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出社病から考える組織社会化
毎日の通勤をしなくなって、もうすぐ2年たとうとしている。僕の周りでも、フルリモートの人から、自分で選んで週のうち数日を出社する人、自分では出社したくないけど会社の方針で出社せざるを得ない人、仕事内容自体により出社せざるを得ない人など、グラデーションがある。
そういったグラデーションのなかの(極端な)ひとつとして、こんな記事があった。
みなさんの会社にも出社病に取りつかれている人はいないだろうか。「出社病」とは僕が開発した言葉である。効率化や生産性という面から出社の是非を検証せず、盲目的に出社することを目的とする人たちである。
「在宅勤務では仕事をしている気にならない」といって出社しては、内容のない長時間の会議を開催したり、会社のパソコンでヤフーニュースを閲覧したりする人である。ハンコを押すことに対して価値を見出したり、社内文書のペーパーレス化に反対したりする人たちである。
どこまでが事実でどこからが脚色なのかは置いといて、ある種の思考実験として読むと、いろいろ考えさせられるところがある。
人材育成担当として僕が目を留めたのはこの部分。
出社病に罹患した上層部に、出社することによって社員の能力がアップする根拠を尋ねたとき、絶望はより深くなった。実際、上司や先輩の働く姿を間近で見ることで憧憬の念が増し、「ああいうパイセンになりたい」という気持ちが成長をうながす、というのがその根拠であった。そんなアホなことを真顔で言える出社病のみなさんに憧れる人間がいるはずがない現実に目を向けていただきたいものである。
この記事の文脈ではたしかに《そんなアホな》なのだが、これを組織社会化の観点に置き換えると、それほど《アホ》なことでもないのだ。
何かを身につけるうえで、《上司や先輩の働く姿を間近で見る》ということの効果は大きい。
コロナ後は職場の学習のあり方も大きく変わる可能性があります。なんとなく先輩の仕事を見て覚えるという、いわゆる「正統的周辺参加」は職場が仮想化すると非常に難しくなります。コロナ前後では身体的な学習機会が大幅に減少するので人材育成、特に新人の育成に大きな格差が生まれると思います。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) May 8, 2020
また、《憧憬の念が増し、「ああいうパイセンになりたい」という気持ちが成長をうながす》というのも、仕事を覚えたり、組織への定着において果たす役割は大きい。
育てることは、人と人のつながりを生む。それも濃密な。そこにいる「その人」(自分を育ててくれた恩人)と、一緒にいる必然性を生む。それは紛れもなく、物語であり、求心力であるはずだ。しかも、組織という「外から持ち込まれた」物語ではなく、個人と個人のあいだの関係性という「内から生み出された」物語という意味で、力を持つ。
出社は是か非か。この問いを考えるときには、対象者を明確にすることが大切。そのままでは主語が大きすぎる。
対象者を明確にする大切さは、元記事の冒頭でもちゃんと語られている。
新たな働き方を推進すべきものと、外食や旅行といったテレワークとは相容れない業界や職種のような、変えないほうがいいものを分けて考えることが必要だろう。新型コロナ感染拡大にともなって、何の検討もなく一緒くたに新しい働き方に舵を切ったのと同様に、一緒くたに戻す必要はないのである。
オフィスで行われていた仕事って、一体なんだったのだろう。オフィスで行われていたコミュニケーションって、一体なんだったのだろう。オフィス「だからこそ」できていたことって何なのだろう。経験者にとってはどうだったのだろう。新規参画メンバーにとってはどうだったのだろう。
いままで何気なくやってきたことを、意識化して、分解して、再定義する。「いままではこうだったけど、これからはこうありたいよね」という未来像に向かって。たとえばミーティングについてそれをやってみたのがこちら。
そこで、ふとミーティングをボイスミーティングとテキストミーティングの2つに定義し直したらどうか?というアイディアが浮かんだので、ちょっと言語化してみようと思う。
習慣や無意識というのは楽だし、それ自体が悪いわけではないのだけど、いま至るところで求められているのは、意識化/分解/再定義だし、その過程で「これからはこうありたいよね」が見つかれば、それはそれで悪くない成長痛なんじゃないだろうか。