反権威の皮を被る権威主義者 #1: 薩長イデオロギーの体現者としての現代フェミニスト
この指摘は鋭いと思った。
ヨーロッパの政治保守とアメリカの政治保守は、政府に対する見方が真逆である、という良く知られた話を思い出す。
確かに長州と呼ばれた山口県からは首相経験者が8人も出ている。
(東京からは14人も出ているけれども人口比が大きすぎる)
吉田松陰も山口県出身だし、この山口県という土地には何かがあるのだろう。
日本に個人主義が根付かず、むしろ曲解された個人主義もどきがあるだけ。
引用記事でトバイアス・ハリス氏が指摘する「個人の義務と比べて権利は必ずしも優位ではない」考え方は、近代的な「権利を主張するなら責任(義務)を果たせ」という考え方と相性が悪い。
これは、以下のような考え方と表裏一体でもある。
こうなったのは、「女性は歴史的に男性に対して差別されてきたのだから(女性が男性と同等の義務を果たすことを求められるのは不公平である)」という道徳的優位性が原因だと、上の記事は指摘するが、本法の場合は文脈が違うだろう、というのが私見である。
権利とは"お上"から与えられる恩典である、というのが本邦の権利に対する観念・感覚であり、これは幕末の思想家たちの思想や、パターナリズムとも整合的だ。
この独特のパターナリズム、以前は右派の持ちネタであったはずが、2010年代に入って女性運動を中心にリベラルを自称するグループが振りかざす傾向がある。
この変化の理由で思い当たることは一つしかない。
専業主婦の解体である。
戦後の日本人女性に与えられていた恩典が、バブル崩壊を契機に削られていく。
経済的には「男が稼いで女が消費する」構造の崩壊である。
「女としての自分の利権」を死守しようとして必死になっている勢力が、"フェミニスト"の皮を被って暴れている。
これは「反権威の皮を被る権威主義者」の振る舞いではなかろうか。