退職したけど、この先も大丈夫と思えたのは「その時々で最善の選択をすればいい」という言葉をもらえたから
その時々で最善の選択をしていけばいいよ。
退職するというその日、挨拶周りをしていると、一人のパートさんが私にこの言葉をくれた。
想像もしなかった未来に立ち、今この言葉を噛みしめている。
私は、向いていないと挫折しながらも15年間続けた仕事を辞めた。
16年前、「無難だから」で選んだ就職先
「家族の健康を食生活の面から支えられる栄養士になりたい」
そんな志をもち東京の大学へ進学したものの、私が栄養士になる未来は訪れなかった__
学生時代、長期休みには必ず東京から地元へ帰省していた。
その新幹線の窓から見える景色が、ビルの立ち並ぶグレーの街並みから自然に囲まれた風景へと変化していくのを見るたび、ほっと胸をなで下ろしたことを思い出す。
「就職は地元でする」
何がしたいかよりも、どこで働きたいか、ということをいつの間にか意識していたように思う。
就職活動ではせっかく学んだ栄養学を活かそうと、地元の食品企業にエントリーシートを出したものの、私を雇ってくれる会社はなかなか見つからなかった。
「もっと幅広く採用試験を受けた方がいいかもしれないな。金融機関なら安定してそうだし、とりあえず説明会に行ってみるか」
そんな「無難だから」という気持ちで参加した企業説明会から数か月、それまで難航していた就職活動が嘘のように、トントン拍子で採用が決まった。
蓋を開けてみると、数多くエントリーした企業の中から、そのたった一社からしか私は内定をもらうことが出来なかった。
もちろん、「この会社だからこそ」と思う部分はあったが、第一志望ではない。不完全燃焼な気持ちを抱えながらも、そこに就職するほか私に道はなかった。
「栄養計算向いてない」私が、金融機関に向いているはずがなかった
私が栄養士を目指さなかった理由はいくつかある。その一つが「栄養計算が細かすぎて自分の性格に合っていない」というものだ。
電子レンジで温めたいものがあるときは、容器を一度に2つレンジに突っ込んでしまうほどズボラな性格。そんな私に緻密で人の健康に関わるような栄養計算を生業にすることはできない、と思ってしまったのだ。
ところが、金融機関の事務職に就いてその仕事の細かさに度肝を抜かれた。
家計簿とは桁が違う数字は電卓を叩いても叩いても一向に合わないし、聞いたこともない単語について調べようにも分厚いマニュアルのどこに載っているのかすら分からない。
「何これ、栄養計算よりやってること細かいじゃん……」
自分が就職するときに避けていた緻密さが求められる仕事に金融機関はピッタリすぎるほど当てはまっていたのだ。
また、覚えねばならない仕事の種類は膨大で、「仕事全体の流れを理解するまで3年はかかる」なんて先輩に言われた時は気が遠くなった。
その言葉の意味はすぐにわかった。業務全体の流れを理解することなく、個別の作業だけをまずは教わるため、点と点が繋がらず、全体像が掴めないのだ。
性格に合わない仕事をしているので、当然数えきれないほどのミスを連発する。誰も落ちないような落とし穴にもれなく落ちる人間、それが私だった。
絶対にミスをしてはいけない、と思えば思うほど体がこわばり、「誰も私に仕事を振らないでくれ」と心細く願う日々。
「どうして私は同じことを何度も聞いてしまうんだろう」
仕事の手順が覚えられず同じミスを繰り返してしまう私に、上司も先輩も呆れていることが苛立ちの表情から痛いほど伝わってきた。
過去の自分に声をかけられるなら、「もう仕事辞めたっていいんじゃない?」と諭したくなるほど塞ぎ込んでいたし、仕事に行くのが怖くて仕方がない毎日だった。
しかし、当時の私は「ここで辞めたら、この先壁にぶち当たるたび乗り越えられない自分になってしまう」という変な意地から「退職」という選択ができなかった。
自信なんてもう、ほんの少しもなかった。
辞める勇気も自信もない私は、すり足程度の速さで前進した。
減らないミスに肩を落としながらも、伝票にゴム印をきれいに押せた、誰よりも先にコピー用紙を補充した、電話を正確に取り次げたなど、本当に小さな小さな成功体験を積み重ねることで心が回復していく感覚をおぼえた。
この時の経験は「自信は小さな成功体験の積み重ねからしか生まれない」ということを私に教えてくれた。
できる仕事が増えるよろこび
「あれ、昔教わったあの仕事ってこの流れの一部だったんだ」
入社4年目ごろになると、点と点でしかなかった仕事が線として繋がる感覚を何度も感じるようになっていた。
