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世界の有り様改善を試みる場合に、最も波及の大きい改善対象(各自が実際どのように関わるかは具体化精度の問題)についての考察(+打倒ニーチェに挑戦)

2022-3-001

確保対象は望ましい表層形でなく、確からしい内実であるとの前提の下にある世界は、
ドーピングによる金メダルのような帰属操作の意味での奪われの発生が、前提によって抑えられてると言えるので、
奪う作用に組してない条件とも見なせるだろうこの前提を、例えば、教育は持たない為に、

ご都合主義が自身を見えにくくするぐらいに着飾ってるだけの知性や倫理を形骸物扱いする空間にならず
(形骸物扱いが機能すればとりあえず影響力は抑えられるのに、そうでない以上、
より確からしい帰属関係へと修正する働きに対して阻害があるものを、阻害がないものかのように受け取らせる事に加担してる形)、

個人の為と言える側面はフェアを越えた救済に、国や社会の為と言える側面はポジションなり具体的有り様なりのフェアを越えた割り振りに陥ってきた。


ここが負わされるに値しないものを負わせてくる側面を、世界に持たせる原理に相当してるのでないかと、

つまり、偶々都合の悪さから逃れる事ができてる余裕ある状態にあって、自分にだけ都合の良い世界を望んでるわけでもない
(余裕ない者の泣き寝入り程度の低減を問題解決対象に含めてるぐらいには、不当な扱いの受け手像が抽象化されてる)者が、

乗り越えを(下で言う主体像をもって具体化するので、実際どうなるかはともかく)試みる対象として、乗り越え時の波及が最も大きいものはそこでないかと疑います。



(以下の話は、自身を教育してる側面をもって自分を教育者に重ねられるだけでなく、
自身の地平における主観の関わる領域と文系空間とを重ねられると考えます。)


人間の不完全さに由来する現象への、有限性の代替不可能化を試みる以外の反応は、
受け止め過ぎたり、余裕あってなお(つまり、局面の性質差異の無視によるこの場合、過保護系、チキンレースで即離脱系の、次善の策常態化なのに)見ないよう努めたりで、
有限の与件性との関係において、いらぬ振り回されの要素を持ってしまってる(一方、上の対有限性は不可避下での解放)と認めるなら、

代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない(代替不可能な有限性に先立つ都合を持たない認めない)主体像から乖離させてまで、
能力なり情報なり可能性なりの獲得を促してる点に疑問を持たない既存の教育観は、

できる領域の拡大によって表面上は有限性を外に追いやってるものの、いらぬ振り回されの点は変わらない生
(表面だけの対有限性)を強いてる(余裕のある者にもその次元に留まらせてる)と見なせます。


その乖離状態での獲得(悩み苦しみ込み)を、自身のいらぬ特化込みな具体化
(精度の低い具体化、及び、抽象次元としての自己へのそのフィードバック)と捉え、
自身のいらぬ特化を防ぐという意味で通用領域最大化させつつしか自身の歴史を紡がない生(生自体は生物主体の代替不可能な内在事情)を可能にするものとして、

獲得や喪失回避の有り様をその主体像をもって具体化する(この時自己の具体化精度は最大化されていて、
常に起きてる変遷において具体化精度最大化以外の論点は疑似問題と見なす)方針の、
採用を促す教育観(場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアを、越えない救済的介入)へと改め、
疑似問題空間(全体枠を取り違えてる状態で、肯定否定はじめ通用領域判定が展開される事態)に子どもを引きずり込む教育論を捨てるよう、


教育者(できる事できない事という有限性形態を、内在性質由来や外在性質由来の望む事望まない事踏まえてデザインするのを支援する立場で、
ご都合主義的なデザインを、上の主体像の帰結かどうかと関係なく、凡庸な善悪像などで個性や行動を肯定否定する表層形断罪者であり続けてきた以上、許してきたと言える、
したがって、消費行動はじめ、都合の押し付け合いしかなくその強弱から成る秩序の方向へ、
世界を偏らせてきたも同然であるこれまでの彼ら)に求めていきましょう。



また、内面世界でも自国社会でも国際社会でも、管理は場の疑似でない固有性の発現を保障できてる(各場の尊重)かどうかで肯定否定すべきと認めるなら、

大きい管理と小さい管理、一方を望ましい表層形とする対比構図は、肯定否定の論点を埋没させる為、
場の疑似でない固有性に即した割り振りを確保する(割り振りを代替不可能性に帰属させ、
負わせるに値する状態へと持ってく)作用がないままポジションや具体的有り様を規定される秩序有り様の原因と見なせます。


その肯定否定の論点で肯定される類の管理によって、社会に具体形を与えながらでしか国や社会の歴史を紡がせない(表層形で断罪しない)対秩序を可能にするものとして
(人的資源が秩序の修正余地に相当する部分にまで注ぎ込まれるのを抑えるものとして)、

