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好きなもの 旅行、山の花、穏やかな夫【KHさんのお話】


この記事は、個人取材サービスでつくった原稿です。依頼者は、KHさんの娘さん。「母に自分の話をしてほしい」ということで、いろいろなお話をお聞きしました。穏やかな語り口がとても印象的だったため、エッセイ調で表現してみました。



教員の家庭に生まれ、教員に

私は4人兄弟の一番上で、下3人はみんな男児でした。そんなに面倒見はよくなかったですよ。一緒に遊んではいましたけれどね。

父は小学校の先生で、母は専業主婦。子どもたちが進学でお金のかかる期間には、母が近所の子どもたちに勉強を教えて月謝をとっていました。私は弟たちの学費を考えて地元の公立大学へ進みましたが、下3人は遠くの私立大学へ。今思えば、すごい両親だったと思います。

私は奨学金をもらっていたし、小中学生に勉強を教えるアルバイトもしていましたから、たまに帰省する弟たちにおこづかいくらいは渡していましたけどね。サポートというほどのことはしていません。

大学時代の楽しみは、年に2回ほどの友だちとの旅行でした。北海道の安宿で1週間過ごしたり、京都で友人の父が勤める会社の宿に泊まらせてもらったり。旅は、今でも好きです。ほかに趣味はと聞かれても、何も思い浮かびません。

大学は、教育学部です。父が教員だったので、身近に感じていたんでしょうね。そのまま、自分も小学校の教員になりました。私は大人しくて引っ込み思案、体を動かすのも好きじゃないんです。でもそのころ、教育学部に行けばみんな先生になったものでした。

先生になってからは、毎日が必死でした。勉強を教えて、次の授業のための研究をして、子どもたちがケガをしないように注意をはらって。若いころはなんとか食らいついていましたけれど、年とともに体力的なつらさを感じるようになっていきました。

何かをつくる夫の後ろ姿

夫とはお見合い結婚です。あちらも教員で、高校の物理の先生でした。物理なんて、私が一番苦手なジャンルですよ。彼はよく、ハンダを持ち出してトランジスタラジオなんかを組み立てていました。家のそこらじゅうに、つくったものが並んでいました。

教員人生の途中3年間ほど、新潟で最初のコンピューターの教育センターで、先生方の指導にあたっていました。まだ誰も、コンピューターの「コ」の字も口にしないような時代です。本当にすごいなと、尊敬の念を抱きました。そのあとは高校に戻って、退職までの5年は校長として勤めていました。退職するときは、県で10人ほどしか選ばれない表彰を受けたんです。かっこいい、自慢の夫です。

夫は、両親の夫婦げんかが絶えない家庭で育ったそうなんです。そういう夫婦にはなりたくないと言って、私たちは一度もケンカをしたことがありませんでした。お見合いで、よく知りもしない人と結婚をしたでしょう? でも夫は本当に穏やかで、子どもに声を荒げたこともありません。生徒を叱ったと話していたことはありましたけど、うちで怒ったところは見たことがないんです。

夫の母は畑仕事が上手で、新鮮でおいしい野菜をたくさん食べさせてくれました。その血を継いだのか、夫も野菜づくりが上手でね。できた野菜を家族に食べさせるのが好きだったですよ。私はずっと、おいしい野菜を食べていたんです。

それが3年前、夫の具合が急に悪くなってしまいました。その日の午前中はスーパーで買い物をして、午後は市のプールで運動しようなんて話していたのに。お昼ごはんのあと、気分が悪い頭が痛いと横になったっきり、動けなくなってしまって。

救急車でかかりつけの病院に行くと、「今晩が峠だ」と言われました。そんなことって、ありますか?

コロナ禍で、親類を呼ぶこともできませんでした。そこから1週間、一度も目を覚まさないまま逝ってしまったのです。人はこんなにはやく、こんなに簡単に亡くなってしまうものなのかと。

夫は無口で、穏やかで、がみがみ言うことは決してなく私の好きにさせてくれました。
何かをつくったり、直したりしている後ろ姿が好きでしたよ。
なにか贈り物をくれるなんてことはなかったけれど、最高の夫でした。 


