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それは、ある時には人間を天上へと導き、ある時には地獄へと誘った。 それは、慈愛に満ちそして冷酷であった。 その行いを人間の尺度で計ることはできなかった。 人はそれを崇め、そして畏怖した。 それは「天使」といわれた。 その表情からは何も読み取ることはできない。
彼は様々な人々に様々な衣装を貸し出している。 彼にはどのような人間でも全く別人のように着せ替えることができた。 美男を醜男に、醜女を美女に、 善良な一市民を死刑囚に、乞食を王侯貴族に、 彼にかかれば思いのままにその人生を着替えることができた。 何故彼にそんなことができたのか? それは彼が貸衣装屋の衣装を着ていたから。
彼女には姉としての役割がある。 彼女は毎日同じ時間に起き、或る一定の仕事をこなし、そして眠った。 彼女は働き者で、道徳的であり、家族に対し献身的であった。 彼女は家族の皆から信頼されていた。 彼女には姉としての役割がある。 数年後、彼女が燃え立つような情欲と 極限まで押し進めた悪の認識に至りつくことになることを、 まだ彼女自身も知らない。
彼には仕えなければならない主人がいた。 彼はその主人を嫌っていた。 彼には両親というものがなかった。 彼は主人に拾われた。 彼は主人に感謝するべきであったかもしれない。 彼は仕えるべきその主人を嫌っていた。
彼はその生涯を彼の書いた物語の中だけで生きた。 彼は本を書くこと以外何もしなかった。 職に就くことも、結婚して子供を持つこともなかった。 彼は自分の書いた本以外何も持っていなかった。 彼はその生涯を自分で書いた物語の中で生きた。
彼には愛する人がいた。 しかし彼は生涯そのことを口にすることはなかった。 彼の愛したその人もまた、彼に愛されていることを知りながら、 生涯そのことを口にすることはなかった。 二人の間には時折交わされる視線と深い沈黙だけがあった。 彼は最後迄、彼女の「執事」で在り続けた。