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共産主義を位置付けるに際しては、ある種の検討停止が、政治経済への形式面からの解決アプローチに対する位置づけを、歪ませてる点も押さえるべき
2021-5-003
共産主義を位置付けるに際しては、古代中世近代の問題点を解消してないという側面を押さえる必要があると考えます。
奴隷として扱われる立場から扱う立場への反転願望の実現ルートを潰す仕掛けがあるとは言えない、得る資格を開く一方で裏切る者求め続ける者(フリーライダー)問題へのケアがあるとは言えない、
これら古代の直接的関係にある二宗教の理論体系に見られる問題点が実践面理論面に見出せ、
それらを、個人の精神や国家の権威、学問の在り方を縛ったり絡め取る事で押さえ込んでただけの中世の、焼き直しと見なせる国が確認でき、
中世の解放形でしかない近代が持つ(分離で満足する)内実不問傾向を、
フェアアンフェアの別なく保障される権利観(財産権主権人権の持ち出し方)や、
確からしい具体化条件で具体化されたものかどうか区別されてない分離物を統合対象扱い(理系で言えば、精度不問な実験の結果をフィードバック)する歴史観の形で体現してるわけで、
これらは対象の限定通用性を説明するのに必要だろうからです。
ただ、そこに見られる構造は自由や平等、連帯といった概念にも重ねられる気するので、
哲学すら、ある方面には検討が展開されない(近代はそれを強化した)現れの一つに、
自由や平等のこれまでの論点(管理被管理関係に響てる)も、政治経済への形式面からの解決アプローチに対する位置づけの歪みもある、
そう見るべきなのかもしれません。
いずれにせよ、
表層形(競争協調や分断包摂含む)それ自体にはこだわらず(具体形次元に軸足置かず)に内実が詰まってる(内実が限定通用的でない)ものを選んでくれるだろう、
という信頼を持てる対象(他者なり社会なり)には否定的対応反応(精神的に距離取ったり、修正働きかけたり)を生じさせず、そうでない対象(自己含む)には生じさせる、
この像を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる有り様(自由平等の源泉)への支持
(精度最大化されてる抽象化具体化への支持と同等)の点で対象と繋がってる姿としても解しつつ、
繋がりの実質部分として規定する事が、例えば、共感や連帯の形骸的使用(の弊害)への対策に当たると考えます。
また、付帯解釈含めたその像(内外境界が安易に規定されない地平の構成者)をあるべき有り様として(そこからのズレに敏感となるように)持つ事が、
哲学者すら、知性や倫理を近代性プラットフォームに囲い込まれてて、内実の確からしさが検討されてない代物を、特に問題ないものとしてスルーしてしまう現状への、
つまり、検討停止(思考停止のごとく検討停止領域を持ってる事自体はやむ得ない)を、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情から成る都合の反映としての(言い換えると、内実の確からしい)それに抑える、
これを、自分は文系域での理解力が十分高いと思ってる人全員に求めてこなかった結果(近代性を背景とする教育の帰結)、
表層形を根拠とする断罪や擁護が影響力を持つ(通用領域の狭いものとして、つまり、より広いものに取って代わられるべき対象として受け取られない)せいで、
過剰に負わせたり負わされたり(自由や平等の既存の語られ方含む)という、有限性の安易な持ち出しが保存されやすい現状への、
効果的対処でもあると期待します。
例えば、右に着目したなら左が死角になる件について、限定するだけの十分な理由がある場合には
(通用領域の限定を、理由の代替不可能性の持つ、条件によらず引き受けざる得ないという通用領域の広さが補完すると解し、)限定の前後で通用量は保存されてるけれど、
大した理由がない場合には限定行為は存在の通用性を下げる、そう捉えるとすると、
いらぬ特化を避ける能力の獲得(文系域で具体化条件を通用量保存的なものに付し直すのに、つまり、いらぬ飛躍を除去するのに必要な、同種の他との共通要素の捨象アプローチの育成)が自力でしか期待できない
(にもかかわらず、近代性枠組みに特化させる働き持つ為、何を支持しようとしまいと近代人センスから成る秩序の維持にしかならない人を育ててきた)これまでの教育は、
受け手の存在性の確からしさをその意味で下げてると言えるはずです。
なので、有限性の安易な持ち出しに許容的である内面世界や社会では、
これ以上は無理(何であれ受け入れざるを得ない)という限界ラインが形骸的、恣意的に引かれる事になり、
例えば、政治経済が、帰属をそこそこ修正できてる(いらぬ飛躍を除去する知性や倫理の働きを十分内包してる)気にさせてるだけの形骸的内容のまま、
もちろん、有限性の意義(フィードバックによって、より確からしいものが取って代わる運動性に、通用領域を広げる実質性持たせる点と想像)保障の働きとも無関係に展開され、
負わせる負わされるがご都合主義の反映になると解せる以上、
自身にとって価値のあるものなり状態なりが、負わされる筋合いないものを負わされる(存在性低減)のを望まないなら、負わされないようできるだけの事をしておきたいなら、
最大限代替不可能化させた内在事情外在事情の反映形に特化(具体化)を抑える能力獲得や実践を、教育に組み込んでもらう事がその根本的対策でしょう。
しかし、教育体系も体系の一つですから、
各場の固有性に即した体系かどうか(場の性質の変動を体系が、即してる形のまま追えてるかどうか)で肯定否定し、
