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3999文字、対不幸やそのネックについての考察、近代のやり残しにも触れて
2023-6-007
対不幸の本筋は、代替不可能な内外事情にしか応じない実存(与件性を装ってない有限性形態)を生きる人を増やす事
(全員がその実存を生きてる世界で生じる不幸については、いらぬ不幸を取り除いてなお残る、引き受けざるを得ないもの扱い、
もっと言うと、例えば、自他の能力限界への肯定否定有り様は、彼我の相対的位置への意味付けが過剰かどうかにも関わるわけで、
有限の与件性の受容せざる得なさが受容条件になってない事態を修正余地とする内容の知性や倫理や美意識に適うもの扱い)であり、
修正余地のあるものがないと、ないものがあると十分見なされ得る現状(受容に値しないものの受け手についての、
自己や他人、他種、無生物、概念等が含まれてる抽象像から、文脈に即して受け手の像を切り出す処理の時点で、
その人の局面事情との付き合い方に処理の具体化精度がかかってる為、対不幸における疑似解決疑似問題への対処として冒頭の実存が要請されてる)において、
特定の問題を取り上げ、介入する対応は次善の策(必要以上に踏み込んでる特化は、本筋への阻害)なので、
この本筋と次善の策との間の理想現実関係が、引き受けざる得ない限定条件のみでの橋渡しから成る限定化前後の関係
(抽象化具体化の不十分さ解消を意味し、文系事象においては同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関するそれ)に落とし込まれてる状態と、
実際とがズレてるなら、そのズレてる部分は介入の過不足を意味してると解しましょう。
また、人間であれ、他種であれ、無生物や概念であれ、場に置かれたものは場の性質に合わせた整合を受ける(現象には内在性質と外在性質の統合体以上の意味はない)のであり、
秩序の論点は、場から受ける扱いの良し悪しやその操作具合でなく(先の受け手像の抽象化が足りてたら、ここを論点にはしないはず)、
冒頭で言う修正余地に当たる、場の性質(管理者立場やプレーヤー立場の尊重対象)の疑似化部分の除去具合である
(場が価値を決める事自体は前提で、需給事情が根拠になる局面であれば、冒頭で言う本筋も同じ構造と言えるけれど、それを構成する個々事情の疑似化具合が問題になる)。
そこが除去されてる整合ほど具体化精度が高く、対歴史や対論理において我々に可能なのは、
与えられ続けてる抽象化具体化交互反復(展開自体)を、先の橋渡し(限定理由の確からしさ上限化による、限定作用に伴う通用性低減の補填)など、
抽象化具体化の精度が最大化されてる状態に寄せる事だけである、そのように考えます。
(この寄せについての理解を押さえる事で捨象可能な疑似問題や疑似解決に、
因果性自体への疑念も、精神と肉体の間の既存イメージも、相当してるのでないかと期待します。)
個人と社会の関係に関して典型な反応である、場に合わせる合わさないという統合分離発想(統合先や分離物の内実確からしさは論点でない)も、内在場と外在場の上下論に他ならない為、
どちらを上にするのであれ、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な原理不在が、場を尊重する原理について言える一方で、
内在場についても外在場についても、それらの性質が疑似化してた場合、疑似化部分を修正余地として扱う態度も意味する冒頭の実存は、その原理の体現でもあるはずです。
ここで、個人の内在場として認識の場を考えると、そこで起きてるのは、通用領域の広狭と確からしさとの相関
(肯定も否定も保留もこれを踏まえた選抜であり、論理も通用が行き渡ってる状態を保存してるつもりな表層形変転でしかない為、この相関は逃れる事のできない、我々にとっての第一原理)が、
採用してる観点(場の上に立ち上がってる形式とも見なせる着目無視設定)の下で持ち出された結果の確からしさ判定と言えて、
しかし、採用観点に対しこの相関が機能してない場合(個別性から疑似化部分を取り除くのに必要な、同種の他との共通要素捨象を、
教育してもらえないのに権威にもなれる既存の文系空間は、文系的側面に関して機能するのを阻害してる形)、
言わば、競走局面での評価に薬の効き具合や副作用無視具合の側面が含まれてしまってる的な、局面と着目無視の不一致事態を意味してしまいます。
つまり、認識の場において価値基準を決めてるのは認識者の内在事情外在事情ではあるけれど、
価値付けが実質を伴ってる程度(内実の確からしさ程度)を決めてるのは、認識者の引き受けてる内在事情外在事情に対し働いてる、より確からしいものが取って代わる運動性の阻害具合であるわけです。
この阻害を最小に抑えてるのが冒頭の実存(同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化の不十分さ解消の一種)であり、
