【シンプルライフ】バランスこそがたいせつだよね
ちょっとおもしろい実験&記事だと思った。
シンプルライフへの挑戦をまとめた記事だ。わたしは現在は在米だが、その前に南太平洋に浮かぶ島国サモアで4年間、家族6人で暮らした経験がある。この記事読んでいくうちにサモアで挑んだシンプルライフの思い出がよみがえった。
挑んだというと、すごいチャレンジだったように聞こえるかもしれないけど、シンプルライフの実践はモノに溢れた環境よりも、モノのない環境に身を置くほうが簡単だ。
彼女が掲げた100日間における100個の感想を読みながら、よみがえったことを書いておくことにする。
モノの多さがわたしたちの時間を搾取していることは南の島生活で実感した。とにかく、時間の流れがゆっくりだった。1日24時間というが、モノのない空間で生きれば、必然的に時間が増えたと感じられるほどだった。
日本でモノに溢れて暮らしていればぜったいに読まなかっただろう本がたくさん読めたのは時間が増えたのと、それしか娯楽がなかったからだ。
床に座ることがつらいというのもよくわかる。サモアンのママ友たちが、コンクリートの上で長時間でも座れることだけでなく、布一枚敷いて、そこでお昼寝もしてしまう能力に心底驚いたものである。つまり、ふわふわのモノに囲まれいてるうちにわたしたちの体はどんどん弱体化しているんだなと感じた。シンプルライフで培われている肉体の強靭さには感心したものだ。
バナナの便利もそのとおり。サモア時代ビーチに行くときやおでかけのときはいつもバナナがスナックだった。そもそも道端に生えていたりするのだけど。
靴は高級品だし、気候が常夏なためゴム草履で日常を送っていたが、裸足で平気な人も多かった。釘が刺さって血がでたのに、それを引っこ抜いて何食わぬ顔でまた歩き出したのを見た時には足裏の強さは人種によって違うのだと悟った。
「タオルがありがたい」とはなるほど。サモアではただの布をとっても多目的に使っていた。基本、下半身は布一枚くるっと巻けばそれがズボンやスカートの役目だし、その布一枚を床に敷けばシーツだし、雨がとつぜん降ってこればそれを頭にかぶったし、鞄の代わりに包むことにも使えた。一枚の布がそれほど多目的に使えることを知ったことは衝撃的だった。タオルじゃなくても、コットンの薄い布でもタオルと同じありがたさは感じられたかもね。
物理的に便利なことと、精神的に満たされることは別だと思うけれど、すでに“ある”があたりまえから“ない”を受け入れるのは、“失った”と感じてしまうのだろう。実は、多くのことが、「あるから失っている」ことに気づくには少し時間がかかったことを思い出した。
当初は不便になったことでイライラしたものだが、モノに振り回されない空間に身を置いているうちに体は順応する。ふわっと外から漂ってきた南国独特の花の香りが心地よいと思ったり、風のさわやかさを感じたり、聞こえてくる生活音さえもおもしろいなと感じたことを思い出した。
「生き延びることと暮らすことは違う」名言だと思う。
生き延びるを基準にモノの要不要を考えだせば、わたしたちの生活にほとんどのモノは要らないものとなってしまう。今という時間をやり過ごすことはできても、暮らしているとはいえない。暮らすというのは、生きること、livingであり時間を消費すればいいわけではない。生きている日々の繋がりがまとまってはじめて暮らしなのだから、そこには心が満たされる何かが必要だ。
シャンプー1本化とか、炊飯器はいらないというのも納得。4年間の毎日、わたしは鍋でご飯を炊いたが、最初の数回失敗すれば、どのあたりまで水を入れて、どの火加減で炊けばおいしく炊きあがるかなんて簡単に習得できた。シャンプーどころか、石鹸さえあれば、体も頭も洗濯もできる。ないからこそ生まれる工夫の力を感じたし、有り過ぎないすっきり感にも気づいた。
○○用、○○用、とありとあらゆる、似通っているけどちがうラベルの商品が溢れてしまうのは、過度な情報、宣伝によるプロパガンダのたまものなのだ。幸い、南国では情報がなかったのでコントロールも簡単だった。