否定部分への具体的反応(の選抜含む割り振り)にも同じ基準を用いる(最大限代替不可能化させた内在事情外在事情的に可能なら、修正を働きかける)、
これ(具体化条件付し直し)を本筋とせずに
(実際、常識を批判しながら近代性パラダイムに固執したり、冬に夏服となるから夏の冬服を批判してはいけない的ロジックでもまかり通るのが知的上層の現状)、
また、各場(内面世界や局面、大小様々な社会等)の固有性に当たるとされてるものの深掘り具合(例えば、需給事情に反映される個々事情の代替不可能程度)を論点とせずに、
次善の策(例えば、既存の権利観や繋がり観)でしかないものを本筋扱いする近代的対体系が影響力を持ち続ける
(政治経済の欧米発の主義への既存理解もこの現れ)限り、環境的に難しいと推測されるので、
現状は文系者達
(局面と捨象対象選定との合致問題をそれこそ無闇に捨象してるせいで、表層形断罪自体への対策持たない近代性パラダイムに、縛られてる理解力でもって導いた結論に拘泥する、
例えば、その捨象観から文系的局面での表層的要素削ぎ落しに、ひいては帰属の修正に、いらぬ限界与えるパラダイム下故に、在り方や理不尽を語るなどが、含まれない部分除去の処理不全状態でしか為せない人達)に、
先の像の規準化を(求める側も、自身の有り様の帰属先が表層的要素込みとならないよう、
理想と現実の関係にも、何ら限定されてない状態の準備とやむ得ない限定条件の割り出し、つまり、具体化条件付し直しによる帰属修正を取り込みつつ)求めてく段階かと思われます。
圧縮版(1600字)
共産主義を位置付ける場合、古代中世近代の問題点保存の指摘がその限定通用性の説明として必要と思います。
実際、奴隷扱いから扱う側への反転願望実現ルートを潰す仕掛けがない、得る資格を開く一方で裏切る者求め続ける者(フリーライダー)問題へのケアがない、これら古代の直接的関係な二宗教の問題点が実践面理論面に見出せ、
個人の精神や国家の権威、学問の在り方を縛ったり絡め取る事で古代の問題点を押さえ込んでただけの中世の、焼き直し的国家が確認でき、
フェアアンフェアの別なく保障される権利観(財産権主権人権の持ち出し方)や、
確からしい具体化条件で具体化された代物かどうか区別されてない分離物を統合対象扱い(理系で言うと、精度不問な実験の結果のフィードバックに相当)する歴史観の形で、
中世の解放形でしかない近代が持つ(分離で満足する)内実不問傾向を体現してるわけです。
ただ、同じ構造が自由や平等、連帯といった概念にも重ねられるなら、
哲学すら、ある方面には検討が展開されない(近代はそれを強化した)現れとして、
自由や平等のこれまでの論点(管理被管理関係に響てる)も、政治経済への形式面からの解決アプローチに対する位置づけの歪みもある、
そう捉えた上で以下の2点がそもそも必要なのでしょう。
共感や連帯の形骸的使用への対策に、
表層形(競争協調や分断包摂含む)それ自体にはこだわらず(具体形次元に軸足置かず)に内実が詰まってる(内実が限定通用的でない)ものを選んでくれる、
この信頼持てる対象(他者や社会)には否定的対応反応(精神的距離取ったり修正働きかけたり)を示さず、そうでない対象(自己含む)には示す、
この像を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じる有り様(自由平等の源泉)への支持
(精度最大化されてる抽象化具体化への支持と同等)の点で対象と繋がってる姿としても解しつつ、繋がりの実質と規定する。
哲学者すら、知性や倫理を近代性プラットフォームに囲い込まれてて、内実の確からしさが検討されてないものでもスルーしてしまう現状への、
つまり、検討停止を、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情から成る都合の反映に抑える、
これを、文系域での理解力が十分高いと思ってる人達に求めてこなかった結果(近代性背景の教育の帰結)、表層形を根拠とする断罪や擁護が影響力持つせいで、
過剰に負わせたり負わされたり(自由や平等の既存の語られ方含む)という、有限性の安易な持ち出しが保存されやすい現状への対処として、
付帯解釈込みで先の像(内外境界が安易に規定されない地平の構成者)が、あるべき有り様に位置付けられ、そこからのズレに敏感となるように持たれてる社会に近づける。
有限性の安易な持ち出しに許容的な内面世界や社会では、
これ以上は無理(何であれ受け入れざる得ない)という限界ラインが形骸的、恣意的に引かれる為、
例えば、政治経済が、帰属をそこそこ修正できてる(いらぬ飛躍を除去する知性や倫理の働きを十分内包してる)気にさせてるだけの形骸的内容のまま展開される為、
負わせる負わされるがご都合主義の反映となるでしょうから、
自身にとり価値ある何かへのその反映抑えたいなら、近代的な権利観や繋がり観に本筋見出す文系者達に先の像の規準化を求める事で彼らに、
各場の固有性に即した体系かどうか(場の性質変動を体系が、即してる形のまま追えてるかどうか)で肯定否定し、否定部分への具体的反応にも同じ基準用いる(最大限代替不可能化させた内在事情外在事情的に可能なら修正働きかける)、これ(具体化条件付し直し)を本筋、
各場(内面世界や局面、大小様々な社会等)の固有性に当たるものの深掘り具合(例えば、需給事情に反映される個々事情の代替不可能程度)を論点としてもらいましょう。
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