見出し画像

4224文字、されてる事実にもしてる事実にも気づいてないある搾取について、および、過去や他者から受ける影響に対する受容に値するしないの分別について

2025-2-001

既存の文系教育が理系的に言うと、相手側の計算ミスで過大に支払った的被害性や自分の計算ミスで過大に支払わせた的加害性に、能力上気付けない状態のまま実社会に送り出してる形であるのは、
存在するのと引き換えでないものまで存在に帰属させた上での存在立脚を論理飛躍に含めてないからです。

(代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合してる表層形、この実存だけから成ってる社会において社会に置かれてるものが受ける整合作用の帰結、
これらからの乖離を論理飛躍とする知性倫理美意識からは、社会的に標準かどうか、社会的に妥当かどうかといった判定は現状、
2+3を10や100にしてる的な獲得感覚が前提になってるように見えるはずです。

ちなみに、この知性倫理美意識は、感情と理性の上下論のような内在外在関係像を廃棄し、
この例で言うと、個別性の取り違えを最小化させた内面世界の産物から、同局面事情に合わせた表出形を導く処理のような、
抽象物と具体化条件の取り違え最小化問題として関係を捉え直す立場と整合的です。

つまり、既存の文系教育は、実態を構成する個々事情の論理飛躍問題が市場や民主制の論点になるのを妨げ、存在にかこつけた搾取を含まない形では市場や民主制を扱えない状況を保全してるだけでなく、
内在性質や外在性質の取り違えが保存される内容から自由概念や平等概念を解放させたり、自由系と平等系の疑似対立から話を離脱させたりも妨げてるわけです。)


もっと言うと、有限(内外境界発生や遠近関係発生)の与件性を認めるからといって、
提示された有限性有り様が有限与件性の持つ確からしさ(修正余地なさ)と同等の扱いを受けるに値するとは限らない(上の意味での論理飛躍があり得る)のに、

そこのイコール性を検討する必要はない(例えば、感覚や感情を根拠にした時点でこのイコール性を主張したも同然であり、
しかし、感覚自体もそれを踏まえた仮説も仮説への検証結果フィードバックも、通用が行き渡ってるものを選ぶ処理の産物である為、

何の差異に関するその処理であるかを決めてる観点が、内実不問であるデカルト的な自我でなく、そこのイコール性を備えた自己存在に帰属してる為には、
上で見た帰属操作を防ぐ必要があるわけだけれど、防げているいないについて検討しなくて良い)、

との主張を子どもに押し付けてる形である(既存の教育有り様を保障する内容の言動に自身を整合させた場合、
自分が自分である限りこうならざるを得ないと偽装しながら、つまり、防げる論理飛躍を隠しながら、
何かを実現する知性倫理美意識が許されてる結果な奪い合い世界を、支持してる立ち位置になってしまう)からです。



なので、搾取したりされたりを最小化するべく、まず、上の帰属操作の拒否(置かれてる場に自身を通用させ続ける存在課題に統合的原理の不在、
言わば、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的勘違いをもって臨んでる形とならないよう自我や文化を引き受けつつも、

内在的な問題解決スタイルとして観点に傾向を与える自我の肥大化や外在的問題解決スタイルとして観点に傾向を与える文化へのいらぬ特化は抑える、
という前提の過不足縮減)である代替不可能な内外事情にしか応じない実存に、

獲得喪失有り様を整合させてない事態(有限の与件性を抽象次元、有限性有り様を具体次元とした時の、
抽象化具体化交互反復による同一性と変化性の同時達成に、前提の過不足縮減による具体化精度確保を持たせてない事態)を、個別性が根拠になる局面での論理飛躍としましょう。


(この実存は理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実でもあるので、
怪我してるならしてるなりの最善といったイメージを重ねる事ができ、誰にでも要求可能なものと言えるわけですが、

真善美なり、通用してる領域の広狭と確からしさとの相関から見て常に確からしさの上限である為に無限性に等しいだろうより確からしいものが取って代わる運動性そのものなりに対して、
有限者の立場でしか関われない事実の受容に留まって、具体化精度という内実を問わずに済ませてる相対主義を、

有限性がその運動性を阻害最小で受け止めてる内実確からしさ上限状態として解せるが故に退けてる、その人に達成可能なものの上限に相当し、
かつ、その人に帰属してる問題の内外境界線を確定させる働き持つこの実存を志向も要求もしない有り様は、

人間の責任であるもの、つまりは、有限の与件性と同等な確からしさを持たせてない獲得喪失の責任まで神なり世界の構造なりに擦り付け、
修正可能なものも修正対象から外す人達と同類である事実を意味してしまいます。)


文系テキストはもちろん、文系事象に混入してるこの意味での論理飛躍(帰属修正不全)の程度把握まで含めて理解力とし、
この理解力(個別性が根拠になる局面で、個別性捨象を展開するなど、個別性を同種の他との共通要素捨象に十分さらさない時点で論理飛躍扱いになる為、局面事情と着目無視設定との一致具合の評価、

