2577文字、統治形態に言及してる学問や言及してるも同然な実践と接する際に押さえるべき点について
2023-8-001
自由平等に関する実践が、奪われる側から奪う側への移行試みになってしまう(奪い合い世界の外に出る話にならない)のは、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存(内外境界設定から恣意性を取り除く処理を包含するので、
持ったまま倫理を語ると倫理に偽装した奪い合い世界の保全を意味するだろう、奪う奪われる現象との親和性を、
拒絶してる形であり、したがって、その人における何らかの獲得喪失について、それらが正当であると言える為の条件と見なせる実存)が、
自由概念や平等概念の中身と整合してない(その実存の言い換えである、内在場外在場の疑似でない固有性の尊重とバッティングする)、
かつ、個人の実践における具体化条件になってない(疑似化してない個別性を振る舞いの根拠にできてない点から見て、文系的な具体化能力が不十分な段階にある)せいと思います。
そして、この状況を可能にしてるのは、文系域での問題解決とは、同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化が不十分なもの(特に実存)を、十分な状態に持ってく事である、
この理解を欠く為に、対個人や対社会が疑似問題化、疑似解決化してる事態に出くわしても修正余地部分を取り出せない知性倫理美意識のままで権威を持てる
(その不十分性を文系的問題の抽象像として持ちつつ、上の実存を具体化条件にして具体化する、この構造を問題設定についての解決状態扱いしてれば達成可能な、
自己、他者、他種、無生物、概念に生じてる問題を局面に即した形で取り出すという局面の下の平等を、
阻害する疑似問題の保有も許されてる)という、文系空間のこれまでの有り様と思います。
例えば、主観を否定して客観を採用する、客観を否定して主観を採用する、こうした反応が、
個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素の捨象を引き受け、個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素の捨象を引き受ける、
という内容の現れではないケースでも支持する(形骸性を修正しない)文系者が影響力を持ててしまう点
(次善の策に対し余裕の有無と無関係なく肯定否定するなど含む、局面と着目無視との不一致への糾弾を、
自身の矮小化してる地平の正当化故に、矮小化する言動が通ってしまい得る点)に問題があるわけで、
実際、哲学すら未だ地平を、上の内容持たない論理像への文系事象の押し込め、単なる実態露呈での満足の強要、この二択
(個別性が根拠になる局面での、個別性の内実へのコミットを持たない為に質隠蔽伴う個別性捨象か、内実無検討な為に事実上質偽装に等しい類の個別性根拠化かという、
表層をなめすにせよ、表層の解像度を上げるにせよ、表層洗練以上のものは得られない二択)へと矮小化する内容に留まっていて、
先の実存でない個人(抽象化具体化の不十分さが、抽象化具体化の交互反復である歴史性に言えてしまう生)や先の実存の集積でない社会に対し、
否定して修正する力を(地平の矮小化によって埋没させられてる方向性であるが故に)持ってません。
場の性質(場が持ってる偏り)が価値を決める(その場に置かれてるものの具体的有り様やポジションを、もちろん、役回りや意味付けを決める)点は前提で、
位置付けられが受容に値するしない、ひいては、対秩序の論点(内在性質と外在性質の統合体である現象は、両性質が代替不可能的であるほど確からしい、
という現象観とも整合するそれ)に相当するのは、場の性質が疑似化してるしてないの差異であり、
先の実存の集積である社会における、その社会の性質を反映させた価値基準は修正余地がない、
つまり、場に置かれてるものにとって受容に値する(受容した結果の帰属関係は妥当)と言えるのに、
集積時の場の性質をもって場全体を整合させる為だけの権力実践へと向かわせる力が、既存の哲学にはないように、
内面世界での管理者ポジションの為す権力実践に、有限(内外境界発生)の与件性レベルの強い受容せざる得なさを持たせる
(先の実存を生きた結果の個別性を、内在場の性質として尊重する、という内容を内在場での整合に持たせる)力は、既存の哲学にはないわけです。
(そもそも、個別性の疑似化除去を事実上扱えない先の二択地平は、場の性質が疑似化してるしてないの差異を、個々の場の個別性が問題になる場合に扱えないので、
既存の哲学は、防げる類の文脈取り違えを取り除き切れないままでの対象位置づけという意味で、理解力にいらぬ限界を負ってると推測されます。)
ところで、内実の確からしさが上限である時の表層形は肯定する、これを支持してる人は、
個人の歴史だろうが社会の歴史だろうが、その表層形自体を論点にはしないはずです。
抽象化具体化の不十分さが解消されてる点をもってその上限に相当すると解するなら、
秩序は具体化精度の最大化をもって肯定されるので、場の性質(もちろん、変遷する)という具体化条件が疑似でない状態を、
損なわないように立ち上がっているいないが、場の上に立ち上がってるもの(形式込み)に対する肯定否定の条件になるはずです。
したがって、この観点を埋没させる既存のストーリーや分類比較は有害なものと見なす事にもなるはずですが、
統治形態への言及に関してこの有害性を修正されないできたのも、先の二択地平の弊害、さらに遡って、局面と着目無視との不一致への許容性の弊害に思われます。
競走などでの管理者立場とプレーヤー立場の関係像(その場における価値と着目無視との合致を、それぞれの立場で引き受けるよう他方に要求する関係像)、
個人の外在場と国の内在場の一致、国の外在場と国際社会の内在場の一致、これらを踏まえた抽象像
(当然、何らかの小コミュニティ大コミュニティ関係も、同じ原理が適用されるもの扱い)、
さらには、歴史上のある地点における表層形自体でなく、展開性(歴史や論理)を抽象化具体化の交互反復と見て、抽象化具体化の十分不十分だけを問う
(例えば、反省のようなフィードバック現象も、抽象化具体化の精度が低いという内実が言えるなら、
したがって、同種の他との共通要素捨象を十分には機能させられない地平の産物であるなら、形骸や疑似解決と見なす)対歴史の像、
統治形態への言及にはこれらを先立たせる必要があるとの理解を、対関連学問や対関連実践に際して押さえましょう。