対不幸が総量低減というより擦り付け合いの様相呈す原因は、文系域での知的説得力の有無判定のぬるさにあると素直に認め、状況の修正に取り組みましょう
2020-11-008
根拠や理論(に伴う実践)をより確からしくする作業の形態も、
より確からしいものが取って代わる運動性への阻害の発生(通用が行き渡ってない部分を見落とさせてるもの)に気付かせてくれる情報(体現や連想誘発する指摘等の間接的なもの含む)を生かせる上限も、
その人の内在や外在の性質が決めるでしょうから、
仮説実証試みの条件や結果に相当するものに対してであれ、受けた批判に対してであれ、
対情報(取り巻く世界を情報と見れば対世界)の有り様に関しては、
資質や環境、内面や局面に対しそれらの代替不可能な要素にのみ応じてる状態の保持(この意味での自由状態)以上の対策は無理と見て、
応じてるものについて代替不可能化の程度を問う、
知性や倫理を何に注ぎ込んでるか(何に注ぎ込むイメージで教育が行われてるか)もその観点
(代替不可能要素の特定や代替可能要素への代替不可能扱い忌避への、パラダイム等によるいらぬ矮小化をどれだけ抑えてるか)から肯定否定する内容の、
その人が限定性、有限性をどういう形で導入してるかについての、採用してる原理への問いが中心に据えられるべきかと思います。
権益対立の構図でしかものを捉えられない、語れない主体が影響力を持ち続ける限り、近代
(分離で得る洗練への過大評価など近代センスによる、各場の代替不可能な固有性に即した秩序形への収束に対する阻害)は終わらないと解し、
近代の弊害の責任を負い続ける状態から脱する為にも、その水準に知性や倫理を留めてる、
(個々具体の差異把握をもって一旦抽象次元に遡り、その抽象物が置かれる場の性質の代替利かない部分だけを具体化条件として取り出し付し直す作業、
次ぐ、付し直し形からのずれ部分を否定対象として見出す作業を、文系域で機能不全に追い込んでる)
同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象を価値対等に扱わない(前者特化)為、抽象化や具体化条件割り出しが確からしいとは限らない
(理想もその妥当な割り引きも取り違えたまま理想と現実をバランスさせてる可能性が十分疑える)現パラダイムの、外に出るよう自他に求めましょう。
理系的捨象ノリ偏重や価値反転やドーピング選手にも参加が開かれてる的多様性、それらの反映形な解決にOK出してしまうセンスにも同じ事が言えると捉え、
有限性自体から逃れ切る事はできず(自我や文化のような解決スタイルは、次元設定自在性の上に成り立っていて、次元設定による限定化作用自体は不可避)、
有限性についての確からしさの高低(代替不可能程度)が、引き受けざるを得なさに対応してるだけと認め、そこを問える方向へと、
また、己に非が無いかのごとく(冤罪メーカーになってまで)見せかけるのでなく、少なくとも、近代の弊害について実際に非がないと言える方向へと自己を、
捨象対象は局面次第とする、つまり、自身が取り上げる差異の設定(次元設定)と局面が取り上げるよう要請してる確からしさ差を合致させる有り様の追求
(局面に関する上で言う取り出しへの、上の後者捨象の導入は必須)を通して持ってきましょう。
自己の置かれてる場が近代性を無批判に持つ限り、代替不可能(引き受けざるを得ない)とは言えない諸々を負わされ続けるわけで、
近代センスからの脱却の働きかけ(近代センスへの否定反応が、上で言う具体化条件で具体化されたものとしてのそれ)が大きくなる程それらを負わされる程度も下がってくと捉えましょう。
理解自体は、対象に関する抽象具体の関係構造を確からしく(通用が行き渡ってる状態として)打ち立てる事ができた、できてる感に過ぎないと見れば、
具体形の差異パターンを押さえてる程度に加え、抽象化と具体化条件割り出しの精度が、理解の実質に関わってる事になり、どちらも捨象の有り様が問題になる上、
そもそも、その人の注力の傾向自体が資質や環境の反映なので、理解の限界の実質に関わる、その反映をどれだけやむ得ない類のものにしてるか(代替不可能化の程度)についても同じ問題が言えます。
そして、捨象の有り様は、未だ近代以来のパラダイムに(理系的局面にはさほど影響ない)いらぬ限界を負わされていて、その負わされは教育を通して展開されてきた為、
捨象のいらぬ偏りそのものを捉えて批判する能力は、教育によって抑え込まれてるとも言えます。
つまり、その種の批判能力欠いた理解力の下での批判は言いがかりと見なせる側面を、ひいては、主張(無自覚含む)が分捕りや泣き寝入り強いの側面を、少なくとも文系域では含んでしまうのに、
学歴の高さによらずその側面が保存されるのも、むしろその類の権威を用いた保存持つ言動のごり押しが見られるのも、
近代性を無批判に持つ場の帰結なわけです。
(フェア志向でないとは、ドーピング込みの走力を選抜根拠として認める的水準で、帰属把握や審査場準備の能力が止まる事を意味するのに、
フェアアンフェア無区別保障の権利観が、悪用される隙を塞がないまままかり通ってきたわけで、それだけ見ても明らかな、
文系域での知的説得力や権威の有無判定のぬるさを、
我々は、対不幸が総量低減というより擦り付け合いの様相呈す原因としても、素直に認め、状況の修正に取り組むべきと考えます)
なので、内在の囚われを外し、外在からの負わされもできるだけ代替不可能なものに抑える、これをパラダイムレベルでも展開できるように、
つまり、対パラダイムも一具体形とするような抽象次元でその振る舞いが持たれるように、先の対策を内容とする自由観、さらに遡って、
内在の性質と外在の性質が合わさって現象になり、両性質の代替不可能程度が現象(自己の存在という現象含む)の確からしさに当たるとしてる現象観
(認識も存在もより確からしいものが取って代わる運動性によって成り立ってるのに、それ以外にも頼ったあげく知性や倫理を矮小化させ、代替不可能化の働きを阻害してる事態に対する問題意識)
への更新や保持を、
自他に働きかける方向でもって、先の批判能力欠いた理解力が見せる反応に対処してく必要もあるように思います。