早期退職したからこそ、思う存分旅ができた

52歳のとき、腰痛がひどくて退職しました。54歳までがんばれたら年金もちゃんと出たんですけど、早かったので32%減です。夫が生きていたときには二人分を合わせて普通にやっていけましたけど、亡くなった後は遺族年金を合わせてもだいぶ少なめ。足りないときには貯金を切り崩しています。娘たちは「節約して」「水道出し過ぎだよ!」なんて言ってきますけどねえ。共働きのときのお金の使い方を変えられません。

3人の子どもたちの育児真っ盛りのときは、共働きで金銭的にも余裕があったので、子どもたちには「節約しなさい」という教育をしていないんです。その子どもたちに、今は言われていますよ。

長女はよく様子を見に来てくれます。来たら片付けをしたり、重いものを運んでくれたり、いろいろと気を遣ってくれます。ときに厳しいですけれど、根の優しい子だと思います。


退職が早かったせいで苦労もありますが、退職してからあちこちに旅行に行けたのはよかったことです。夫とも、イギリス、フランス、オーストリア、オーストラリアとツアーに参加して。スイスは3回行きましたよ。1,2回目はお友だちと。3回目は夫と。

私は山登りが好きなのですが、夫と登れたのはこのスイスだけ。アルプスのホテルに泊まって、簡単な山道の散策を楽しみました。9月の終わりで気候がよくて、景色がすばらしくて、夫との旅の思い出のなかでも一番印象に残っています。夫は山育ちなのに山登りに興味がなくて、私は平場育ちなのに山が好き。あべこべになるもんですね。

次女がカナダに留学していたときは、ふたりで訪れて案内をしてもらいました。長男がアメリカにいたころは、NYを回りました。通っていた英語教室の先生に連れられて、先生のアメリカの故郷に1週間滞在したこともありました。英語は全然話せませんでしたけど。

国内もあちこち行きました。次女が連れて行ってくれた旅もありましたよ。次女は昔からまじめで几帳面で、私のできないことをいろいろやってくれる子でした。裁縫なんかもすごく丁寧で、感心したものです。


百名山の半分を制覇!60代で北岳も登頂

退職後には、100名山のうち50山を踏破しました。旅行社に勤めていたお友だちがガイドをしてくれて、荷物の内容まで見てサポートしてくれました。いつも朝暗いうちから出かけてね。仲間と一緒だから、北岳のような大変な山でも登れたのだと思います。ひとりだったら、「やーめた」と引き返してていましたよ。本当に大変で、やっとこ登ったんですから。

だいたい、昔から呼吸器が弱いんです。あんまり咳が出るので病院を回ったら、ぜんそくだとわかりました。今でも薬を飲んでいます。本当に、よくまああんなに登れたなと思いますよ。ハアハアしながらでしたけど、後に残るのは楽しい思い出だけです。

一度、黒部ダムの方で2~3泊する登山に出かけたのですが、1日目に右足首を折ってしまいました。大きく歩幅を出してしまったのが運の尽き。山の奥の出来事ですから、そのあとも歩くしかありません。仲間には先に行ってもらって、ガイドさんとゆっくり、激痛をこらえながら山小屋まで。そんな思い出もありますよ。

小さくてかわいらしい、高山植物の花が好きなんです。家から近い角田山は、花の山。春になると車に友だちを乗せて案内したものでした。可愛い花を見つけるのが楽しくて、発見すると友だちも喜んでくれました。弥彦山にもおもしろい花が多いんですよ。

ただ、5年ほど前に背中を圧迫骨折してしまってからは、歩くのも大変で山には行けていないんです。ローテーブルにのって天井を掃除しているときに、うっかり落ちて背中を打ってしまいました。普段は医者に行くのが好きなのか?というほどなのに、そのときに限って1カ月も湿布でがまんしてしまって。そのときに骨粗しょう症も見つかりました。少し前に保健士さんから「骨粗しょう症は大丈夫そうですね」なんて言われていたのに、あてにならないものです。


わがやに伝わる笹寿司

結婚したころからずっと、母に教わった笹寿司を作り続けています。わが家に継がれた笹寿司は、大きな笹の葉に酢飯をのせて、山ぐるみ、魚、卵、でんぶ、しょうがと並べて包み、箱に敷き詰めます。それを5~6段重ねて、上からぐっと押すというお寿司。子どもや孫たち、親類が遊びに来たときにはこれをつくります。長女の家族は、笹寿司目当てに帰ってきていたくらいです。

