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"近代"コスプレ国家の終わり
この2本の白饅頭noteを続けて読むと、日本は本当に近代国家・近代社会であるのか疑わしいというクリシェのもう一つの顔が浮かんでくる。
善人面したいだけのエリート・インテリ
これは「他人の腹で切腹」ミームの本音だろう。
ポリコレへのコミットが21世紀初頭の免罪符であり、そういう流れを作ったのもエリートおよびインテリ連中である。
もともと免罪符とは、中世末期から近世初期にかけて、教会の財源増収のために乱発されたものだ。
公金チューチューにそっくりではないか。
ColaboをはじめとするWBPC問題というか騒動は、このいかがわしい動きへの異議申し立てが動機の一つと言われているが、マルティン・ルターの宗教改革の動きとカブる、と言ったら言いすぎだろうか。
ついでに言ってしまうとAV新法の「事後取り消し」も、キリスト教的なものを感じ取ってしまう。
"実子誘拐"議論に感じる日本の後進性
本邦には家族は父親の所有物、子どもは母親の所有物とみなすような風潮がある、と過去に指摘した。
女性からすれば子どもを持つことが、ある種の社会的特権と結びつきやすいというのが日本の空気だ。
この話の延長線上に「実子誘拐」と共同親権の議論がある。
1970年代から、政府・自民党的には社会保障は家族の問題として矮小化し、かつ政府・政治の責任からアウトソースすることでローコストな社会保障制度を実現するという本音は今も変わらない。
そして女性にとっては結婚が社会保障のかわりとなり、夜職が生活保護のかわりとなる、という実態が温存されている。
このような社会では、離婚なんてあってはならないことなのだ。
個人を個人として、人間を人間として扱わない社会、という意味では近代社会の要件を満たしていないのが本邦の現状であり、それは2025年現在も全く変わっていない。
その結果が、リベラルやフェミニストが批判する「男尊女卑」「女性差別」である。
そのくせしてAV新法の「事後取り消し」というのは、出演者の責任能力を否定するところがあるのにもかかわらず、そのような条項を入れることに拘るとは矛盾も甚だしい。
これでは1990年代後半の少年法改正でもあり上がった「少年には人権がないから厳罰化しろ」vs「少年にも人権があるから刑は軽くしろ」という、全くお話にならない議論と同レベルである。
それにしても本邦のリベラルや左派、かつては進歩派と呼ばれた連中の、キリスト教的なものへの心酔というか傾斜は何なのだろうか…