作業でしかなかった仕事に意味を感じながら取り組めることが楽しかったし、できる仕事が毎日増えていくことが嬉しくて仕方がなかった。
あるとき、過去に教わってきたことをまとめたノートをパラパラとめくってみた。
振り返って読むとそれは「あ、意味がわからないまま書いていたんだな」と思えるほど不完全なものだった。
そして、何かに火がついたようにもう一度、自分なりにノートをまとめ直すことにした。
「このノートさえあれば、私と同じように困る後輩が減るはず」
自分より出来の悪い後輩なんてその後も一人も出会わなかったけれど、小さな成功体験を積むことしかできなかった過去の自分を思うと、後輩には同じ思いをさせたくなかったのだ。
それからも担当業務についてもっと深く知りたくて、空き時間に過去の資料を読み返したり、マニュアルを読み込んだりしながら、ぼんやりしていた仕事の全体像がくっきり見えてくる感覚を密かに楽しんだ。
そして、課長になった
がむしゃらに働いた5年目~8年目。
電話対応すらまともにできなかった私も、お客さんと冗談を言い合えるほどになっていた。
そしてある日突然、私は課長になった。
想像もしていなかった辞令に戸惑い、反発し、身の丈に合わない役割が辛すぎて泣きながら仕事をした。
「背伸びせず、自然体で、我慢しなくていい」
辛くてもがむしゃらに頑張ることしか知らなかった私が、この時の経験から学んだことだ。
2度の育休、そして退職
辛くて仕方がなかった課長職も約4年間全うした。退いたきっかけは1人目の産休育休だった。
育休から復職すると、それまでの激務が嘘のように穏やかな日々だった。
もちろん子どもの急な体調の変化で早退したり、休まなければならなかったりすることもあったが、仕事を辞めるほど追い詰められたことは一度もなかった。
そして、2人目の育休を取るときも、この日常がずっと続くものと思っていた。
けれども、私は退職した。退職を決めたのは2人目育休が終わる2週間前のことだった__
復帰2週間前の面談。
上司から提示された仕事内容は、育児しながら続けていくには想像を超えるエネルギーが必要なものだった。私の環境が変わり続けるのと同じように、会社にも時代ともに変わらなければならない事情があるのだ。
「もしかしたら今の生活と働き方が合わなくなっているのかもしれないな」
意外と冷静にこの状況を俯瞰している自分がいた。そしてこのとき決断した、「これ以上この仕事を続けることはできない」と。
育休中、年齢による体調の変化や2人育児という環境の変化から「いつかは働き方を変えないといけないかもしれない」と考えていた。ただ、そのいつかがまさか2週間後に訪れるなんて想像もしていなかった。
次の仕事なんて決まっていないし、金銭面の不安はある。だけど、自分や家族にとっての最善を考えたらこのまま続けるという選択肢はなかった。
そしてあっという間に退職の日はやってきた。
大切な日ですら、保育園から「お子さんの体調が悪いので迎えに来てください」と連絡が入る。
「育児しながら働くってこういうことなんだよね」と頭のなかに浮かぶ言葉とは反対に心は軽かった。
人生はこの先も続いていくから、どんな選択も肯定していく
「無難だから」という理由で選び、たった一社だけしか内定をもらえなかった会社で、気づいたら15年も働いていた。
辛いこと、苦しいこともたくさんあったのに最後に思い出すのは楽しかったこと、ミスばかりしていたのに1つずつ出来ることが増えて嬉しかったこと、一緒に働いてきた仲間、お世話になった方々への感謝ばかりで泣けてくる。
保育園で迎えを待つ娘の顔が思い浮かび、足早に一人ずつ挨拶を交わしていると、20歳ほど年上のパートさんが私に言った。
「その時その時の状況で判断していけばいいよ」
そんな意味をもつエールだった。
私はこの職場で最後の最後まで学ばせてもらったのだ。
この先も続いていく人生の中で、どんな選択も肯定してくれるようなその言葉に、心がふわっと軽くなった。
「きっと大丈夫」
軽やかな足取りで職場を後にし、娘のもとへ向かった。
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やきいも
心が動いた瞬間をエッセイに。2024年11月に会社員生活を卒業した2児の母。プリキュアにハマるセーラームーン世代です。
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