フェア主体の、知性や社会性をフェア尊重の強弱で評価する主体の、社会における割合とは無関係に、社会の現状肯定や改善が語られる時代を過去のものにしましょう
2019-6-001 国による救済に関するスレにて
妥当な割り振りが達成される、という現象が、
助けるや罰を与える、といった表層形をとる事もあるだけとして、
前者を齎す原理からの乖離の有無に、是非の根拠を限りましょう。
国が、
特定の階層なり業種なりに、
不当な不利益回避や利得を許してる(フェアを越えて助けてる)なら、
場の管理者としては修正対象であり、
被管理者(国際社会では国は被管理者)は、
管理者としての責任(場の本質に即した割り振りの保障)を果たすよう、
修正を要求できると考えます。
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力をもって、
管理権を認める代わりに、
その能力の保持を、管理ポジションの要件として満たさせる権利が存在すると解しましょう。
場の本質(代替不可能な要素として取り出された固有性)に即した、
扱い(着目無視の割り振り、損得や役回りの割り振り)への支持、
フェアをそう規定するとして、
フェア尊重を、
知性や社会性の核心の一つとして扱う教育や社会も、
その要求に含めましょう。
ドーピング選手(問われてる差異の抽出を妨げるもの、場の本質を損なうもの)の参加を許してしまってる大会運営が、
帰結の受容を強要してる的形(先の責任を果たしてない形)となるのを、
失格のような対処が現実的でないケースにおいても避けるには、
そのような教育や社会が必要であるからです。
個人における内面世界も局面も、場と見れば、
井の中の蛙による自己規定、
この形を薄める努力の差を見ない類の個性尊重も、
内と外に上下関係を見るだけの自由観(所有観含む)も、
先の教育の欠如の現れです。
市場や民主制のような、
個々事情を直接、場の性質に反映させるシステムが、
場の本質に即した割り振り(引き受けるべき割り振り)に繋がらないのも、
そこの欠如故と言えます。
社会の構成者における、
フェア主体の、
知性や社会性をフェア尊重の強弱で評価する主体の、
割合を高める方向性に、
社会改善の本筋を見ましょう。