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ハイデガー以降の流れを、自由観の転回の下でやり直した場合の、存在論と信仰の話

2022-1-007

割り引かれる事自体ではなく、限定作用は不可避と見た上で伴う通用性喪失を補填できてないケースが問題と考える
(割り引かれに忌避でなく通用性補填で対応する、この自由観の転回の浸透は、具体化精度に着目しない表層形断罪の時代、
別の言い方すると、絶対主義相対主義の二択の地平に縛られた歴史を終わらせてくれるものと期待します)、

信仰もこの補填の枠組みに落とし込めてるのなら、不信感を覚える必要はないのでないかと思います。


例えば、意識は、限定する事で注力的に問題解決をしてると言えて、
カバーを放棄した領域(死角)の発生分に当たる通用性喪失が、限定の引き受けざるを得なさ(限定理由の代替不可能性)でもって補填されてる時、
つまり、具体化精度が最大化されてる(場の疑似でない固有性に合わせた加工である)時、

無意識へのフィードバックも、確からしさ向上(通用してない領域を潰す働き)や確からしさ確保な変遷を最大化させるもの
(精度の高い実験と低い実験のフィードバック差を参照)になってると考えます。


他方で、感情なり、各人のできる事できない事の差異(有限性形態)なりに対する、
代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の下で生じてる(自身の有限性形態を、精度最大化させた具体化条件に相当する状態へと持ってった上でのもの)なら、
内実が確からしい(代替不可能な有限性に都合が先立ってない)のでOKとの前提を持たない肯定否定、

過去なり現在なりに対する、歴史性を抽象化具体化の交互反復と捉えた上で精度最大化された抽象化具体化の帰結と言える歴史(例えば、個人や文化、人類のそれ)なら、
内実が確からしいのでOK(批判ポイントは精度不足)との前提を持たない肯定否定(自分にとって都合の良い時代を基準に為す断罪など)。


これらは確からしい(通用の行き渡ってる)原理の産物かどうかに興味を持たない反応なので、
数を数えられるからまだ見ぬものも数えられる的な開かれてる状態へのルートを潰してる
(少なくとも、抽象次元の確からしさ向上を最大化させるものでない)ように思いますが、

それらに、内実の確からしい主体像や歴史像との距離、という観点を持たせる
(遠いものの肯定や近いものの否定を、表層形に振り回されてる不自由状態、
言い換えるなら、表層的なものをそうでないかのように飛躍させてる通用領域判定の誤認状態と見なす)事がそのまま、

ハイデガーに対する修正の本筋(哲学のサルベージなど、喫緊の課題への対応に感謝しつつも、ハイデガー以降の実際の流れの、
もちろん、日本に流れ込んでるものも含め、やり直し)と考えます。



例えば、個人次元で言えば、認識場や成長老いを正確に浮かび上がらせる試みは、
言わば、表面のほこりを払っただけの(その水準の疑似化除去で帰属修正を終わらせる為、相対主義の域を出ない)実態主義に過ぎないとしつつ、
実態における疑似化の含有程度まで、先の主体像や歴史像をもって、

より正確には、それらを個々具体とする抽象次元に当たる、先に見た補填の枠組み
(何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者の最大限化)をもって、

抑えにいく事が、真理なり存在性なり理想なりを割り引いてしまう、取りこぼしてしまう件の解決でもあると考えるわけです。


(もちろん、場の性質の違いへの感度、場が課さざるを得ない限定作用への感度が機能してれば、
場に価値を決めさせない態度に加え、特殊性を安易に普遍扱いへと飛躍させる絶対主義も抑制可能であり、

これまで教育されてこなかった、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を対象に見出す能力は、
家庭環境や教育環境や社会なり世界なりの知的環境へのいらぬ特化、その逆の、自他の代替不可能な有限性まで引き受けようとしない反動反発、
両者を同時否定した過不足ない特化を保ったまま自己を展開する上で、前提になってくるものと思われます。)



加えて、フェア志向は、場の疑似でない固有性に即した(損得や役回りの)割り振りへの支持と解せば、具体化精度最大化の文系域での言い換えと見なせますし、

キリスト教や人権など、救済資格を開く既存の理念を個々具体とする抽象次元に、
フェア志向を据え、個々具体の捉え直しへと繋げる事で、既存理念が持つ内在不問外在軽視な傾向

(内実の確からしさを確保し続けた帰結としての固有性と、そうでない疑似含みの固有性とを区別せず、両者に同じ資格を保障する方針の採用は、
残念ながら、ドーピングしてる選手をレースに参加させるようなもので、各場が着目するよう要請してる差異の埋没行為に相当し、世界の茶番化に寄せてる形)

を解消できますから(内面世界も場とする事で、井の中の蛙状態故に捨象できてない苦しみのような、ある意味別人、本人置き去りな疑似を、需給成立対象にせずに済む)、


修正の本筋は他者性を、既存の問題点(例えば、競争協調に対する、場の疑似でない固有性に即した形式かどうか、かつ、フェアの上で展開されてるかどうかと関係のない肯定否定は、
表層形断罪の時代の存続加担なので、その時代を終わらせないと得られない他者尊重に対する軽視)の解消込みで、取り込めてると言えるはずです。



また、存在観の修正形については、内在性質外在性質統合の現場の一つである認識場に対し、
通用領域の広狭と確からしさとの相関(及び、より確からしいものが取って代わる運動性)を採用観点の下で展開させる場と捉え直した上で、
補填の枠組み(認識対象や上の運動性が被る限定作用への対応)に落とし込むとして、

その場合の採用観点を有限性形態に拡張したものが、形骸でない存在現象の像と期待します
(観点採用が、通用してない領域を潰した修正形へと変じる働きの最大化状態から遠い程、
安易な解決像のごり押しの形になってる可能性高いとの構造が、存在についても同じイメージで言えると想像されます)。


ちなみに、その拡張に伴い、補填の枠組みは、上の運動性(無限性)が自身たるべく有限性を要請していて、無限性を阻害なく取り込んでる有限性ほどその要請に適ってる、との内容も持つ事になり、
それは存在についての謎を、有と無の間の差異の登場理由(存在論を有限性の登場理由の描像問題)と捉え直した場合の解答に当たるとも期待します。

つまり、補填主義は認識現象や存在現象に実質を持たせる存在様式(例えば、信仰を無限性と有限性の関係正常化と見た時の形骸化阻止)であり、


逆に、割り引かれ自体を問題視してる内在不問外在軽視な自由観(代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の否定、
ひいては、疑似でない自己の否定、自分が自分である限り仕方ない体での疑似化してる自己の世界への押し付けまであるそれ)の実践、

例えば、もっとふっかけられたのにそうしなかったのは損失だ的発想と整合的な行動原理(特に、3体以上における共有地の悲劇問題の無視)は、
実質を持たせる方向を潰すものと考えるわけです。

(内面世界も局面も社会も場と見た、各場の疑似でない固有性の発現保障を管理者ポジションに求める管理観は、
上の無視の類も、個人の精神や国家の権威や科学の在り方を縛ったヨーロッパ中世スタイルも否定してる形の補填主義と考えます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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