反動反発関係へと矮小化され、疑似問題の構成要素にされてきた利己利他概念を、その不当な扱いから解放しよう
2022-11-007
倫理的な振る舞いについては、利己であれ利他であれ、場と関係なく、あるいは、場と齟齬のある形で、誰かが利するのならそれは、受容に値しない否定されるべきもの(形骸)と解し、
次のように捉え直しましょう。
(ちなみに、受容に値するのは、文系で言えば、個別性の有り様が存在と引き換えな要素の反映であるなど、帰属に修正余地がない場合であり、
有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属があると言える現象である事、
つまり、代替不可能な内在性質外在性質から成る像、抽象化具体化の不十分さが解消されてる像へと持ってく働きに阻害がない事が、その要件であるように思われます。)
利己利他を個々具体とする抽象次元
(あるいは、不当な扱いが生じる事自体を否定し、自己や他者、他種、無生物、概念を含むものへと受け手像を拡張していった先)が、
誰がどれだけ利するかに対して具体化精度が低ければ否定し、高ければ肯定する受容条件の話、
つまり、それぞれの場(局面や内面も込み)での、場の疑似でない固有性が反映された状態にポジションや具体的有り様が定まる事への支持の意味での、フェアの話としてあって、
そのような反映となるよう、場に置かれてるものと場の管理者ポジションとが協力する
(他方への肯定否定や要求をこの観点からのものに限る)必要のある具体化次元がある。
(以上を踏まえ、不当合理にかこつけたり、その為に仕立て上げたりして内実不問である過剰特殊を通しにいく搾取枠組みのごり押し、獲得への固執を意味する内実不問な獲得観の現れであるそれに利用されるなど、
反動反発関係をはじめとする、内実の疑似化問題を埋没させる枠組みへと矮小化させされ、疑似問題の構成要素にされてきた利己利他概念を、その不当な扱いから、
個々具体にとっての抽象次元に一旦遡った上で個々具体を捉え直す処理をもって、解放しましょう。)
また、倫理的振る舞いについての像が上の内容となるよう、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ(通念的な論理感覚では取りこぼしてしまう文系的いらぬ飛躍)を、
文系的事象に対して見出し、修正された像へと組み直す能力を義務教育から育てていきましょう。
(それには、内実のいらぬ飛躍の有無に鈍感な人なり文章なりでも、論理的と見なされ得る、
その意味で、主張の低通用部分が低通用として扱われない文系空間、および、論理観や文系知性観の現状がネックとなります。)
例えば、対文章において、局面次第や主体事情次第なものをその次第性無視して特定の有り様強いてる形(いらぬ飛躍な一般化)や、
無視してなくても、表層の汚れが拭われてるだけで受容(根拠)に値する扱い、知的処理が十分に施されてる扱いしてる形(実態主義、
例えば、表面的にどう見えようが抽象化具体化の不十分さを解消する試みでしかないものに対してである為に、論点外れな反応になってるケースもある、
有限性という現実の単なる露呈をもって変革を阻害しにいく、利権保全の常套反応)のものが含まれていても、
疑問を持たずにスルーしてしまう理解力
(量なり成立自体なりへの志向が、質を犠牲にする程度を現実が成り立つ範囲で最小にする働きとしての上で言う不十分さ解消の不在故に、
チキンレースで即離脱的な、自己への過保護を意味してしまってる事態とも言える)のまま、
当然、対象の持つ低通用部分と距離を取れないという意味で不自由状態(対親や対教師におけるそこからの脱却は、
小学期でも不完全さの下での最善という評価軸を、外界の有り様原理に相当する存在に適用可能な以上、その時点で既に重大な課題と言えるし、
対ルールや対現実も含めて脱却が遅れるほど、反発による距離の取り過ぎという符号反転な囚われ展開での反発度が、ひいては、妄信と反動反発の二択縛りが強くなる)にある対自他や対環境のまま、
社会に送り出される子どもを、
(同種の他との共通要素の捨象能力を養成せず、個別性の疑似化部分除去の論点化も促さない、既存の文系教育に対する特化抑制や変革によって)できるだけ減らしましょう。
対象理解について含め、できるできないや届く届かない、掴めてる零してるといった表層形を、
受容に値する個別性(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の産物であるが、
その主体像と獲得喪失とを整合させてる生なり有限性形態変転なりは、教育環境へのいらぬ特化も防いでる)の反映へと、
つまりは、内実の確からしさの反映へと、(理解力の低さ故の冤罪的非難すら、自他が受容に値するものとなるのに)持ってかない教育のせいで、
受容に値しない類の扱いを許す倫理が蔓延る構造からの、脱却を目指しましょう。
注1
神であれ物自体であれ他者であれ、対象に届かない(有限性)という前提をどういう形で受容するかは、結局プラトン問題(割り引かれ問題)であって、
抽象化具体化の不十分さ解消(抽象化具体化の交互反復としての歴史性にまで拡張すると、
ガリレオの時点で理系では、これをもってアリストテレスの対プラトンを乗り越えてると言えるように思われる)を、
文系にも要求するという話の中に、理想現実関係も取り込んでしまうべき(そうなってない形で採り上げられてるプラトン問題の類は、疑似問題であり、
上の解消を、ひいては、いらぬ割り引きが理想に対しても現実に対しても生じるのを防ぐ試みを、
埋没させる以上、不当な扱いの発生阻止に関する原理の不在の現れ、つまりは、恣意のレベルでしか対不当扱いを語れない有り様の現れと見なすべき)と思います。
注2
性別の話は結局のところ、あなたはこうだと、フェアな世界が言ってる内容を受容するのか、アンフェアな世界が言ってる内容を受容するのかの二択の話でないかと疑うので
(ここで言うフェアは、着目無視が場の疑似でない固有性の反映である事態)、
妄信と反動反発の二択枠組みに対現実が縛られてる限り、後者的受容の形でしか性別とは付き合えない
(種の形式に振り回されてる形になる)という理解をもって捉え直すべき対象でないかと思います。
実験精度(取り上げる差異の精度)が高いほど仮説を確からしいものにできるわけで、
男性(自己価値が確定してない)は前者的受容でないと
(都合の良いルールの下での価値判定に限っていると)自己価値を上限化できないし、内実の確からしくなさを誤魔化し続ける
(この類に周りが付き合わされてるなら、負わされるに値しないものを負わせる負わされる事態が生じてる)必要が出てくる。
一方、女性(自己価値が前提である裏返しとして、外界との間に齟齬を抱える)は後者的
(外界と齟齬がないように見える何らかがアンフェア世界を背景に持つ)受容であるほど、
赤ちゃんとの直接性(種の保存戦略の事情)に関わる、損失の厭わなさ(自分にとって大切なものを大切にする際の極端さ)にも内実の安易さが疑えてしまう。
以上を認めつつ、下の話や本文で言う脱却と絡めて、現実に対する過剰肯定と過剰否定を同時に抑えてる程度を、
性別に関わる質評価(形骸物の表層をなめしてなめして受け入れやすいようにしてるかどうかでなく、
対内実でのより確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害の有無評価)の基準として採用しましょう。
利他概念すら、反動反発関係はじめとする、内実の疑似化問題を埋没させる枠組みの下で持ち出されたなら矮小化し、本文で見た利用があるわけで、
平等概念もその種の枠組みから解放すべく、局面と着目無視の合致の下での振る舞い、
あるいは、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像を、理想を割り引く程度を現実が成り立つ範囲で最小にする時の現実に相当すると見なし、
どの主体にとってもその主体像からの乖離は非難対象となるが、その乖離解消以上は求められない状況として捉えましょう。