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谷古宇 時生
2020年5月2日 19:02
昔、母とした約束がある。夜。歩(あゆむ)はコーヒーを淹れて、ベランダから向かいのマンションの空き部屋をぼんやりと見つめていた。3月も終わりに差し掛かるというのに、ひやりと風が頬をかすめた。◆「死」について母と話したのは、あとにも先にもこの時限りだ。それは遠い思春期の記憶。もう二十年近く前のことになる。歩は十二歳で、当時、埼玉県の県営団地に住んでいた。母は三十五歳、昼間は倉庫で働き
2019年9月5日 23:05
夕刻。ホテルのラウンジには西日が注いでいた。奥のテーブルに、一組の男女が、向かい合って座っている。「お時間頂きありがとうございます」「あなたが佐伯さん?てっきり男だと思ってましたよ」 男が鞄を脇に下ろし、手帳とペンをテーブルの上に置いた。女は答えなかったが、男に向かって微笑み、手元の書類を一瞥した。「エージェントの佐伯です。事前に職務経歴書を送って頂きありがとうございました」「いえ