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秩序の現状や今後を憂うのなら、パラダイム刷新(分捕り等の帰属の操作について、基盤レベルでのそれにメスを入れる事含む)の阻害要因除去に協力を

2020-11-006

仮説と実証の行き来(Aさんについてのイメージが、軽く修正された的レベルの行動原理の把握刷新含む)による確からしさの向上(通用領域の拡大)も、
言葉の意味合いやニュアンスの、使われる使われないの実態反映による変遷のような確からしさ(場との齟齬のなさ)の確保も、

より確からしいものが取って代わる運動性が、抽象と具体の行き来の形で現れてるだけであり、我々がすべきは抽象化と具体化の精度を高める事だとすると、
保守革新の枠組み(変遷観)は、権益対立などに話を矮小化して論点をずらしてる形(帰属が操作されてる形)です。



近代パラダイム(分離洗練や理系実績を背景とする内実不問)が盲従されてる時点で、人権主権の対立構図はじめ、矮小化枠組みが前提にされてしまうと考えると、

己に非が無いかのように見せかける為の批判などの、帰属の操作に対する現世界のぬるさ(理系域での不備に対する存在のし難さの水準に及ばない状況)を修正しよう
(ひいては、分捕りや泣き寝入り強いの発生を抑えよう)と思うなら、対パラダイムの問題は避けられないのでしょう。

ある権利を軽視したり悪用するのを可能にすべく別の権利や立場を行使する、といった話がどれだけ極端な形で展開されてようと、
権利の軽重設定がどのような原理の下にあり、どうあるべきだったかという問題に回収され、結局は、帰属の操作の有無の問題に帰着すると捉えれば、

秩序の現状や今後を憂う思いは、以下のような理解を踏まえた、パラダイム刷新(基盤レベルでの帰属の操作にメスを入れる事含む)の阻害要因除去に変換してしまって良いように思います。



次元設定自在性(人間性)が、局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢(差異への反応の方針)に紐付けられてないと、
知性や倫理が自覚の有無によらず帰属の操作に注ぎ込まれてしまう(使ってるつもりで振り回されてる事態)のに、

親への盲信(不完全さ持った一人間として扱わない)状態に留まるがごとく、教育(世界標準の知性や倫理)が負ってる近代パラダイムの弊害
(同種の他との共通要素の捨象能力を埋没させてしまう現パラダイムは、代替不可能化させてない固有性を代替不可能であるかのように扱う非も隠してしまう為、先の批判が為されてる事態を招く)をスルーしてきた結果、

批判能力の基底にその紐付けが無いまま情報量を追う事
(量追求の副産物としての洗練にしか質を頼ってない有り様、内在での囚われを除去対象としない自由観)に疑問を持たない方向(外に解決求める現象観)へと強化され、

抽象化や具体化の精度、場の本質と体系(による扱い)との齟齬程度、それらを対(大小様々な)社会秩序でも論点とせずに、話を矮小化させて(分捕りや泣き寝入り強いの向きを変えるだけの着せ替えで満足して)しまう。



表層形(ポジションや具体的有り様)でもって断罪するのを批判する一方で、表層形が言い訳になると捉えてるも同然な言動を見せてる次元(結局、表層形を根拠にしてる点で、肯定否定が形骸)から、
実質が詰まってるのならどう見えようとも不当な不利益回避や利得は生じてないとの前提で、実質が詰まっているいないでもって肯定否定する次元へと移行する

(実質があるかのように形骸物を扱う非と向き合い、通用領域の広狭判定を確からしさの根拠にするのと同時に操作もする手法を用いて何かを達成する展開の発生を抑え込む)上で、

奪う事を批判したり奪われる事に対処する、そうした行為自体が奪ってる形となるのを強いられる近代パラダイム(内実不問枠組み)から、
上の紐付けを基底に据えてない(次元設定、ひいては、通用判定が操作的)ままに何かが得られる事を不当(帰結を妥当でない)と見る観点をもって、知性や倫理に対し内実を問う

(場が取り出しを要請してる差異と実際に取り出される差異との間の齟齬解消の観点をもって、ドーピングによる優勝のような不備のある選抜を炙り出す)枠組みへの移行が必要。



市場や民主制も、ドーピング選手が参加しまくってるレース結果の受容を強いる内容の、ポジションや具体的有り様の規定でしかない
(場の性質特定が個々事情の直接反映な方式に対する形式反転系の主張も、理系で言えば、都合の良いデータで理論を組み立ててる的)状況なのは、

人権主権財産権はじめ、場の本質に即した割り振りを支持してるしてないの差(フェアアンフェアの差)に扱い差を付けないまま保障する権利観(近代パラダイムの産物)が前提だからであって、

個々主体の事情などの、情報に場との齟齬程度という質の違いを見ない(扱い差へと反映させない)まま形式の洗練のみが続けられてきた近代世界が目の前に広がってるのに、

フェア志向の忌避など、修正試みの阻害すらあるのは、解決処理に際して持ち出す原理の構成要素に、近代パラダイムの混入を許してきた(その功罪踏まえた刷新形への移行が進まなかった)せいに過ぎない、

(主張をしてる形になってる時点で、これは確からしいがあれはそうでない、といった判定原理を示してるようなものであり、
そうでないとの扱い受けてる側から、扱いを受容するだけの根拠があるか検討する機会を奪うのは、理由なく殴られろと言ってるも同然なので、

事実上の主張発信が反応の時点で不可避な以上、不当な扱い受けるのを双方共に防ぐべく、検討結果を原理の確からしさ向上に最大限繋げようとする姿勢に加え、
検討を妥当な帰結へと導けるだけの批判能力がないケースに向けた、実力十分化まで影響力行使控えや実力向上の働きかけが必要に思われます)

例えば、ある事象への反応に際して参照されてる像(成立パターンの集約なり基準化)が、
先の徹する姿勢(大騒ぎも見て見ぬ振りも抑制)の下で結ばれてるのか、振り回される必要ないものに振り回されてる状態で結ばれてるのかで、反応(無反応含む)に扱い差を付けるのを怠ってきたせいに過ぎないのなら、
改善の余地は全然ある。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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