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ベイビーステップも踏めない自分
書くことは自分を客観視することだから、情けなくて恥ずかしいけれども書く。
大きな目標を小さく、小さくする。
小さな一歩。具体的にしていく。
これが私は出来ない。
自分を過大評価し、自分ができると思って粒感を大きくする。
もしくは、不得意な分野だったり、知識不足で勉強しないままわかったフリで着手しようとする。
こういう面が自分にある。
自分に対する有能感と劣等感。どちらも自分に存在する。
自分はできるはずだ。もっとできるはずだ。
一方で、自分はなんてできないんだ。結局、今、背伸びして無理しているんじゃないか。
どちらも存在していて、なぜできないのかという焦燥感に駆られる。
ここから卒業する、もしくは脱する、もしくは上手く付き合うにはどうしたらいいんだろうか。
できると思っている自分。できないと思っている自分。
いずれにしても、「思っている」だけの自分。
何を怖がっているのか。
できない自分を見るのが怖い。
できると思っているのは想像、いや、妄想。
それが現実は違うとわかってしまうと怖いから、着手しない。
決めること自体が怖い。
決めてしまえばやらなくてはならない。
行動すれば、できない自分を直視することになる。
だからやらない。
悶々としているうちに、今この瞬間は過去になる。
今の積み重ねが、過去であり未来になる。
今を生きるしかない。今に集中するしかない。
何をしたくて、どう生きたくて、生きているのかに立ち戻って、今に集中する。
自分なりの志があって、周囲の人を巻き込み、力を借りて今に至っているけれど。他者からの期待よりも前に、自分はどう生きていきたいのか。
自分が自分の手を動かして取り組みたいのはなんなのか。
今いる場所や役割を取っ払って、私はどうありたいのか。
ここを明確に描きたい。
日々、外からくるものに対応しているように思う。
それはそれで必要だとしても、自分の内側から湧くものに向き合わなくては、自分の人生ではない。
10月に入ったと思ったら、あっという間に11月になる。
本当にあっという間に過ぎていく。
誰が何をどうしようと、それは他者の人生で、それにあーだこーだいうものではない。
気にしているのは、自分の人生に集中していないということ。
そんなこと気にしているなら、家族や私が大切にすることに時間を使いたい。
それは決して自分勝手に生きることではなくて、自分の人生を生きているから、外に健全に、自分を開いていくことができると思うから、大切にしたいことを大切にしたい。
私は私が目指す姿、ありたい社会に向かいたい。
そこに向けて自分ができることに集中する。
じゃあ、ありたい姿って?
そこに向かうにはどうしたらいいの?
これを怖がりな自分でも踏めるぐらいの、小さな小さなステップに分解する。
それしかない。
結局、そういうことなんだな。
おにぎりなんだな。