主観客観(文理)のあるべき関係性(矮小化されてない両極保有)について、認識の獲得含む、不当獲得(文系域の具体化精度が論点にならない)問題踏まえつつ
2022-1-002
何かを獲得するのに、帰属の操作をセットにする(世界を歪める)ケースと帰属の修正をセットにするケースがあるとして、
例えば、嘘や誤魔化しなり演出なりで何かを達成する事も必ず前者というわけではなく、
場の疑似化されてない固有性に合わせてる状態から見て、過不足ない(具体化精度が高い)加工なら後者であり、過不足ある加工が前者と見るべきでしょう。
ただ、認識は有限能力なので、各々の有限性形態による加工が場の固有性の把握に際して避けられない為、
厳密な意味で後者と言えるにはさらに、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像への阻害ない志向の下で、
有限性形態が形作られてきた(それの構成する認識場の産物である)との条件が必要と思われます。
しかし、世界を歪めない(不可避な限定作用によるカバー領域減に伴う通用性喪失を、限定理由の確からしさでもって補う事ができておらず、通用性が取りこぼされたもの、
それを外界に押し付けるという、世界への泣き寝入り強要にならずに済む)類の認識の獲得を為すべく、その主体像に自身を寄せようにも、
自我の始点化と科学の圧倒的成功体験を基底に持つ近代以降は、主観の疑似化が俎上に載らない、理系的捨象アプローチが文系的局面でも展開される(捨象能力の強制特化)、
この傾向持つパラダイムによる、地平レベルでの阻害が環境的に満ちてると言えます。
ここで、前者セットに疑問を持たない(文系域での具体化精度が論点にならない)人について考えると、先の泣き寝入り強要を問題解決の対象に入れてない
(選ぶに値する状態、つまり、通用の行き渡ってる状態へと持ってく必要性を覚えない)わけなので、
問題解決というものへの抽象化不足(抽象次元の通用領域の狭さ)が言えて、
自我の肥大(不当な扱いを望まない対象枠が閉じる)や文系的捨象(同種の他との共通要素の捨象)能力の育成不在が、
その原因(ひいては、内面世界や局面等、無数にある各場の固有性を踏まえた、置かれたものの場での有り様に関する通用性取りこぼしの有無が、抽象的論点にならない原因)とすると、
次の意味で、前者セットは近代の負の産物として捕捉される対象に思われます。
抽象化された問題解決を先の主体像の下に具体化する枠組み(何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化枠組み)が、
改善余地のあるパラダイム(今なお健在な近代性)によって過剰に割り引かれてる、という構造を、
教育体系(可能性拡大の推奨や主体的勉強の推奨等の理念系なり、既存教育と整合的な評価基準を内包する社会なりも含む、
上の主体像から乖離してまで獲得されたものを許容しないよう促す方向性を欠いた価値体系)による強力な保全作用込みで、環境が持ってる。
ところで、認識の不完全性自体(不可避な加工作用)を咎めても意味がない(与件なので、問題点として取り上げるに値する要素としては扱わず捨象する)にしても、
どんな認識でも許容するのは現実的でない(教育の意義すら否定してしまう)わけで、
しかし、認識に関し先の主体像への志向を最大限化してない点(その現れ)をしか咎めないようにしようにも、
前述の通り、我々は主観客観の両極保有が疑似化や強制特化を環境的に強いられてる状況にあるわけです。
この状況では、例えば、不当合理(理系的処理の領域侵犯)を批判しても、帰属修正が不全な点で質的に変わらない過剰特殊
(通用領域の広狭と確からしさとの相関を、具体的に持ち出す事を可能にしてるところの、観点に対しては適用しない、
したがって、第一根拠的に持ち出しておきながらその相関だけに頼ってるとは言えないデカルト地平が、修正されてない状態)に差し替えようとしてる形にしかならず、
主観の信頼のなさへの対処として客観の上位化が起きてきたと捉えれば、対処前に話を戻す作用の近代版なので、
有害物同士の綱引き(矮小化された対等性)でも良いから目先的に対応せざるを得ない局面に、限定される次善の策に過ぎず、
次善の策の常態化(理想を過剰に割り引く系の過保護状況)によって、言わば、相対主義の弊害見ぬ振りと絶対主義の弊害見ぬ振りの二択を振り子するだけの世界
(例えば、価値を、場の疑似化された固有性という事実上の他の場に決めさせるか、場に決めさせないかの二択である以上、
場の疑似でない固有性に即した観点の下での選抜が、言い換えると、フェアな選抜の持つ選抜精度が、問題点把握にも望めない世界)へと矮小化してしまう危険性が、
先に見たように、場の固有性把握に関する帰属修正を、つまりは、次善の策の制御を期待できない近代性下では十分高いわけです。
個人的には次の話(主観が管理側のイメージ)がその危険の中身を捉えるのに、加えて、主観客観に関する矮小化されてない対等性も内包するだろう、
文系的局面では同種の他との共通要素の捨象次元の維持が、理系的局面では同種の他との差異要素の捨象次元の維持が要請される、
という文理の両極保有枠組みの働きを捉えるのに、描像的に参考になると期待します。
人権主権の関係は、弱者圧殺や個人圧殺の糾弾がフェア
(割り振りが、各場の疑似化されてない固有性に即しているいないにだけ着目する、言わば、各場尊重を内容とする捨象の維持)の下の帰結要求とは無関係な現状では、
分捕る主体同士の綱引き(対立構図)に話を矮小化させられ、先の主体像(フェア志向が内包されてる)
に近いほど信頼するという評価基準の埋没した帰属操作な世界(内実の確からしいものであろうと表層形で断罪される世界)、
個人の外在場と国の内在場を、あるいは、国の外在場と国際社会の内在場を同一視しつつ、
プレーヤーと管理者、それぞれの立場から場の上に立ち上がってる秩序を負わせる負わされるに値するものへと持ってく
(場の疑似でない固有性の発現に対する阻害を防ぐ)協力関係を内容とする対等性への道が、潰されてる世界に加担してる。
ご支援の程よろしくお願い致します。