対象理解の上限に至れない哲学者も、存在性を防げる類込みで割り引いてしまう芸術家も、近代パラダイムが教育の背景にある限りデフォルト
2022-8-005
書き手の振る舞い(どんな主題にどういう反応するか込み)に対して、読み手側の条件(現代の価値観なり初心者の立場なり)を押し付けて断罪したり、逆にそういうものだとして無批判的に応じたり、
そうした過大要求過小要求は絶対主義や相対主義の振る舞いですから、テキスト解釈問題も、相対主義絶対主義の二択、
より正確には、場に合わせる合わさないの表層形二択の外に出るルートを獲得しない限り解決しない(帰属の修正余地を潰せない)問題の一種として捉えるべきかと思います。
(この表層形二択は理系で言うと、実験精度を無視して実験結果をフィードバックしてきた仮説と検証実験を拒んできた仮説、という具体化精度が論点になってない二択に相当するので、
利他利己を個々具体とする抽象次元を埋没させるなど、洗練形含めてそれに誘導する権威との付き合いを必要最低限に抑える事で、
より確からしいもの、通用領域の広いものが取って代わる運動性への阻害が、自身の知性や倫理に生じるのを防ぎましょう。)
そして、その二択の外(表層形が場の疑似でない固有性に即しているかいないかという帰属の修正余地を、つまり、表層形自体でなく内実の確からしさを問題にしてる地平)と、
課されてる条件下での最善でもって過去や未来とすら繋がってる次の平等観(この場合、書き手も読み手も同じ観点から肯定否定される)とは重なってると個人的には思います。
子どもにも子どもなりの最善があるし、怪我してるなら怪我してるなりの最善があるわけで、
課されてる条件上の最善からの乖離は誰もが咎められ、誰もがそこしか咎められない、
(この意味での最善であっても、置かれてる場の疑似でない固有性に即した割り振りの結果として、表面上罰的扱いになる事は全然ある、)
同種の他との共通要素の捨象を用いて十分に代替不可能化させた内外事情にしか応じない主体像である時、その主体の有り様は、
理想を割り引く程度が条件上の最小である具体化条件(有限の与件性とより確からしいものが取って代わる運動性、これらに帰属してる、つまり、帰属の修正余地がない具体化条件)と見なせるので、
その主体像からの乖離を誰もが咎められ、誰もがそこしか咎められない。
(選択行為は、場の性質に合わせて場に置かれたものが整合を受ける現象の一種であり、
内面世界を舞台にしたその現象について咎める事ができるのは、場の性質が上の主体像の帰結かどうかだけ。
別の角度から言うと、選択行為は、設定した観点を具体化条件として、より確からしいものが取って代わる運動性を展開するだけであり、
責任なり自由なりの所在として、観点設定に対するその運動性が阻害されてない場合を現状の上限と見る具体化精度の問題、
内実不問故に表層の洗練しか見込めず、搾取可能状況を潰せないのに今なお支配的な近代に対する乗り越えに相当するそれ、があるだけで、
例えば、確定度の高い有り様を選ぶのであれ不確定度の高い有り様を選ぶのであれ、
選ぶに値するとの判断を齎した観点設定が、言い換えると、確からしさ差を意味する差異の選択が、上の主体像の反映の産物であるならば、
上の運動性が負わされてるものは、代替が利かないという確定度の高さ故に引き受けるに値するものと言え、
確定不確定という表層形が帰属の修正余地の有無を混同させてる状態で持ち出される事態も防がれてる、
逆に言うと、近代思考の下では硬軟に内実の確からしさを持たせる事はできず、硬軟の程度がどうであれ形骸であり続けるわけです。)
つまりは、対テキストは結果に対する反応の具体化への評価も含め、人(自己込み)を評価する際に用いる肯定する主体像の問題
(その人の対人の評価基準から、テキストへの過大要求過小要求の程度が推測可能)であり、
文系的対象に関して、同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいないの区別がつかない
(自身も具体化条件となる事があるにもかかわらず、具体化精度最大化を論点化できない)哲学者は、
対象理解(対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感)について現状可能な上限からの乖離、
言わば、いらぬ勘違い(上で言う誰もが咎められそこしか咎められない部分)を潰し切れない
(例えば、抽象物としての有限性と、親の不完全性から自身の死、無限性との関係まで、個々具体としての有限性との間の関係構造の確からしさを可能な上限にまで持っていけず、いらぬ勘違いを抱えてしまう)し、
同芸術家は、存在性を演出的に最大限発現させてるつもりで、その主体像であれば防げる類の割り引きを、存在性に対して負わせてしまってると言え、
彼らは、表現内容の具体化以前に、表現内容からして帰属に修正余地(通用が行き渡っていないという低確からしさ)を抱えてるわけで、
例えば、彼らのセンスに納得がいかないといった場合も、その納得いかなさが上の主体像からの乖離からくるものであれば妥当、そうでないなら過大要求、そう見るべきだと考えるわけです。
ただ、個別の事例や特定の分野にその意味で疑問を持つにせよ、まず文系域自体が、同種の他との共通要素の捨象アプローチを持たない状態で未だに成り立ってる点、
特に、日本も欧米も、同種の他との差異要素捨象アプローチの領域侵犯と共通要素捨象アプローチの埋没から成る近代パラダイムを背景に持つ教育が、社会において未だに展開されてる点を、
押さえた上でのものでなければ、現象に関する過剰な帰属を対象に負わせてしまいます。
文系者が文系的局面において、帰属の修正余地が潰され切ってる(通用の行き渡った帰属関係が選ばれてる)かどうかを、
言い換えるなら、確定度の高低差異(対有限性でいらぬ勘違いやいらぬ特化なり、いらぬできないやいらぬ失敗なりの含有程度)を判断できるようになるよう、
ひいては、帰属の修正余地を誤魔化す類の知性や倫理に惑わされる事なく、負わせる負わされるが帰属の修正余地のなさ
(先の実験に関する二択に相当してる場合は帰属の修正が最大化されてない為そう言えない、
言っていたら上の誤魔化す類も同然な、存在と引き換えに負う要素レベルで存在そのものに即してる事態)をもって肯定されてる世界になるよう、
下の二点をもって教育を組み直す方向性に組みする有り様を、教育者に求めていきましょう。
(例えば、反省の名の下に、負わされるに値しないものを負わされてる人なり状況なりに対して、既存の教育者が責任の一端を負ってるのは、
内実の確からしさ差異が区別できるよう最大限働きかける事なく子どもを社会に送り出してきたからであって、
実際、この場合で言うと、場の疑似でない固有性に即した割り振りへの、場に置かれてるものにとって帰属の修正余地がない整合と位置付けた上での志向が先立ってない類の、罪や罰の規定に対し、
その不当性をもって規定自体を無化する過大要求でも、その不当性と向き合わずに妄信する過小要求でもなく、
上の志向が先立ってる状態からの乖離部分を修正対象扱いするよう求める教育は無いわけで、
教育者への上の要求には糾弾の要素も含まれると考えます。)
客観視ができない理系者に限らず、局面と着目無視を合致させる事で生じる捨象に、含まれてるはずのものが反応の方に含まれてしまっていたら、
知性や倫理が形骸化してる事例(帰属の修正作用が十全には機能してない事態)、
自我や受容文化が肥大化してる事例(修正余地ある帰属関係を、問題解決スタイルの肥大化によって手放せない領域が生じてる生)として扱う。
理系的局面では同種の他との差異要素の捨象を用いて、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象を用いて抽象化や具体化条件割り出しを展開し、どちらの局面であるかの把握には後者捨象を用いる。