娘たちは手伝っているからなんとなくつくり方もわかるかと思うのだけれど、ひとりでつくったことはあるのかな……? 孫たちも好きな味だし、継いでくれるとうれしいですね。これはみんな、おいしいおいしいと食べるから。

昔は笹をもらいにいっていたけれど、ついにはうちの庭にも笹を植えました。大きくて色のよいものがあると、取っておいて冷凍します。1年に1度の笹寿司のために、管理の大変な笹を植えてしまいましたよ。喜んで食べてくれる人がいるから、今でも作りたいなあと思うんです。

お盆に集まることが多かったから、笹寿司は夏のごちそうというイメージ。一方で冬のごちそうと言えば、けんさん飯です。丸い握り飯にくるみ味噌をつけて香ばしく焼いて、そこにキャベツの千切り、ねぎ、ゆずの皮をのせてから、あつあつの出汁をかけて食べます。おせちに飽きたら、これ。よくストーブの上で焼いて、何杯食べたか競争していましたね。


踊って、歩いて、元気が第一

今の楽しみは、週3回の体操クラブです。流行歌にのってダンスをしたり、ストレッチや体操をしたり。1時間もあるので、途中は休憩。疲れるので、そろそろ引退かなあと思うこともあります。けれど木曜日はいつも、仲間とランチをして帰るんです。それが楽しくて。

以前は市のプールで水中歩行をしていたのですが、1年間の改装に入ってしまってから運動不足で困りますよ。来年3月にまたオープンしてくれるから、行きたいと思っています。

昔は朝5時に起きて、1時間歩くのが日課でした。骨折してからできなくなってしまったのだけど、よくまああんなに歩いていたなと思います。痛み止めの対処療法しかしていないので、リハビリしたら違うのかもしれませんけどね。施設がちょっと遠いんですね。

とにかく、ケガをしたりして人に迷惑をかけないことが目標。近くのスーパーや銀行には、車に乗らず歩いて行こうと思っています。包括支援センターに相談をしたら、手押し車を貸してくれました。なるべく歩いて、鍛えたいと思っています。


それから、庭の花を見るのも楽しみのひとつです。豪華な花はそんなに好きではありません。バラなんて棘が手に刺さるし。私が好きなのは、小さくて、一度種を撒いたら毎年咲いてくれるような花です。今は宿根ひまわりやどくだみが咲いていて、かわいいものです。春にはレンギョウ。ゴールデンウィークから6月頭くらいまでは、庭いっぱいに白いオルレアホワイトレースが咲きます。近所の人が「きれいだね」「すごいねー」と覗いていくんです。

子どもたちには、元気でいてくれたら何も言うことはないです。息子はあまりに顔を出さないから、もう少し会いたいと思いますけど。息子はスポーツマンで勉強もがんばっていたけれど、高校までしか家にいなかったから、あっという間でしたね。孫も大きくなるとあまり遊びに来ません。就職したばかりだったり、大学生だったりで、夢中で飛び回る時期ですから。

最近は、自分のあとにこの家に誰か住んだらいいのにと思うようになりました。少し前までは、「一度出て行ったら戻ってこないのが当然」と思っていたんですよ。でも、まだまだ住めるし、立地もいいし。賃貸でも、誰かに住んでほしいという思いが出てきました。

退職金でこの家を建てた当時は、畑のなかのポツンと一軒家でした。今は発展して、学校ができ、銀行ができ、大通りができてバスも通るように。畑の方は売ってもいいけれど、この家を壊すのはもったいないなあと、最近。子どもたちにはまだ話してないんですけど、これから伝えたいと思っています。


※固有名詞は仮です。


 

エピローグ

このインタビューは、娘さんからの依頼で行なわれました。81歳とお聞きしてイメージしていたよりずっと、お若くて素敵な方。画面の向こうには、家族とお孫さんの写真がたくさん貼られていました。

「こんな話で大事な時間をすみませんね」「書くことなんてあるかねえ」と終始謙虚でいらっしゃいましたが、お聞きできたのは圧倒的な、“人生”。聞いているときはただ楽しかったのが、書いていたら何かが込み上げてきて、思いがけず涙があふれた個所もありました。その何かは、とにかく感動だったように思います。「なんでもない」とおっしゃる話の重なりの、その厚み。お聞きできて本当によかった、光栄だったと感じました。


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