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表層形だけ見て断罪する人がその種の断罪を咎める、今なお支配的な近代止まりの倫理や知性の現れであるこの構図に敏感になろう

2021-6-003

代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じてない感(例えば、利得や不利益回避に関して)を覚える他者に、
信頼を置く(他者やその産物との精神的距離に関する原理)べきと考えますが、

それは、その応じてない状態の帰結を最善(失敗や限界に関して受容に値する根拠がある)と見る、その状態にある個々人から成ってる地平に平等を見る、
そうした、通用が行き渡ってる状態(を保存しつつの表層形変転)観の反映としてであって、

ある専門家が専門外にも同レベルで通じてる(能力の有限性を想定してない)といった、帰属(カバー領域の判断)の失敗な対象位置づけの話では、もちろんないです。


自己の尊重を、ある全体に包摂させるとか全体から切り離すといった表層形に見るのではなく、

外在場の表層に合わせるケースと外在場の本質に合わせるケースを分け、
後者を、それがそれである限り引き受けざる得ない固有性を埋没させてないとの意味で、外在場の性質の尊重と見なしつつ、

個々人の内面世界も含め、無数にある場に、その尊重態度を採る(林檎は数えられるけど蜜柑はできない、つまり、原理抽出できてないのに数を数えるが十全にできてるつもり的パターンを防ぐ)方針に見るなら、

自己尊重を、(価値づけ作用を各場の固有性に帰属させる働きを機能させる枠組みに、落とし込まれてる価値規定のみが肯定されるという、価値についての理解への移行を齎しつつ)
先の応じてない状態と整合的な内容に持ってく事も可能です。



近代人フィルターを負ったまま近代より前に為された解釈なり何なりの方を支持するのは、
少なくともライプニッツの段階で既にあったらしい、デカルト批判のパターン(内面立脚と状況立脚の対比に持ち込む)を未だに繰り返してる形に思われるので、

近代より前の諸々を位置付けるにせよ、立脚先きが内実不問な個かその集積の二択しかないかのような矮小化枠組みから脱するのが、

それにより、市場を無条件に肯定してる人と、
需給事情を最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にのみ応じてる主体の個々事情の集積に近づけるべき
(そうして最大限近づけたものとしての、場の性質に対する、発現保障として形式なり管理なりがあるべき)との主張との、

平行線の構図における前者に、古代や中世を根拠として(何の観点からであれ)持ち出す人が相当してしまうのを防ぐのが先でしょう。


話をさらに限定して、理系はガリレオ前後でアリストテレスの乗り越え(運動論観点についても、ここ百年で全体像の拡張による再位置づけが為されたらしい)が起きたも同然と認める一方で、
文系にはそれを重ねるべきでない的な主張をしたい場合も、

文理関係(理系論理と文系論理の間の差異性共通性)に対する理解から、
捨象観の近代人フィルターによるバイアス(無闇な内実不問)由来の誤解を取り除くのが先と考えます。



例えば、分断はダメ、連帯が良い的な発想は表層形断罪であり、
恣意的に選べる状況の確保は選択原理に確からしさ(条件変動への振り回されなさ)の差異を見ない方針(原理に対する検討放棄)と言えるように思うので、
表層形の次元で事足りるという問題解決観の反映でしょうが、

それを強化してる、文系域でも内実不問を無闇に展開する様に対し、疑問を持たないセンスを意味する、近代人フィルター(で得られるもの)にしがみ付く限り、

他者尊重を語ってようとも、言わば、差別しながら差別するなと言ってる、知的説得力欠いた有り様(整合領域の狭さ)にしかならなず、
通用領域の広いものに主張を帰属させる事ができない為に、実態が騙して(通用領域の狭いものを広いと誤認させて)奪う内容にしか帰着しないと見なされても仕方ないと思います。


何をどの程度求めるかは内在場の帰結であり、それがどういう形に具体化されるかは外在場の帰結であって、

(それこそ、生物として存在した時点で、既に結んだ約束のようなものである、化学反応の円環連鎖の保障も、
その連鎖から見た外在場に通用せず保障できないパターン含め、本質と表層的要素から成る外在場に対し、ひっくるめた肯定否定の反映形に近いか、外在場の本質にのみ合わせた具体形に近いかの問題が、
つまり、外在条件の良し悪しという表層形に振り回されてる程度の違いがあるだけとして、)

各場での割り振りが、その場がその場である限り引き受けざるを得ない性質(条件変動に振り回されない部分としての固有性)をもって割り振られてるかだけを

(有限性を認めごまかしもしてない、有限性に振り回されてないという意味で通用性の高い状態を、対内在や対外在で保持してるか、
場に置かれるものにとって負わされるものが、確からしい帰属先に紐付けられたものかだけを)

論点とはしてない(割り振り原理を検討しない)保障行為については、
(利他風味など)見かけがどうあれ、不当な不利益回避や利得として位置付けるべき(具体的反応は割り振り次第とはいえ、そう扱うべき)とするなら、

近代性枠組みの下で展開される不利益回避や利得を、妥当なものかのように振る舞うのは先の誤認誘導
(家電を叩いて直すレベルの問題解決しかない世界に、人間を押し込める働き)と言えます。



確定的なものはない(だから、最大限代替不可能化させた内在事情外在事情を引き受けてる有り様による判断かそうでないかに関して扱い差をつけずに、これ以上無理という限界線を外界に負わせて良い)的主張すら、

主張である以上、他の主張よりも通用領域が広いという判断の産物(その判断からは逃げられない)なわけで、

単なる通用領域の広狭の話を、
広狭を判断する際の観点(確からしさ差として取り出す差異の設定)についての通用領域広狭問題(条件変動への振り回されなさの付与)に展開する

(頼るのを、より確からしいものが取って代わる運動性、および、有限性の不可避性、この二つに限定してると言えるスタイルで、
または、後者を前者の要請物と見て前者のみを確定的前提として、観点という限定作用を扱う)のではなく、


都合の良い観点の押し付け合いへと持ち込み(例えば、内実不問な個かその集積かの二択枠組みに話を矮小化し)、その根拠を不確定さ(能力の有限性)に帰属させるのも、

自己に限らずどういう不確かさなら受容に値するか、どういう限界線なら負うに値するか、という内実を問わない(表層次元だけで生きる事になる)近代人フィルター故であって、

通用が行き渡ってる内実の反映なら表層形はどんなものであれ問題ない、という態度でない為に、
表層形断罪の次元(近代人フィルター)から逃れられない(善や正義のニュアンスをどれだけ出してようとも)のだと考えるべきです。


そして、その態度が実質を持つには、

不可避な限定作用に対する限定前の通用量最大化と限定後の通用量保存、それらの達成を意味する最大精度の抽象化や具体化条件割り出しを、
損なってる近代特有の捨象観に対する是正(各局面の固有性に即させる働きが不十分という、帰属修正能力が不全な状態の修正)が必要なのであって、

実質を持たせる事ができれば(同種の他との共通要素の捨象アプローチを育成しない、
もちろん、内在事情外在事情の引き受け方と何かができるできないとの関係へのそのアプローチの導入も支援しない、既存の教育とその妄信者による阻害がネック)、

理系的捨象の文系への領域侵犯やその反動反発(厳格適用を弛緩させるだけなので、集団ないし個が持つ傾向の無条件肯定に道開くだけ)の二択で自由を、

ひいては、その二択の融合形とそこへの反動反発も含めた、その二択前提の枠組みで政治経済を語る、
論点ズレ(問題点の選抜能力不全)な主張に振り回される事もなくなるはずですし、
そうした人が増える程にその種の主張の影響力も下がるはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。