近代性(今なおを見られる、帰属の修正とはもはや言えない過剰な分離)の弊害に関して、哲学者(糾弾対象でもある)が為すべきと思われる事について
2021-5-001
ドーピングしてたら参加できない状況も、ドーピングが可能な為にしてないとまず勝てない状況も、
場の性質(問われてる差異)がどう捉えられてるかや、結果として何の差異が取り出されてるか(何の性質が発現保障されてるか)の違いでしかなく、
場の性質を根拠に形式や帰結が組み上がってる点は同じである(内実の確からしさに差はあるけれど)、
そう見る事もできるように思います。
何をどう扱うかも、何がどう扱われてるのを妥当不当と感じるかも、
(局面事情の捉え内容を踏まえた上で)通用が行き渡ってるものが選ばれるという前提から来ていて、
通用が行き渡ってないものも、全体枠の設定次第では行き渡ってる事にできてしまう為、
対象落とし込みに際し紐づけ先となる全体枠が矮小化されてるかどうかと、扱いの妥当不当の判定精度は繋がってると言え、
場の性質の深掘り(表層的要素の削ぎ落しによって通用を行き渡らせてる)程度がその矮小化抑制の程度に繋がってる形です。
そして、近代性枠組みは、同種の他との共通要素の捨象アプローチを埋没させる、つまり、文系域での固有性の特定精度を高めてくれないので、
例えば、自由概念を理系的捨象(扱われ差異の無化)の(局面の固有性差異を考慮しない方向の)徹底と非徹底擁護側との対立(どちらにせよ上の埋没は解消されない)に話を矮小化するなど、
近代性枠組みの外に出ようとしない文系者が、
既存の教育を受ける事で近代性枠組みに囲い込まれてしまった(自身の全体枠を矮小化させられた自覚もない)人達の支持や不問を根拠に自己正当化し続けてるとしたら、
ドーピングで(効き具合や将来影響無視具合等の差異取り出しへの、意義の実質的変容と引き換えに)得た金メダルが、
ドーピングせずに得た金メダル(帰属にいらぬ飛躍がないケース)と同等に扱われる的ぬるい状況の修正を、
自己の非(帰属の操作への積極的消極的加担)を認めたり、ぬるさ由来の安定を手放してまで、するつもりはないと言ってるも同然でしょう。
現に見られるその事態は、近代性枠組みの確立に哲学者が大きく関わっており、かつ、いらぬ飛躍の除去働きかけにソクラテスが励んだ姿を知らぬ哲学者はまずいない以上、
近代以降の哲学者の有り様に帰属してる側面もあるでしょうから、哲学者の類の肩書き示すなら、
原点回帰レベルの、ある種の機能不全の解消(局面要請と捨象対象選定の関係にまで遡ったいらぬ飛躍除去の働きかけ)によって、
近代性の弊害に対し、できるだけの事はしてる形に糾弾対象でもある自身を持ってくべきです。
代えられない前提として有限性(内外境界)を位置付けた(有限性と向き合った)場合、現象観は、
内在の性質と外在の性質の合わさったものが現象(存在や表象含む)で、
現象に確からしさの差異を見るとしたら、両性質が表層的要素を削ぎ落せてる程度に帰属させるしかない、
つまり、選抜など、対象に扱い差をつける際の根拠となる差異は、通用領域の広狭と確からしさとの相関を、両性質の規定に持ち込んだ結果に立ち上がってるもの、
(場に置かれてるものに対し、それらから見た外在場の性質をそれらに負わせない事がそれらへの尊重、負わせる事自体がそれらへの暴力と見てるも同然な尊重観や自由観を、
外在場の性質反映が不可避な以上、外在場の表層的要素込みな性質、言わば、取り違えた固有性を負わせてる事態の一種、つまり、形骸どころか実態は逆と言える尊重や自由と捉える、)
そんな感じの内容になると期待します。
その現象観を、歴史性として拡張した場合の確からしさ差は、抽象化と具体化の精度に帰属していて、
抽象と具体の必要価値対等性、抽象化具体化の精度の論点化、それらから成る枠組みが、
対象に扱い差付ける反応を落とし込む先だとすると、
場の性質(場に置かれたもののポジションや具体的有り様を定める割り振り原理であり、具体化条件に他ならない)に対して表層的要素が削ぎ落されてる程度差異を見ない
(そこの程度に由来する、通用が行き渡っているいないを具体化の帰結に関して区別しない為、
同由来の、行き渡っていないものをいるものとして故意なく扱ってる帰属ミスに対応できない)タイプの文系知性や倫理は、
有限性(社会性もその一部とする、負わせる負わされる関係込み)との向き合い方の不十分さ(矮小化させてしまってるなど)が疑われる、
という話になるでしょう。
例えば、既存の価値体系へのある人なり集団なりが見せる修正働きかけが、事実上の何でもあり状況へと導く側面を持ってる
(確からしさ差に当たる差異の取り上げ精度が不問という意味で、内実差異への視点が欠落してる、つまり、近代性の外に一歩も出てない反応と言える)ケースなどは、
何らかを持つ者持たざる者関係も、持つなら持つなりの、持たないなら持たないなりの最善(最大限代替不可能化させた内在事情外在事情の反映形)からの距離が、
問題にされてる(不当な不利益回避や利得の発生と見なされる)場合は平等と捉える、
これと同じ枠組みに、ある時代で見られた事例に対する評価も、
次善の策(常識やパラダイムもそう見るとして)が余裕の有無の変動によらず居座ってる事態を否定対象とする根拠も、紐付けるべきだとすると、
その人達の持ってる平等観や対条件に関する像が、上のような内容
