五帝以前に書物が存在するかと問われると、存在しないと答えます。
しかし、書物が存在しなくとも、書物の基礎を築くための素材がありました。
一方、五帝以下には多くの書物が存在します。多くの書物があることによって、書物の伝承が複雑化します。
したがって、作り出すことと伝えることは終始相互に関連しており、誤解してはいけません。
五帝について詳しく知るためには、まず最初に庖犧(ほうき)から始まり、天を見上げて地を観察し、近くから情報を収集し遠くを探求します。
そして、八卦を通じて天道を開き、天からの啓示を受けた伊尹(いいん)や芳辟(ほうへき)のような人々が現れます。
彼らは農耕具を使い、作物を育て、物事を明確にし、多様な知識を持つ百家の学問によって生活を豊かにしました。
それらの功績によって、彼らは養生と達成の導き手となりました。
次に、公孫(こうそん)が伝統を引き継ぎ、天体観測から淵泉の探求まで人間の事象を中心に研究しました。
彼は人間の五行と六気を考慮し、天地の陰陽と四季五行との関係を調和させ、人々の生活に適した調和を見出しました。
その教えは、微妙な変化を見抜く能力を持つ見垣(けんげん)の学問として明らかになりました。
これにより、三聖時代が到来し、三代の墳墓の意味が明らかになりました。
三才(さんざい)の理論も整備されました。
羲皇(ぎこう)は卦を作り、爻辞(こうし)と彖義(かんぎ)を考案しました。
姬(き)・文・周(しゅう)・孔(こう)の時代に始まり、李(り)・邵(しょう)・陳(ちん)・朱(しゅ)の時代に明確化しました。
そして、物事を開拓し事業を完成させました。易道は千年以上もの間、晦(かす)みませんでした。
炎帝(えんてい)は効能を見抜き、金石や草木を上中下のランクに分類しました。
その内容は、経書(けいしょ)として伝えられ、図書綱目(としょこうもく)に収められました。
また、補遺(ほい)や追加情報も整理され、多くの書物が作られましたが、その中でも「素問(そもん)」は一冊だけでした。
そのため、帝は俞跗(ゆと)や巫彭(ふほう)などの臣下とともに議論し、天と人の共通の理を探求し、陰陽の変動の仕組みを明らかにし、微妙な気の運行を研究し、人間の性命を理解しました。
また、寒暑や日月の運行についても探求し、形と気の生化の成否についても窮めました。
その内容は詳細かつ包括的で、余分な要素はほとんどありません。
しかし、その中で生の統治に関する論文が半分を占めています。
災害や病気についての言及が次に続き、治療法に関する記述がさらに後に続きます。
これは、後世の人々が災害や病気から免れ、健康で成長できるようにするために、聖なる教えが広まることを望んだためです。
しかし、この経典の意義は非常に奥深く、聖なる言葉や古い文章が含まれており、その意味を正しく理解できる人はほとんどいません。
例えば、周の越人や漢の倉公、晋の皇甫謐、唐の王啓玄、宋や元、明の著名な学者たちは、論文や注釈を書いていますが、それぞれ異なった解釈をしています。
経典の一部の人は一つの側面に焦点を当てて解釈し、経典の言葉を詳細に分析する人もいます。
経典の文言が他の箇所で明確にされていながら、一部の人は本文を解釈することでその大原則を見落としてしまいます。
また、経典の文章に先行して触れられていなかった内容が後に取り上げられることがあり、先行する簡潔な記述を省いて広範な論述を残してしまうこともあります。
