フェアネスを基盤とした対等な関係、その達成に責任を持つ管理者ポジション、国は対自国社会(対個人)では後者の立場。教育の義務や権利もこの観点で捉え直しましょう。
2019-5-006 自己責任論の登場と日本との関係に関するスレ(大艦巨砲主義さん)に投稿
責任を、
以下の理解を背景に、場の管理と結び付けましょう。
フェアネスを基盤とした対等な関係、
その達成に責任を持つ管理者ポジション、
国は、
国際社会では前者、
自国社会(対個人)では後者である事が要請される。
管理者、被管理者の権限、権利の根拠は、
その責任に求められる。
フェアとは、
場の本質(代替不可能な要素として取り出された固有性)に即した、
扱い(着目無視や損得の割り振り)への支持。
無数にある局面も、内面世界や自国社会や国際社会も、
場であり、同じ原理が働く。
これら理解を欠いてる事が、
引き受けるべき帰結を齎す、割り振りについての確からしい原理の欠如の、
ひいては、理念や秩序や対有限性の形骸化の、
原因であり、
日本に限らず、問題なのだと思います。
(挑まない傾向を、社会停滞の原因として見るにせよ、
役回りの割り振りの問題と捉えましょう。)
それら理解を踏まえた方向に、
平和も、個人の尊厳や自由平等も、解釈を更新し、
憲法や国連の改正された姿を想像しましょう。
教育の義務や権利も、
それら理解の下に捉え直しましょう。
ドーピング選手(問われてる差異の抽出を妨げるもの)の参加を許してる大会運営が、
帰結の引き受けを強要してる、
この形を避けたいのに、失格のような対処が無理なのなら、
教育に頼らざるを得ません。
また、教育の内容も、
先の責任を果たすのに必要な、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力の、
獲得に繋がるものに替えましょう。
日本のあらゆる組織を、その能力をもって組み直すべく、
まず、その能力と整合的な知性や社会性を育成する必要があると思います。
なので、
思考力も理解力も、能力獲得(能動的、受動的共に)も、
いらぬ特化(いらぬ飛躍、いらぬ通用領域限定)を避ける処理が、
機能不全であるなら、
量的な話に留まる、
と認め、
その処理に当たる、相互依存的でもある次の二つ、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究、
その場その場の代替不可能な固有性と次元設定(着目無視)との合致配慮、
これらを知性や倫理に求めましょう。