(個々の固有性差異の捨象は、局面次第ではあり得るという特別な形に過ぎないとしつつ、有限性を踏まえた内容)でない事を、
また、小学期前半の時点で既に、何かができるできないに振り回されてるものなのに、
振り回されを抑える(不自由状態から、振り回されないだけの通用性備えた軸を持つ状態へと移行できてる)有り様として、
いらぬ特化を避けた(事情の反映を上で言う形に抑えた)上で得られるもの(能力含む)しか受け取らないし、避けた事で生じる喪失(可能性含む)なら引き受ける、という方針の採用に至る事もなく
(既存の教育は、個性と言えるかの不断吟味観点込みとは言えない個性尊重からも分かるように、いらぬ特化への抑制ケアを事実上持たない為、
いらぬ特化の忌避は現状、有限性に確からしさを見たり持たせたりを、どう捉えるかについての自力の問題である上に、
近代性枠組みに落とし込む事が、解決反応や理解処理であると刷り込まれないよう距離取りしつつ付き合ってく対教育が前提)、
獲得や喪失に対し内実不問なセンスのまま(近代性枠組みに感覚を紐付けたまま)自己の歴史を、その人達が紡いできた事を、
意味してると解せるはずです。
以上から考えると、恐らく、いらぬ特化を避ける有り様でない人(応じざるを得ない事情もないのに通用領域が限定されてる事態に鈍感な人)に関しても、
文系での理解力が(具体化条件を付し直す必要のあるものかどうかの判断に疑問符つくのに)十分であるとの扱いが、
知的権威をほのめかされる事でまかり通ってしまう状況である限り、近代は終わらないし、
近代人センスが有限性に対しやってる事、つまり、表層的要素込みで限定作用を見る知性や倫理による不当な扱い(論点取り違えや帰属ミス)から、有限性を解放する事もできないのだろうと思われます。
なので、有限性への肯定否定の有り様を、近代性枠組みに閉じ込める
(いらぬ飛躍の除去能力に、近代性故の限界を与えられた人達は、負わされる筋合いないものを強いられる形になる)これまでの文系領域に対し、
自由概念絡みで言い換えると、
林檎Aも林檎Bも林檎は林檎だという処理をもって獲得される自由、(縁ある集団なり個人なりの)歴史性の産物への歴史の紡ぎ方が不問なままの保障をもって獲得される自由、
悪貨が良貨を、この場合、場の代替不可能な固有性(負わざるを得ない具体化条件)からの乖離に関して許してる有り様が許してない有り様を、駆逐する、意義や秩序の崩壊展開可能性
(事実上の何でも有りによる弊害)をどちらも秘めてる(消極的か積極的かの違いがあるだけの)両者以外の自由観
(最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない方針)がない事になってる世界に、
知性や倫理を寄ってたかって閉じ込めるこれまでの文系領域(特に、閉じ込められてる知性や倫理しか認めない、プラットフォーム囲い込みの働きを見せてきた学問界や教育界)に対し、
表層的要素込みで限定作用(場)を見る為に、込み具合が肯定否定の根拠にならないという、内実不問的意味で何でもありな世界(肯定否定の根拠が表層形にある世界)と見なすとして、それを、
通用を行き渡らせてる(場の性質にとっての表層的要素を削ぎ落し切ってる)という意味で、
実質が詰まってる(限定作用の前後で通用量が保存されてる)内実の反映と言える表層形なら何でもあり(損失系すらあり)な世界
(ある環境における種や個体の盛衰も、ある内面世界における主張選抜や注力展開も、
通用領域の広狭と確からしさとの相関、及び、より確からしいものが取って代わる運動性の、各場の性質によって具体化された現れと捉え、
何を場の性質とするかについての設定に働いてる、その運動性への阻害程度が修正余地としてあるだけとしてる世界)に持ってく作業が、
特に、その作業と整合的な理解力を文系の知的上層(余裕があってなお理解処理を量的側面に偏らせたままの、内実差異を検討できないままの人達)に求める働きかけが、
有限性に関し、矮小化させてる枠組みからの解放を、矮小化させずに踏まえた個人や社会を可能にするのだと、
また、限定前後の通用量保存(具体化条件付し直し含む)に関する次の構造が、先の意味で哲学者にとっての向き合うべき対象だろうと推測します。
何ら加工されてない状態の準備、負わざるを得ない類の加工条件の特定、
このセット(通用領域の限定作用を前提としつつ、通用を行き渡らせる処理)自体を抽象物(前者相当)とし、局面に即した捨象対象選定を具体化条件とした時、
主観を代表に、同種の他との差異要素の捨象アプローチでもってそのセットが展開される理系的局面もあれば、同種の他との共通要素の捨象アプローチでもってそのセットが展開される文系的局面もあるわけで、
理系と文系は局面の下の平等な関係であり、各々の次元設定(差異考慮の枠組み)の下で、いらぬ飛躍の除去(上のセットの展開)が求められてるだけと捉えるべきだろうに、
近代性枠組み(分離解放の成功体験バイアス)は後者アプローチを埋没させるので、その枠内にいる限り、
文系的局面において上で言う、見ないタイプの知性や倫理に相当する状態から脱せず
(例えば、分離物の統合を語る際、確からしい具体化条件で具体化されたものだけに統合対象を限る枠組みが規準化されてるとは、ヘーゲル当時だけでなく現在も言えない)、
また、文理の間の関係も、近代性枠組みに紐づけられてる事により生じてるいらぬ飛躍はどういじろうと取り除けない為、例えば、理系の領域侵犯に十分には対応できない。