風通しよく、古臭く、新しい「ドライブ・マイ・カー」 感想文
映画「ドライブ・マイ・カー」(2021年、濱口竜介監督)は風通しがいい。いろいろなものであふれていない。抜け感、とでも言ったらいいのか。余白、だろうか。
その抜け感なり、風通しのよさなりのおかげで、興ざめな部分があっても、私は、三時間を冗長に感じず楽しめた。観た後で、映画のことを頻繁に考えてしまっていた。
風通しのよさを感じたのは、3つのことで。
ひとつは、四角い画面に切り取られる風景。
画面での、広がりのある場所と、その見せ方。
風が吹き通っているのは、車が走り抜ける道。海沿いだったり、広がる道や橋だったり。広島のゴミ処理場。公園での演劇の場面練習。
もう一つは、音のなさ。
音で、埋め尽くされていない。静か。音の使い方、というより、使わないという使い方。
音楽はあまり使われていない。見ている者の気持ちに寄り添うような、または、コントロールするような、映画あるある、があまりない。
二つの舞台演劇が出てくるが、タイトルや、役名くらいで、特に説明はない。
手話での会話シーンも、いくつもある。
ほかの音響も使われない場面で、手話で語らせるところは、新鮮さもあるし、印象的だった。静かな迫力に満ちていた。
音楽があると、どんな気持ちになればいいのか、誘導されているようなところがある。悲しい音楽に、そんな気持ちを導かれたり。
音楽という情報がないと、人それぞれに委ねられる感じ方の幅が広くなる。
そして、三つ目は、音のなさと繋がるが、説明じみたセリフやナレーションがないこと。
映画のなかで上演される舞台作品についての情報は、映画の中には特にない。有名作品ということで、委ねられているところもあるのだろう。
説明がない、ということは、観客の持っている知識によって、見方や味わい方は大きく違ってくる。どちらがいい、ということでなく。
なくても、いい。知っていたら、別の見解や感想を持つ。それだけのことなのだろう。
それを、物足りなく思ったり。緊張感につながったり。わたしは、少し戸惑いながらも、映画の抜け感を心地よく思った。
こういう、言葉や音のあるなしや、吹き抜ける風を感じる、美しい映像の図柄。そういうことには、私は激しく反応したが、登場人物や話の筋には、それほど入り込めなかった。
理由は、まず、主人公が見せる執着。
愛用の車に。妻に。自身の習慣に。演劇の演出のしかたに。
愛着とも言えるのだろうが、私には固執に思えた。古いこと、なじんだもの、いつものやり方に。
タイトルにもある「車」は、主人公の固執体質の象徴のようだった。
主人公の愛車とのつきあいは長い。一途に好き。壊れたところを直して、また乗り続ける。手放さない。なくなってほしくない。車あってこその習慣がある。ほかの人が運転手として乗ることに強い不快感を持つ。
主人公の車への思いや関係は、妻に対してのそれらと、だぶって見える。
とらわれ、のせいで生まれる頑なさ。それは邪魔だ。
(過去に拘泥している主人公は、そりゃ固執体質だからだよ、と思える。しかたない。どうにかしたいなら、断捨離せえや、と言いたくなる。)
私がさめた気持ちになった別の理由は、随所に感じた、古くささ、だ。
文学的。演劇、それもネオ古典の。ありそうでなさそうな話と展開。せりふ。原作者が誰か知らなくても、村上春樹みたい、と思ったであろう会話。
古いことは悪いわけではない。古いものや伝統、習慣、そのものに意義はある(のだろう)。でも私は、この作品の話や人物像については、いくつもの箇所で興ざめた。
まず、主人公の、美しい妻。その人のセックスシーンがある。声も裸体も動きも。少年マンガ(やテレビの長寿時代劇など)の、読者サービスの場面と同じ類なのかなと思う。
主人公と妻の性行為もある。結婚して長い中年夫婦が、まだアクティブにセックスを求める。
婚外交渉におよぶ。(それも自宅で。)その現場を夫である主人公に見られる。村上春樹の小説では、妻は複数の男と性行為を重ねるが、映画の中では一人だけだ。ほかの男が寝たいと思う女。性行為が好きな女。
不倫の場面を見たのに、何も言わず隠す主人公は、上でふれた、固執体質なので、さにあらん行動だろう。妻を失いたくない。
そして、妻は、いなくなってしまう。それも、妻も夫も悪者にならない、病死という形で。
マンガ。または、好都合。主人公に。
主人公である中年男と若い女性という組み合わせの図も、古く思えた。
入り込めなかったが、話自体にも、風通しのよさを感じるには感じた。
古臭さは、新しさと混じりあってもいた。
たとえば、主人公の中年男と若い女性を、恋愛関係や擬似親子関係にしなかったのは、ありそうなだけに、新しく感じた。ほっともした。
劇中舞台は、「ゴドーを待ちながら」と「ワーニャ伯父さん」。よく知られている、新しくはない作品だが、その演劇の演出は新しい手法でされている。
いちばん面白いと思ったのは、多重言語の舞台。
オペラの舞台などでは、翻訳の字幕が表れたりするのは普通にあるので、字幕を使うのはそれほど新鮮には感じなかったが、役者同士が、別の言語でかけあう試みはおもしろかった。
だいたい、タイトルの「ドライブ・マイ・カー」は、誰の、何の、こと、なのだろう。
若い女性みさきが、人のためでなく、自分のために運転するようになったこと。
主人公が、愛車を、自分でなく他人に運転させること。
車は、最後には所有者がかわっていること。
または、車に乗る、のは、よくある隠語めいた表現で、主人公が愛する女性のことか。主人公の妻に「乗った」のは、夫である彼だけでない。そのうちの一人と、主人公は対峙し、たがいに、妻であった女性を懐かしく想いあう。
もっと一般的に、それこそ古臭く、車を走らせることと、人生、が重なる。
そして、このタイトルは、宣言なのかも。ただの陳述? 命令なのか。
ふくみのあるタイトル。意図してつけられたものであろうがあるまいが、その、余白めいた感じは、映画全編に通じてもいる。
タイトル同様、終わり方も。
映画は、登場人物のその後について、主人公のこともみさきのことも、説明しない。みさきの新生活の一場面を、画像で見せてくれるだけだ。
わたしは、この映画の画と音にひきこまれた。が、話については、どこかおいてきぼりにされたような気がした。
感じた余白を、埋めようとしてしまうのか。そのまま風を楽しむのか。わからない気がしてしまうのか。
「ドライブ・マイ・カー」。
静かに、挑戦的な映画。
(ヘッダーの写真は、公式サイトより。)
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