その実存方針を(無意識なり肉体なりのレベルで)生に落とし込んでる人(10秒前の生有り様、5秒前の生有り様、1秒前の生有り様、
こうした具体形を紡ぐものとしての抽象化具体化交互反復に、不十分さ解消という質を持たせてる人)をできるだけ増やす事が対不幸の本筋である点、
加えて、増やす上で、個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討を、
例えば、近代始点での分離の成功体験によって強化されたそれらから成る論理像や権利像を文系において掲げる理論に権威を付し、まき散らす所業を、
未だ許してるという既存の学問界や教育界の有り様が、冒頭の実存と整合的ではない対外在を、文理の局面差異に関して強いてる形である為に、最大のネックである点を認めると、
対不幸は、局面と着目無視との一致不一致問題(フェアアンフェア問題もこの一種)の延長線上に捉えるべきでしょうから、
フェアを越えて自他を助けない救済像への上書きを、他の救済像持つ人々に求める試みに対する、
余裕の有無(目先きに走らざるを得ないだけの事情の有無)と整合してない阻害反応については、
対不幸の名の下に、受容に値する(帰属関係に修正余地のない)幸不幸しか負わされない世界への接近を妨害し、
帰属操作(奪う奪われる現象の発生)が可能な状況を保全してるも同然と見なしましょう。
注1
上で言う相関は方法的懐疑でも前提になってるのに、その相関を第一原理とするところにまで遡らなかった点が、
自我の内実確からしさ問題を含む、認識の場の性質に関する疑似化具合が問われない状況
(例えば、直観系や現象学系へのその観点からの修正要求の不在)の原因の一つに思われます。
(内在的問題解決スタイルである自我と外在的問題解決スタイルである文化との間の、抽象化具体化交互反復に質を持たせる事ができてるかどうかは、AがAである限り持たざる得ないものと持たなくてもAでいられるものを分けた上で、
前者にしか応じない事もできるのに、後者込みで応じる内容してる対環境の結果、
したがって、自己に帰属するものが含まれるそれを環境のせいにする、この種の責任擦り付けを、
言語レベルでも家庭レベルでも肉体レベルでも生じる、同じ現象に対する接し方の差異に関し防いでるかどうかとして捉え直せます。
ちなみに、本文で見た近代性による強化は、個別性に関してそこを分ける能力の埋没強化に働く為、
個別性が根拠になる局面での個別性捨象や個別性内実無検討の帰結、つまりは、文系的局面での確からしさ保証をカバーできないパラダイムの反映として、
具体形パターン網羅に際し具体化精度差異を見ない、言い換えると、量的でしかない対象理解なり統合達成なりを、
有限者においては、抽象化具体化の不十分さがその時点での解消限界、冒頭の実存を生きてる事実によって保証されるそれでありさえすれば、修正余地がないので受容に値するのに、
まき散らすのは、後者込みで応じる内容の対時空の結果であり、哲学の対パラダイム性から考えて、上の責任擦り付けに対する忌避は哲学の形骸化阻止条件と疑えます。)
注2
近代始点に見られた、救済観修正(この場合、冒頭の実存と獲得喪失とを整合させる方向に、得る資格の像を修正する働きかけも込み)とは関係のない単なる分離試み(先に見た統合分離発想)は、
その時点では状況に即した次善の策と見なせるにしても、余裕が生じてなお上の上書き修正が放置されてるなら上で言う阻害反応の部類だろうに、未だ放置されてます。
無限者(先の相関から我々にとっての最も確からしい対象と見なせる者であり、より確からしいものが取って代わる運動性自体とも疑えるけれど、
有と無が完全一致でない宇宙においては有限性の範疇を出ない有無構図では、捉えられないとも疑える)に、
対峙させる有限者の有り様の、冒頭の実存(もちろん、対外在に関する上の運動性とバッティングしてない、
フェアを越えない救済観持ち)への上書き修正に関する放置も同様ですが、これは、
理想を割り引く程度を現実への軽視の回避という条件下で最小にする内容の、対理想の原理に関する不在を、
ひいては、その原理不在からくる対真善美での不可避とは言えない類の割り引きの発生を、意味すると考えられますから、
近代パラダイム下での成果が著しく、多岐に渡るとしても、その中に留まる限り、
有限者による対真善美での距離縮減の上限化は勘違いであり続ける、したがって、そこの上限化有り様を紡ぐ内容の個人史なり人類史なりは達成されないと言える
(この達成に関しても学問界、教育界の有り様は最大のネックである)ように思われます。
注3
本文で言う対不幸における疑似解決疑似問題への対処(受け手像の切り出し問題)は、
主語や述語や意味の切り出し処理それぞれでの、抽象化具体化不十分さ解消を内容とする対言語に拡張可能な気もしますし、
場に即した形に切り出す以上、曖昧明晰スペクトラム上のどの点でもあり得るとする態度が採用される関係で、
場と無関係に両極持ちや一極持ちを支持する態度を疑似解決と見なす対思想を含んでる気もします。
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