「緊張する」ことのでっっかい価値
わりと、初めてのことばっかりする人生である。
やってみる、の理由の一番に「やったことないからやってみたい」が入りがちということもある。
「その類の依頼は初めて」というケースが職業柄多い、ということもある。
そもそも、初対面の人への取材が多い職業なので、「初」はいつでもついてきがちだ。人見知りをしたことがないので初対面に負担はまったく感じないのだけれど
「大きなアートイベントを取材(外国人もいて英語あり)」
「4人組のバンドいっぺんに4人インタビュー」
「県知事3人が集まる対談を回す」
「午後いっぺんに3対談回す」
「取材と取材の間、移動時間がギリッギリ」
とか初めてのときは気が引き締まるわけです。
というか、取材日前日あたりになると子どもに対して非常に器が小さくなっている自分に気づく。
私、緊張しているんだな……と思い知る瞬間です。
器が小さくなっていることからもわかるように、こういうドキドキは心的負担なわけである。
「あ~」とか、思う。
「あ~(しんど)」と、思う。
でもこの感覚って、チャンス到来の合図なんだよな。
40も半ばのころになって、ようやくそのことに気がつきました。
だってしんどいほど緊張することに挑むというのは、
確実に自分の枠を外に広げる行ないだ。
胸がズーンと重くなるものほど、能力を広く深くするチャンスなんだ。
こんな風に考えると、緊張して胃が重く苦しくなったときでも
「また成長しちゃうなあ、私ときたら」なんて捉えられる。
ズーンとした感覚が、いいものだと思えてくる。
ズーンとするほど、進化するよね
緊張するものごとに挑んで、うまくいきゃあいいけど
「あちゃー」というときだって、あらあね。
でもいいの。
より成長があるのは、だめだった時だと思うのです。
それは、チャレンジした証だ。
「明らかにできそうなこと」しかしていないと、広がりはない。
緊張も、
うまくいかなかったと認めることも、
「ぐっ」と心の負担ではあるけれど
完全に、成長を得た証。
そうやって海原を漕いでいくんだわあ。
なあ、俺よ。