「心技体」の三体問題
※タイトルはカッコ良さ重視で何と無く付けましたスミマセン。
多分20年以上前になると思う。スポーツニュース番組で元プロ選手のキャスターが、現代は「心技体」ではなく「体技心」の順で重要です見たいな事を言っていた。
「そんな訳ねぇだろ」ついTVに突っ込んでしまった、いつから「心技体」は順番になったのか?それともこの人はそう習ったのだろうか?それ以来この人のお陰で「心技体」をどう説明するかを考える材料になっている。
その時直ぐに思ったのは、そもそもどうやって心技体を分離するのだろうか?一休さんのように体だけ、心だけ、技だけを取り出して下さいと言いたくなる。
その後に思ったのは、「心」と「体」が重なった所に「技」が現象として現れるモデルだった、
そんな事を考える内に、あぁこれは心身二元論の考えなのか?と思った。知っている人からしたら全然違うと言われそうだけど、2つの組み合わせで3つ目が現れて其れ等が相互に影響し合う。
※タイトル画像のバランスの悪さに意味は有りません、単に下手なだけです。それっぽい画像は有りましたが、ネット上のルールが分から無いので、ペットボトルの蓋とシャーペンで書きました。
言葉にすれば簡単な様で、実際は「心」と「体」の間にある「技」が複雑に影響し合いながら運動は成り立ち、その動き(技)をする事で心と体は影響を受け、それによって技も影響を受ける、心と技と体の三要素が複雑に影響しつつ、変化しながら運動(現象としての技)は成り立つ。
なので「身口意」も「天地人」も自分は同じ風に考えている、わざわざ違う言葉を付けているのだから本来なら違う意味に成る筈だけど、間違っているなら自分と弟が困るだけだから良いと思っている。(どうせこの文章をそのまま鵜呑みにする人は、どっちにしろ到達しないだろし、困るのは自分達だけだと思う)
システマの本を読み少し呼吸の練習をして気付いたのは、何故「呼吸(口)」か?は「意識」と「無意識」の中間、境目にあるからだと考えたら、そのままの事がその本の途中に書いて有った、多分著者に誘導されたのだろうけど、そりゃそうだろうとも思った。
(システマのその本では意識的にも呼吸が出来るし無意識でも出来る、それがどの様に心身に影響が有るかを本人が分かる為に練習する。システマの人達、間違っていたらスミマセン)
この元プロスポーツ選手は何故順番だと思ったか?は、多分本人はなんとなく色々と出来たのだろうと思う、だから体作り→練習による駆け引き的な技術の習得→「心」は大舞台に緊張しない精神とか、逆境時に負け無い精神や頑張る事、等を言っているのだと思う。プロに成る様な人は全て天才の様な者達。
自分のような凡人で、どうやったら上手くなるだろう?なんて殆ど必要無かったのだと思う。こう言うと知ったか振りから「そんな周りくどい事考えているからだよ!」と聞こえて来そうだ。
それはその通りだとしても殆どの人は、そもそもがこの人のスタート位置に立って居ない、なのに練習量や自己責任として叩かれ、体と心を壊すのでは酷過ぎる、この手の人達は非常に多い。
出来る事と、分かる事、教える事にはそれぞれズレが有る、自分にはこの人に運動の才能が有ったとしても、説明の才能は無い20年以上経って尚更そう思う。
書いている内に思い出した事を、今となれば良くもまぁあんな練習を、と言う事もしました。
例えば丈夫な袋に5〜10ミリ程度の玉砂利を入れて木に吊るし、突き蹴りを毎日していた時期も有ました、手足は酷い内出血になる様な事を暫くしていました。
でもこう言うのは逆に小手先の練習で根本的では有りません、だって体の使い方や感覚が上達する事とは無関係だから。むしろ痛さに鈍感に成るのは=感覚の鈍麻だからです。(これは自分が勝手に練習をしました、先生はむしろこう言う練習をハッキリ否定する人で、年に何度か教えに行く体育大学の旧陸軍的な風潮にも否定的でした)
微妙な感覚と運動のズレが分かっていない人に、こう言う練習をさせては体を壊すだけです、これは基本では無くむしろ応用練習。こんな事を分かるのに何年も掛かりました。
正に自分の場合は「小人は下達す」。しかも下達させようとする人達も世の中には、沢山居るから困ったものです。