我々の生活の保障や改善に関する話は、パラダイムの次元から既に矮小化されてるので、哲学不全への対策という観点含んだ全体像をまず押さえましょう
2020-11-001
死はじめ能力なり物資なり、有限性(内外境界)を負う事自体は避けられないものの、負う必要ないものまで負わされるのは避ける、
この内容をもって有限性と向き合い、付き合ってく際にその実質となるのが、
引き受けざるを得ないもの(原理等)の特定(内外境界が不可避な為、対内在対外在の二方向)に注ぎ込まれてる知性、代替可能なもの(現特定内容がそれを含んでる可能性も)をそうでないかのようには扱わない倫理、
この二つから成る、有限性の代替不可能化(を不利益等の受容条件に設定)であり、
より確からしい(通用領域の広い)ものが取って代わる運動性(無限性)を割り引く程度(何についてそれを展開するかという限定化作用)の最小化(認識や存在の形骸性低減)に相当するそれは、
通用が行き渡ってる状態確保や善の、形骸性低減の要と言える、
局面が取り出すよう求めてる確からしさ差と捨象設定との合致配慮(局面要請と捨象対象の齟齬解消)、フェア(場の代替不可能な固有性に即した割り振りへの支持)を越えては(自他を)助けない方針、
これらを内容とする取り上げ方(有限性による限定化作用の前後で確からしさを保存してくれる、気にするしないの枠組み)を基底にしていてやっとその働きを得る、そう想像されます。
他方で、同種の他との差異要素の捨象アプローチへの特化、共通要素の捨象アプローチの埋没、という捨象対象選定の
(例えば、厳密には変遷への肯定否定の観点まで含む対主観や、文理の別を定める局面性質把握での)偏りが、
理系域での実績もあって固くなってる結果の、近代以降のパラダイム(硬化された内実不問)は、
表層的要素(表層的かどうかも含め、価値は場が決める)に振り回されてるレベル(情報や枠組みとの付き合い方に疑問符つく)でも学者になれてしまう
(個々具体から一旦、具体形の差異パターンに通用行き渡らせた抽象状態へと遡り、代替不可能な具体化条件を付し直すという、負う必要ない部分の炙り出しに必要な、具体形の過不足抑制作業の、
適用範囲が狭かったり精度が低かったりな理解力の産物、例えば、欧米に当たり前に見られる表層反転で解決できてるつもりな言説等であっても、文系域では権威化が可能な)状況、
フェアアンフェアの扱い差を捨象する方向に洗練させた権利観(人権や主権や財産権等の用いられ方)による問題処理が、世界有り様について展開される事態の常態化、
(ドーピングによる優勝のような分捕りに許容的な態度は、理系者で言えば、厳密な実験値に、ひいては、持ってる理論の通用領域の実態に興味がない様に相当する為、倫理を強引な内容としてしか語れない事が、
近代パラダイムの外に出ない人達の影響力次第では、人類の倫理は質的に確からしさ向上できない事が、示唆される)
これらを許してる帰結として、生活の保障や改善に関する話を矮小化(排除と包摂の論点外れな構図押し付けをはじめとする、体系への表層反転レベルの肯定否定)させてる、という構造が言えるように思います。
なので、その矮小化を抑え(対パラダイムや対常識も、特定時空性に関する上の過不足抑制作業が実質)、外在からの影響をより代替不可能的なものへと持ってくべく、
先の基底化の達成促しを教育に取り込んでく
(特に、見て見ぬ振りも大騒ぎも抑える配慮、つまり、局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢を一桁の歳から求め、体系が場の本質を損なわないように立ち上がっているいないへの感度を養う)必要あり、
先の運動性を何について展開するかという次元設定(着目無視)への、ご都合主義的アプローチ(確からしさの獲得の仕方)は、その運動性が負う割り引きを最小化しない為、通用性を得てるつもりで形骸、
そうした理解をまず押さえましょう。
それこそ哲学者ですら、上で言う具体形の過不足抑制作業(通用が行き渡ってる状態を保ってるという意味での肯定形を導く作業)を、
概念や生在り方の捉え直しなり、何が問題かを特定する全体像把握なりに関し、十分に機能させる事ができてるようには見えない
(少なくとも、表層反転への解決見なしが常套である近代パラダイムに安住してるように見える上、ヘーゲル弁証法の形でそこの作業を矮小化させてるケースもある)のは、
いらぬ限定を負ってる感、通用が閉じてる感を中途半端にしか掴まえられてないせいであり、
それは、不当な扱いを受けるという現象について抽象化が不足してる(自己絡み限定からスタートせざるを得ないにせよ、他者や概念等にまで個々具体な受け手を拡張しきれてない)からだとすると、
(フェア志向でない時点で、仮説の厳密実証の能力に当たるものの文系域での機能不全、ひいては、理論の通用実態への鈍感さが疑われる)
その抽象化が十分な状態と表裏関係にあると思われる、
局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢に対し平等対応や囚われてない有り様(限定通用をそうでないかのように扱う事の拒否)を見てる状態を、デフォルトへと寄せる事が、
哲学の不全故に、表層次元に手を入れるだけの小手先の解決に終始してる
(例えば、内面世界で展開してる管理と社会での管理被管理関係という個々具体が、少なくとも、先の作業水準では分断的に扱われてる)現状への対策でもあるのではないかと期待します。
もちろん、哲学不全を直接解消してもらうに越した事ないので、
抽象重視と具体重視の表層反転振り子を否定する文脈から、ヘーゲル乗り越えの主要な流れが捉え直されたとは未だ言い難い以上、
近代の功罪が言われて久しいにもかかわらず、哲学、そして世界(の基層)は未だ近代の外に出てない(表層の次元に手を入れてただけ)と、
哲学者は(安住の自覚はともかく)少なくとも、対パラダイムに最も責任負う立ち位置としての仕事を果たせてないと、見なされて仕方ないし、
また、表層反転で処理されてた部分(絶対性と相対性の振り子など)は置き換えられた(小手先のテクニックも局面要請としての次善の策に限る事で全否定はせず、かつ、置き換え済みと見なす)と十分に言えるまで、
先の具体形の過不足抑制作業の適用範囲拡大や精度向上(局面要請と捨象対象の齟齬解消)が追求されてやっと、近代(その弊害)は終わらせられる、
そうできるだけ多くの哲学者に認めてもらいましょう。
実際、その追求においては、以下のような歴史観や体系観が背景化される為、具体重視的なヘーゲル乗り越え以降の衣替え近代とは一線を画せるはずです。
歴史変遷(仮説と実証の間や言葉が文脈に乗る前後間のような、抽象と具体の行き来による確からしさの向上や確保)は抽象化具体化の精度の観点から肯定否定される。
時代現象は特定時空性の付し直しや、大騒ぎも見て見ぬ振りもしない位置取りの観点をもって応じるべき部分応じるべきでない部分の振り分けが為される。
場の本質が損なわれてない理想状態(競技に対しアンフェアな選手が参加してない的状態)を犠牲にする程度が条件上の最小となるように現実を成り立たせてる、そう言える管理(先の基底化達成促しの教育への実装は必須)の下で立ち上がってる体系から乖離してる部分が克服対象。