象に関する抽象具体関係構造の像構築の中に、取り違え最小な内外事情にしか応じない実存の自他への要求を見出しましょう。)
注1
これはこういう性質を持っている(Aとして在る)という存在規定は有限者にとって仮説に過ぎず、
故に、規定する側の仮説改善上限化、つまりは、より確からしいものが取って代わる運動性の受容阻害の最小化が論点である、
これを認めると、本文の対有限性が形骸化しているいないは、仮説改善を上限化する枠組みが採用されているいないに等しく、
その枠組みは、理想を割り引く程度を最小にする現実という関係構造(厳密には、限定を受けてない状態の準備とそれが負わされる限定条件の縮減限界の関係)を踏まえつつ、
理想ポジションにその運動性を置き、かつ、代替不可能な内外事情にしか応じない実存で理想に対峙する、この内容から成ると考えます。
注2
例えば、ある地域の自然環境に耐えられる家を望むなら、家全体が持つ性質的偏りに対しても、家全体を構成する様々な部分が持つ性質的偏りに対しても、
場の性質に即してる状態から見た過不足部分を否定してる(当然、偏り自体を無くすという発想も、
条件変化への対応を必要以上に鈍くするいらぬ特化も否定される)のに等しいはずで、
現実に向き合うという話の中に、場に即してない分業洗練を場に即してるそれへと修正する力の肯定、および、その力を埋没させる類の力に対する否定
(仮説改善機会の逸失物と見なす事で場に合わさない傾向、場の本質にのみ合わせる方針が表面上そう見えるケースを除いたこれの産物を退け、
場の個別性の取り違え最小化を場に合わせる際の条件とする事で文系域での相対主義、
観点の確からしさを検討する場に合わさない有り様とも見なせるこれを退ける態度込み)が含まれてると考えます。
注3
例えば、数百年前に医者にかかった人の受けた処置が現在から見ると的外れだったとして、
しかし、問える責任は、その時空が持つ条件における上限からの乖離部分だけです。
この観点においては、処置した側に自信があろうとなかろうと乖離部分が生じてるなら責任も生じてますから、そこの差異は話に関係ないわけで、
逆に言うと、本人の信念の強弱が根拠になると思ってる時点で、本文の意味でのテキスト解釈精度が低い
(異なる価値観の間の上下論に落とし込む矮小化故に、帰属関係把握に不備がある)証拠になると考えます。