これらは私が深く心配している点です。聡明な人でも愚かな人でも、最善の努力を尽くして思索し、庚子年(1860年)から「傷寒論」と「金匱要略」を注釈し、出版しました。
そして、甲辰年(1864年)からは「内経素問」の9巻を思考し、黄岐(こうき)の精華を印刷しました。
過去の批評や議論を参考にすることはありますが、決して盗用はしません。
古い論文のくずを残すこともありません。
ただし、私と同じくらい真剣に研究する仲間の高良(こうりょう)と深く協力し、門下生である校正者の厳格な監修のもとで完成させました。
題名は「集注(しゅうちゅう)」としました。
実際には、複数の同僚と共同で参照と校正を行いました。
先輩たちの議論に合致するものもありますが、これは放置されたものではありません。
すでに述べたことは、余計に言う必要はありません。
まだ言及していないことがあれば、後続の学者が待つために速やかに言及してください。
何故なら、康節(こうせつ)や希彝(きい)による易の秘密を追い求めるようなことはできませんし、齊相(せいしょう)や搜藥(そうやく)の遺跡に附せるほど私は古人に倣うことができません。
とは言え、人々は啓蒙や世間の歓喜を恐れます。
詩には「如彼飛蟲、時亦弋獲」とあります。
したがって、天下の後世から私に対する称賛と評価があることを願っています。
原文
五帝以上有書乎。曰:無書也。無書而實肇書之蘊也。五帝以下有書乎。曰:多書也。多書而實淆書之傳也。夫無書而肇書之蘊。多書而淆書之傳。則作與述之相為終始。不可誣也。聿稽五帝。首自庖犧。仰觀俯察。近取遠求。而八卦以通。昭然為明道開天之祖。嗣後伊芳耆。斷耜揉耒。教穡辨物。而百匯以明。煥然為養生達性之主。厥傳公孫。上稽天象。下究淵泉。中度人事。以人之五行六氣。配天地陰陽。以天地之四時五行。應人部候。洞然為見垣徹微之宗。是三聖代興。而三墳之義著。三才之理備矣。然羲皇畫卦。而爻辭彖義。姬文周孔。創始於前。李邵陳朱。闡明於後。而開物成務。易道遂歷千古而不晦。炎帝察材。而金石草木。品上中下。本經以傳。別錄圖經綱目以著。而補遺增缺。方書遂行萬祀而無敝。獨素問一冊。帝與俞跗巫彭諸臣論次一堂。所詳者天人一原之旨。所明者陰陽迭乘之機。所究研者氣運更勝之微。所稽求者性命攻蕩之本。所上窮者寒暑日月之營運。所下極者形氣生化之成敗。開闔詳盡。幾無餘蘊。然其中論生生之統居其半。言災病者次之。治法者又次之。蓋欲天下後世。子孫氓庶。勿罹災眚。咸歸生長。聖教不唐乎大哉。第經義淵微。聖詞古簡。苟非其人。鮮有通其義者。即如周之越人。漢之倉公。晉之皇甫謐。唐之王啟玄。以及宋元明諸名家。迭為論疏。莫不言人人殊。而經旨 栝者。或以一端求之。經言縷析者。或以偏見解之。經詞有于彼見而於此若隱者。或以本文詮釋而昧其大原。經文有前未言而今始及者。或以先說簡脫而遺其弘論。是皆余所深憫也。聰輒忘愚昧。竭力覃思。自庚子五載注仲祖傷寒論及金匱要略二書。刊布問世。今複自甲辰五載注釋內經素問九卷。以晝夜之悟思。印黃岐之精義。前人咳唾。概所勿襲。古論糟粕。悉所勿存。惟與同學高良共深參究之秘。及門諸弟時任校正之嚴。剞劂告成。顏曰集注。蓋以集共事參校者什之二三。先輩議論相符者什之一二。非有棄置也。亦曰前所已言者。何煩余言。唯未言者。亟言之以俟後學耳。詎敢追康節希彝通易之秘。隱君齊相搜藥之遺。以自附古人也乎。雖然。人憚啟辟。世樂因仍。維詩有云。如彼飛蟲。時亦弋獲。然則天下後世之譽我。或於此書。天下後世之毀我。亦或於此書。余何敢置喙。夫亦以見志之有在。惡容矜慎哉。