勇気の出る研修
「良い研修ないですか?」
企業の人材育成担当者どうしで話していると、そんな会話になることは多いです。「(ここではない)どこかにないですか?」という願望ではなくて、「いま目の前の研修を自分で少しずつ良くする」ための方法を書き連ねています。
良い研修を作るために「き」をつけることとして、前回は、受講者に与えるべきは「裁き」(総括的評価)ではなく「乾き」(形成的評価)というお話しをしました。(誤解があるといけないので繰り返しておくと、総括的評価はいらないというわけではありません。それぞれの違いを理解して、使い分けることが大切、ということです)
今回は、「乾き」を抱いた受講者がやってくるはずの研修において、受講者に何を手渡せばいいのか?を考えるうえで「き」をつけることについて書いてみます。
残念な研修
いまの時代、時間をかけて研修会場に赴かなくても、YouTubeでいろんな研修をザッピングすることができます。そこで時々見られるのが、「残念な」研修(教え方)。
たとえばパワハラ研修を例に取ると、こんな感じ。
厚生労働省によると、パワハラは「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」と説明されています。
「いつになったら出来るんだ」「社会人として常識だ」といった言葉も、パワハラと判断されてしまうことがあるので、言ってはいけません。
この研修(教え方)の残念なところは、どこだと思いますか?
問いを少し変えてみましょう。
受講者が現場に戻ったときに、「自分はなにをすればいいのか」が理解できるでしょうか? さらには、「理解したことを実際にできるか」、つまり実践できるでしょうか?
この観点から言うと、2つの点で不足があります。
1つ目は、パワハラを防ぐために「◯◯をする」という行為ではなく、パワハラとは「◯◯である」という定義の説明にとどまっていること。2つ目は、「◯◯をする」という作為(◯◯する)ではなく、「◯◯してはいけない」という不作為/禁止(◯◯しない/◯◯してはいけない)のかたちでの説明にとどまっていること。
「厚生労働省によると、パワハラは〜」という説明は、正しいのです。そして、受講者もその意味するところは理解するでしょう。ただし、研修において受講者が本当に理解しなければならないのは、パワハラの定義ではなくて、パワハラの定義にしたがって現場で自分がどう行動するべきか、というパワハラを防ぐ行為であるはずです。そういう意味で、ここでの説明は、行為ではなく定義にとどまってしまっています。
また、「◯◯という言葉を言ってはいけません」という説明も、正しいのです。受講者もそれは理解するでしょう。ただし、受講者の頭にはこんな疑問が浮かびます。「でも、いつになったら仕上がるか、本当に確認しなくちゃいけないときもあるよね」「でも、社会人としての常識ってあるよね」 納期を確認したいとき、社会人の常識を教えたいとき、受講者はなんと言えばいいのでしょうか。不作為/禁止(◯◯しない/◯◯してはいけない)の説明にとどまっており、作為(◯◯する)としての説明がされていないために、受講者の疑問は宙ぶらりんのまま置き去りです。
ちなみに、作為と不作為という対比については、こちらの記事も参考にしてみてください。
受講者がしらけるとき
この「正しい」内容を教えている研修が受講者に手渡しているのは、「能書き」なのです。
「◯◯しなければならない」「◯◯でなければならない」といった、「あるべき姿」を伝えてはいるし、「◯◯してはいけない」という「指示」も出している。
一方で、「どうすればできるか」「実際にやるとすると難しいのはどこか」といった「やり方」まで噛み砕いた説明がない。「やり方」に加えて、「現場でのイメージ」の提示も少ない。そのため、受講者は「そりゃわかってるけどさ」としらける。その証拠に、質疑応答で出てくる質問は、「◯◯しちゃいけなのはわかったんですが、実際には難しいときもあると思うんです。どうしたらいいですか?」だったりする。その問いに答えるのが、本来研修の役割のはずなのだけど。。。
受講者に手渡すべきもの
受講者に手渡すべきは、「能書き」ではなく、「武器」なのです。
物事(パワハラ)の定義や、やってはいけないことを理解してもらうことはもちろん必要。でもあわせて必要なのは、その先。「これならできそう」という受講者の心の声。その前向きな心の声は、受講者が現場に戻ったときに、受講者にとっての武器として機能します。
研修が受講者にとっての武器たりえるには、教え方に2つの要素が必要です。
1つは、状況(こういうときには)と行為(こうする)のセット。
受講者の主戦場である現場というのは、多種多様な場です。いろんなことが起きる。いろんな人がいる。そういう多様性や不確実性の高い場である現場にくらべて、研修というのはどうしても、統制のとれた実験室にとどまってしまいます。
そのギャップを踏まえたうえで、研修では、できるだけたくさんの「こういうときにはこうする」という状況と行為のセットを伝える必要があります。研修でロールプレイをすることがあると思いますが、あれは、実験室にいながらにして、いろんな状況を引き起こして、そこで必要とされる様々な行為を教えるためなのです。
そして2つ目は、受講者の「わかっているのにできない理由」に対する共感です。
統制された実験室である研修において、「あるべき姿」を語るのは、簡単なことなのです。混沌とした現場で「うまくできない」受講者に対して、実験室から「それではダメだ」と断罪することは、簡単なことなのです。
でも、「あるべき姿」や断罪を浴びせられた受講者の心に浮かぶ声は、「これならできそう」という希望ではなく、「できてなくてごめんなさい」という謝罪や「じゃあもうできなくていいよ」という諦念です。忙しいなか研修に来てもらって、受講者から引き出したのが謝罪や諦念だとしたら、本当に残念なことです。
「乾き」を抱いて研修にやってきた受講者に手渡すべきは、「能書き」ではなく「武器」です。その研修が受講者にとって武器たりえているかは、「これならできそう」という「勇気」にあふれた受講者の心の声でもって判断できます。その研修では、武器を手渡し、勇気を抱いてもらえているでしょうか。
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受講者のためになる研修とはなにか、を考えるときに「き」をつけることとして、「武器」と「能書き」という対比を紹介しました。その研修は、受講者から「これならできそう」という勇気にあふれた心の声を引き出していますか?
次回は、武器を手にして、勇気を心に抱いた受講者が、次に目指すべき場所はどこか?という問いをたてることによって、良い研修をつくるために「き」をつけることを考えてみます。