具体形パターンを可能なだけ多くカバーできてる状態の抽象次元へと一旦遡ってから、
代替不可能(同カバー状態)な具体化条件を付し直す処理(いらぬ飛躍の除去)を、
同種の他との共通要素の捨象を用いて展開

(そもそも、局面に今置かれてる件に関しこれを展開するフェア化がなければ、
共通要素捨象が要請されてる局面で差異要素捨象したり、権威持つ理念なり解釈なりを処理対象から大した理由なく外したり、カバー対象選定に自身との遠近が反映されるのを已む得ない範囲に抑えられない等が推測されます)

して得られた像と、対象の実際の有り様とのずれを修正余地(いらぬ飛躍)扱いする理解力の、育成が組み込まれてる教育実態へと改めるよう


(これまでは哲学科すら、例えば、特定時空性の付し直しができず、過去や現在への過大評価過小評価の除去が十分でない人、
例えば、不当性そのものの取り出しを、つまり、不当な扱いの受け手の具体形パターン網羅の対象に無生物や概念等も入れるのを、可能なだけ試みてもないのに、問題発生なり問題解決なりを十分捉えてるつもりな人を、
社会に送り出してきた形)、

教育関係者に求めていきましょう。



仮説Aでは説明できない領域が見つかったので、説明できてる仮説Bへと修正する、この運動性が機能してる理系と違って、

文系は、フェア志向が必須でない(フェアを文系的局面での具体化精度最大化と見た上で言い換えると、抽象化具体化の不足が否定の論点になってない)事からも分かるように、

非を認めないなど、都合の悪さへの過剰否認を通す為に種々を駆使する(代替不可能な有限性に帰属してない、それに先立つ都合に利用できるものを利用する為、
利用される側は負わされるに値しないものを負わされるのに、そこら辺を気にしない)有り様が現状可能なので、

通用してない領域の存在についての折角の指摘も、より通用領域の広い選ぶに値するものへの修正に繋がるとは限らない
(より確からしいものが取って代わる運動性が阻害されてる)空間と言えて、


この点(数を数えられるからまだ見ぬものも数えられる、この種の方向に対する阻害持ったまま多様性や不当性が語られさえする)について文系者は、世界の現有り様に責任があるはずです。

世界の現有り様を、既存の知的環境にとっての実証結果、ひいては、上の指摘に相当するもの
(知的上層が社会に影響力持つ立場に就きやすい社会の有り様ほどそう言える)と捉え、

既存の知的枠組みによって養成可能な地平の価値保全(こちらの方がより確からしいという話をご都合主義的に用いてきた、
つまり、自分達の権威の根拠として用いつつ、自分達の土台への適用は拒んできた、
言わば、疑似問題空間に相当する観点の下で持ち出した、通用領域の広狭と確からしさとの相関によって認定された知的権威を振りかざしてきた形の、文系の知的上層の有り様)に付き合うのは止めましょう。



世界有り様と自己を切り離した(世界有り様およびその構築者へのある種の是認)満足追求に理を見る必要も、以下の点からないと考えます。

場に合わさないという自由状態があり得るとの発想、および、それを踏まえた尊重観
(特に、カントやニーチェをもって権威付けされる事もある、割り引かれ忌避な生への支持)は表面だけの対有限性でしかない。

(現状これ以上望めない状態を、より確からしいものが取って代わる運動性に対する阻害がない状態、もしくは、通用の行き渡ってる状態と解するとして、

有限の与件性の下では抽象化具体化に不足のない状態が、通用の行き渡ってる状態に、
つまり、外在を持たざる得ず内外統合の結果が内在に反映される条件下での上限に相当するので、

その不足の解消に繋がらない類の限定回避は、疑似問題空間の中で通用領域の広狭と確からしさとの相関を持ち出してるに過ぎず、
そこでの通用領域が狭いとの評は、対象を冤罪で罰してる側面を持つ事になる為、
その類の限定回避への正当化や推奨は、冤罪と引き換えに得た疑似な確からしさで満足する有り様の正当化や推奨に同じ。)


もっと言うと、局面と関係なく対象を捉える認知傾向(疑似でない局面事情に紐付けられているいないと肯定否定とが関係ない等、外在事情の付し直しが問題解決の対象になってない)や、
不当性に対する抽象化不足による対問題(発生認定も、人生観含む現象解釈も込み)の浅知恵化の、
現れ(対文系での理解力における実質不在の現れ)でしかない。



なので、冒頭の前提を教育に持たせ、抽象化具体化の不足を許す形で話が紡がれる事を許さない
(それは局面がその疑似でない性質をもって決める事です、それは疑似でない内外事情にのみ応じる主体像が決める事です、
といった形骸化指摘が取りこぼしなく、もちろん、望ましい表層形に対しても生じる)質の確保が機能してる空間に変える事で、
確からしくない内実と確からしい内実が区別されない混同状況という脆弱性(奪われ余地)塞ぐ対世界を、文系に課しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。