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平等概念や自由概念の解釈を、絶対主義相対主義の同時否定を組み込んでいるいないで分けた時、いない場合のそれらは形骸化された善の産物だろうという話

2022-1-005

社会によって個人の有り様が規定される(割り引かれる)のを、場の性質とされてるものが疑似かどうかとは関係なく肯定否定してる事態と、整合的な平等や自由は形骸化してる善の産物であり、

具体化精度の最大化(文系的局面ではフェア志向と同義で、同種の他との共通要素の捨象能力が必要)
に解決(例えば、理想現実関係の排安易なバランスの達成)を見る解決観と、整合的な平等や自由は形骸化してない善の産物である、
そう言えると疑います。

(例えば、内実の確からしさを確保し続けた帰結としての固有性とそうでない固有性とを区別せず、両者に同じ資格を保障する方針は、
言わば、ドーピングしてる選手をレースに参加させるようなもので、各場が着目するよう要請してる差異の埋没、ひいては、世界の茶番化を齎すものに思われます。)



我々の認識は、通用領域の広狭と確からしさとの相関を根拠に、より確からしい位置づけを選んでるだけでしょうが、
観点次第でAが選抜される事にもBが選抜される事にもなる為、観点設定にその相関を適用してる厳格さが、
認識を踏まえた振る舞いの与える影響に対し、問える責任に相当してると想像します。

その場合、肯定否定も、それらの具体的反応への持ってき方(具体化)に対する肯定否定含め、つまり、自他の別を抽象化した次元であれ、
通用の行き渡ってる状態を確保しにいってるだけなので、より確からしいものが取って代わる運動性(無限性)への阻害の有無が問題であり、

フェアな選抜が、問題点把握や過大評価過小評価把握の精度を、ひいては、修正作用を最大化させる点を踏まえると、
フェア志向である事をもって、肯定否定の責任は果たされると言えるはずです。


なので、フェアな割り振りからさえも自他を護る救済観(余裕ない局面で次善の策を拒否したり、余裕ある局面で次善の策に固執する振る舞いも含む)があり、
また、市場や民主制含め、場の実態を疑似化の含有程度について不問なまま受容するよう強いる圧力があるなど、

世界が、場の違いに合わさない絶対主義と疑似化してる場であろうとも合わさせる相対主義から、今なお構成されてると言えるのに、

場の疑似化されてない固有性にのみ合わせる(その固有性に即した割り振りの意味での、フェアかどうかで肯定否定する)方が通用領域は広いとの指摘を受けてなお、
絶対主義的観点や相対主義的観点を捨てない(それらの弊害をまき散らすのを止めてくれない)人達に対しては、
その点について責任を問えると考えます。



とはいえ、彼らにしても、認識者である以上、より確からしいものを選んでる形ではあるわけで、
しかし、実際には通用領域の狭いものを選んでる(結果、受容に値しないものを世界に負わせてる)、

つまり、形式と実際との間により確からしいものが取って代わる運動性を阻害してる
(負わせるに値するものしか負わせない善状態を形骸化させる)何かが挟まってると推測されます。


例えば、意識は、限定する事で注力的に問題解決をしてると言えて、
カバーを放棄した領域の発生分に当たる通用性喪失が、限定の引き受けざるを得なさ(理由の代替不可能性)でもって補填されてる時、
つまり、具体化精度が最大化されてる(場の疑似化されてない固有性に合わせた加工である)時、

無意識へのフィードバックも確からしさ向上や確からしさ確保な変遷を最大化させるもの
(精度の高い実験と低い実験のフィードバック差を参照)になってると考えますし、

同じ構造が、認識も有限能力であるせいで割り引きなり加工なりを被る、認識対象(世界や真理も込み)との関係や、
採用観点に落とし込まれるという限定作用を被る、先の相関(及び、より確からしいものが取って代わる運動性)との関係においても言えると類推します。


他方で、自我の始点化は、先の相関を第一根拠的に持ち出しておきながら、観点に対しては適用しない(認識場の疑似化が修正されない相対主義事態)、
したがって、その相関(及び、より確からしいものが取って代わる運動性)のみに頼ってるとは言えない(つまり、上で見た阻害がある)わけですが、