サモアにいる4年間、洗濯機、掃除機や電子レンジなど家電品はない暮らしをしたけれど、わたしもないことがつらいと感じたのは洗濯機だった。家族6人分の洗濯を毎日手洗いし干した。青空の下で干す時間は好きだったが、絞ることが辛かった。夏服しかないのでなんとか生き延びたが、シーツのような大きなものを手洗いすると筋肉痛になった。とはいえ、続けるうちに筋肉痛が減って、腕の筋肉がついた。洗濯は筋トレだ。
不便だとひらめくというのも、ホント。空き缶を皮むき器に代用してみたり、空ペットボトルはいろんな代用容器やおもちゃにもなった。
「冷蔵庫がタイムマシン」とは、おもしろい発想!♥
実は、シンプル南国ライフだけど冷蔵庫だけはあった。常夏の国で冷蔵庫がない暮らしは、健康に直結する。冷蔵庫は冷やすためだけでなくありとあらゆる雑菌やゴキブリ、アリなど害虫から食物を守るためにもこれだけはパスできなかった。
スマホやパソコンは時間泥棒ということだけはまちがいないんだろうな。わたしが南国ライフを送っていたころにはまだスマホはなかった。バソコンはあったけど、ウィンドウズ98でモデム接続なうえに接続の時間制限もあった。もし、今なら別の体験となっていたことだろう。
物理的にあると便利なものと、なくてもなんとかなるけど、あると精神を安定させるものがある。グラスの代わりになるものがあれば、グラスが要らないわけではない。お気に入りのグラスで飲めることが、生活する上での潤いであり、それが暮らすということ。モノは少なくていいけど、お気に入りのカップやグラスという拘りはあっていいと思うな。
調味料は基本のものでじゅうぶんと日頃から感じている。特に、合わせ調味料などの科学を結集して作られた人工的な味は好みではない。そもそも、○○味ってわけのわからない美味しさに惑わされると、その中身は添加物だらけの発がん性物質かもしれないのだから。「味よりうまみ」はだいじなこと。
本はどんなシンプルライフにも欠くことはできないものだと思う。多少のモノの少なさは、生き延びられるなら便不便程度のことだけど、知を満たしてくれる読み物や情報がないのは、人が人であるためには致命的だと思う。
残念ながら、モノが溢れすぎている世界で暮らしている者ほど、知性を満たしてくれる良質な書物に触れる時間を奪われている気がしてならない。昨今の“反知性”と呼ばれる人々が増殖中なのは、そんなところにも現れているような……。心を満たしてくれる本や読み物は洗濯機よりもだいじ。
ひとつあればじゅうぶんなモノは多いけど、ひとつしかないと壊れたときに困るとか、余分にあってもかさばらないからとか、それなりに理由作って増えてしまうのだ。気づけば、チリが積もって山で、引き出しが満杯になって取り出しにくくてうんざりという時が来る。思えば、サモア時代はモノがちっとも手に入らなかったので増えもせずで楽ちんだった。
無くていい調理器具をひとつあげるなら、わたしも電子レンジだな。サモア時代はないまま4年過ごしたけど、困ったことはなかった。もともと、温めることにしか使わないものなのだから、鍋があれば済む。電子レンジはなくていいけど、今なら代わりにインスタントポットはあるといいと思う。うまみ料理を簡単に作ることができるから。
「掃除用具はリラックスアイテム」なるほど。掃除って、体操時間だとわたしは思っているので、リラックスタイムってのも納得。
若いころは、なんでももらえればうれしかった。自分がうれしかったからクリスマスには多くの人にプレゼントをすることを楽しんだ。でも、あるときからあふれるモノにうんざりしはじめ、もらうことがつらくなってきた。気持ちはありがたいけど、使わないモノが増え、「うわぁステキ、ありがとう」と言いつつ、「使わないし、しまうとこがない」と同時に思うことが苦痛になっていった。
特に日本のお中元、お歳暮などの贈答文化は考えもの。人を訪問するときの手土産とか、祝い、お見舞い、そのお返しと全てモノモノモノを送り続け、もらい続けだ。もうやめたらいいと思う。
要不要をとことん吟味して、「自分らしい暮らし」を楽しむために必要なものにフォーカスしてモノの持ち方と量、モノの受け入れ方と手放し方を常に意識できたらいいなぁと、今回の記事を楽しく読んだ。藤岡みなみさん、楽しい100の気づきのシェアをありがとう。