局面に合わせて具体化する能力として理性を解せば、理性に対する、局面次第でしかないものに対し局面事情の取り違え具合を論点にしないどころか、
局面事情無視で規定する有り様を不全と見なす内容の評価でもあるこれも含む)を自力で獲得しましょう。

次いで、他者へのこの理解力の獲得要求、および、教育へのこの理解力の育成要求を上の実存をもって具体化
(当然、内外事情次第で表面上は何も要求しないという表層形も全然あり得る)しましょう。



ちなみに、対テキストは対過去と対他者が重なってますが、受ける影響を引き受けるべきものとそうでないものに分ける分別原理
(小手先の対応でなく、肯定否定の根拠である通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を、

何の差異に関してこの相関を持ち出すかという観点自体に適用してる内容のこれ)も対過去と対他者は共通で、
それは理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実部分のみを引き受けてる状態への志向であると考えます。

この理想現実関係は、限定を受けてない状態とそれが負わざるを得ない限定条件、この両者の割り出し上限化(抽象状態と具体化条件の取り違え最小化問題)から成ってますから、
テキスト経験の過不足解消(テキスト経験は人それぞれであるとするに留まる相対主義的態度の廃棄込み)はこの場合、

取り違えを最小化させた内在性質と同外在性質の統合状態への志向の具現であり、
帰属修正上限化(内外境界発生を意味する有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性にのみ帰属がある状態に持ってく働き)の体現である事になります。

なので、テキスト経験の過不足解消を自身の知性倫理美意識に阻害されないよう、
問題状態とは帰属修正余地が生じてる事態を指し、帰属修正余地を残してしまう知性倫理美意識は不全である、
との理解を押さえる事で、帰属修正上限化を知性倫理美意識に先立たせましょう。

(逆に言うと、倫理的にはフェアを越えてまで自他を助けるのを修正対象扱いしない救済観として、
知性的には人を裏から操るのを必要最低限に抑える気がないフィクサー傾向として現れるような、
責任領域の帰属修正不全が確認された時点でその人には、テキスト経験に過不足が生じてると見なせます。)


特に、理解力を道徳感覚や法感覚によって矮小化されないよう、道徳は文化の倫理側面に過ぎず
(例えば、得る資格を開放する系の理念に対する否定が許されない文化空間は、

得る条件として帰属修正を要求できないので、理念的には許されてるけれども秩序破綻の原因になる求め続ける者について、
獲得喪失に関する帰属修正上限化とは齟齬のある規範や罰帰属をもって個人の精神を縛る内容、および、それを可能にするだけの権威の保持で対処せざるを得ず、

言わば、論理飛躍扱いを論理飛躍に対して採れない精神有り様の下での対テキスト、
理念の根拠がテキストである場合には自己矮小化の構造が含まれてる事になるこれを強いてる形です)、

外在的な問題解決スタイルである文化は、代替不可能な外在事情にしか応じない方針によっていらぬ特化を避ける対象である点
(既存の文系教育有り様や文系学問有り様に固執するのは、文化絶対化の一種であり、
引き受けざるを得ない特定時空性の割り出しが、もっと言うと、先の両者の割り出し上限化が機能してない証拠です)、

および、法は社会レベルでの帰属関係を規定するルールに過ぎず、ルールは場の取り違え最小な個別性が場全体に行き渡ってる状態を維持する為に要請されてるので、
その要請満たしに過不足が確認された時点で修正余地が生じる程度の絶対性しか持ち合わせてない点

(これは具体的なルールに限らず、法の前提部分にも言えて、冒頭で見たように市場や民主制を十全に扱いたいなら、上下論な内在外在関係像から成る法体系は修正が必要ですし、
個別性が根拠にならない局面では個別性捨象を、個別性が根拠になる局面では個別性の取り違え最小化を前提にする分別の不全に由来する疑似問題が、哲学領域にはルールに関してもあると疑います)を押さえましょう。


同様に、理解力を歴史観や論理観によって矮小化されないよう、歴史展開(抽象化具体化交互反復による同一性変化性の同時達成であり、
例えば、10秒前の自分、5秒前の自分、1秒前の自分といった個々具体を同一対象の変化不変化情報として扱う枠組み)に対しては、
理想を割り引く程度を最小にしつつ成り立せてる現実(先の両者の割り出し上限化の産物)が点の立場で紡がれてる場合のみ受容に値するとの立場を採用し、

論理展開(通用が行き渡ってる状態を保存しながらの表層形変転)に対してもこの立場と整合させましょう。
(形式論理学の類を個別性が根拠になる局面にも持ち込む過剰前提のせいで生じてる疑似問題に、

縛られてる文系テキストから受ける影響を抑えられるよう、個別性が根拠になる局面では個別性の取り違えが最小化されてない事態は受容に値しない状態を意味する点を押さえつつ、
主語を切り出してくる作業も、主語から述語を切り出す作業も、過去の自身を含む各主体に帰属してる情報の差異としての個別性把握をコミュニケーションの前提にしながら、
取り違えを最小化させた文脈の要請に通用するだけの他と区別される個別性を提示する具体化処理に過ぎないと割り切りましょう。)

いいなと思ったら応援しよう!

欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
ご支援のほどよろしくお願いいたします。