それが当時の問題(現実との齟齬の拡大)を少なくとも表面上は解決するものであった上に、
同時期の似た事例(国家の権威や科学の在り方における分離)と相まって、その解決が過大評価された(フェア志向でなければ、過大評価過小評価の把握精度は期待できない)為、

内実を確からしいものにする内容の要請(認識場に対する表面を払うだけの実態主義に留まらない疑似部分除去)であってすら振り子を戻すものと見て、
分離という状態に解決(通用の行き渡ってる状態)感を覚える固執へと、また、表層形反転の地平に縛り付ける対立構図へと、
話が矮小化されてきた(次善の策の常態化の一種)と疑えるように思います。


後者の構造は冒頭の事態と重なるものですから、その事態と整合的な内容の平等や自由は、それらの弊害も含め、
割り引かれる事でかえって通用領域が広がるケースを、解決像に含めてない(文系的局面と、同種の他との共通要素の捨象次元の維持とが十分には結びついてない)地平の産物、
そう言えるのでないかと期待します。

つまり、具体化精度の最大化(絶対主義相対主義の同時否定)と整合的な、より正確には、
何ら限定されてない状態の準備、引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの最大限化(による通用の行き渡ってる状態の確保)を文系的局面でも機能させられる枠組みと整合的な平等や自由が、


代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像(フェア志向による各場への形骸でない尊重を含む)を通用性が取りこぼされてない最善(咎めるに値しない状態)とし、
条件の違いによらない各主体の最善で繋がる平等や、できるできないについての有限性形態を含む表層形自体に対し最善を見ようとしない

(その主体像の下で展開された具体化抽象化の交互反復の、つまり、具体化抽象化の精度が最大化されたそれの帰結である固有性や、
その固有性の下で構成される認識場へと至る道が護られる)事による自由が、


埋没させられてきた原因は、その含まれてない地平に閉じ込める知的環境(を保全する作用)にあると考えます。
後者的な平等や自由とは異なる解釈が、例えば、憲法に記載されるなどして、社会に持ち込まれる事に疑問を持たなかったと推測される文系学者の存在を踏まえ、
能力への過大評価を許してきた形の既存の知的環境に対し、修正する必要性を覚えましょう。

(例えば、内在不問外在軽視な内容の自由は、井の中の蛙状態で可能になってる分を自由と呼んでるわけですから、
死角領域で生じてるものが自分にとって都合の悪いものである場合の対応の放棄、もっと言うと、対応の世界への押し付け、
つまり、世界が自分を過保護に扱ってる場合にのみ存在が可能な、言わば赤子偽装による次善の策常態化という存在様式と引き換えであって、

そんな制約付きで、先のフィードバック最大化もない存在様式を自由と称し、社会に定着させるべく、権威を付すなどして励んでる学者を見かけても、
自分を過保護に扱うよう世界に強いてるだけであり、その人自身井の中の蛙状態なら取り上げるべき問題点も取り違えてるだろうと捉えて取り合わず、

過保護な世界像しか描けないのも、既存の世界構成の外に出ない凡庸さを特別扱いに値すると帰属操作するのを許してしまう既存の知的環境の、
それこそ、哲学科すら絶対主義相対主義の同時否定を育成しないそれの、産物な現象と見なしましょう。)



また、先の交互反復の帰結として獲得される固有性を、個人に求める事が、
内在性質外在性質の統合現場の一つである認識場(内在的な問題解決スタイルである自我含む)に対する、実態主義を超えた疑似部分除去であり、

真理なり存在性なり理想なりを割り引いてしまう、取りこぼしてしまう件の解決を、
具体化精度の最大化による通用性補填とした場合(補填主義)のその中身であるとする。
文化(外在的な問題解決スタイル)やその変遷を肯定する条件としても求める。

これらを、例えば、ハイデガーに対する修正点としてハイデガー以降に実際に見られた流れから乗り換えるよう求めるなど、
絶対主義相対主義の振り子な歴史から脱する方向性としましょう。

(存在についての謎を、有と無の間の差異の登場理由と捉え直した場合、存在論は有限性の登場理由の描像問題になると思われ、
その解答として先の類推、つまり、無限性が自身たるべく有限性を要請していて、
無限性を阻害なく取り込んでる有限性ほどその要請に適ってる、との解釈に期待を持ってますし、
その場合、補填主義は無限性の要請に応える存在様式と考えます。)

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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