エベレストもその一歩から 本の話をしよう02『淳子のてっぺん』
『淳子のてっぺん』 唯川恵 (幻冬舎・2017年)
会社の職場の上司が、山に登る人だったので、入社してすぐに誘われた。毎回、根性も体力もない私は周囲に迷惑をかけながら、へろへろになって下山した。毎日職場で顔を合わせている人と、なんで週末まで、と思わなくもなかったが、そこでご一緒した人と後々に仕事でご縁ができたり、その時の経験がいまにつながっていることは多々ある。
『肩ごしの恋人』で直木賞を受賞した唯川恵さん。
自分が担当していた文庫レーベルでも村山由佳、江國香織、と並んで恋愛小説をたくさん世に送り出していた。ともかくたくさん読んだなあ。ちょうど定期的に山に行っていたころと重なる。
軽井沢にお住まいで、浅間山によく登っているということも聞いていた。
その唯川さんが、あの田部井淳子さんを題材に小説を書いた。と聞いた。すぐに手にとった。
田部井淳子さん。女性ではじめてエベレストに登った登山家だ。2016年にガンにより77歳で亡くなるまで、テレビや雑誌でよくお見みかけした。
実際にお会いしたことがないのでわからないが、屈強な印象はまったくなく優しい目をなさった小柄な印象の女性だった。
物語の中で淳子は、集団就職で上京し、周囲の女性がそのお給料でささやかな東京を味わっている間、週末はひさすら登山の練習。ためたお金で目指すのはやはり山。「女が登山?」と周囲から言われても、彼女はその楽しさに魅せられている。やがて同様に山を愛する男性と結婚、出産し、一時家庭に入る。
山岳小説、というジャンルがある。新田次郎『孤高の人』『剣岳 点の記』、井上靖『氷壁』、夢枕獏『神々の山嶺』、沢木耕太郎『凍』、笹本稜平『還るべき場所』などなど…おもえば、準備期間、登り、頂上、下山、岐路につく、という流れ自体が小説の起承転結と似ている。頂上に着けば終わりではなく、登りよりきついといわれる下山がまっている。山で命を落とすのは大半がここだといわれる。
普段は別の仕事をしながら、予定を調整して仕事を調整して出かける。家族がいれば、家族を残していくことへの葛藤がある。その家族は愛する人が生きて帰ってくることを祈り続ける日々を送ることになる。
登山家が山をあきらめるタイミングは、1・就職したとき 2・結婚したとき 3・こどもが生まれたとき だと本書にもある。自分も3で離れたくちだ。
幼い子供を抱え、一旦山から遠ざかっていた淳子に海外遠征の話がもちかけられる。夫に背中を押されて、子供を預けてエベレストに向かう。子供の大事な時期に一緒にいてあげられないという苦悩。山の上でも、チームの女性同士の連携が難しい。男性の登山家以上に、お互いが大きな犠牲を払って参加しているから、誰もが成果を挙げて帰りたい。だが、無理をして死者は出せない。やがてリーダーになる淳子は苦悩しつづける。時にものすごい恨みもかう。すべてよいことばかりではない。
ここに唯川さんの本領が発揮される。女性たちのひとりひとりの個性、その描写がとてつもなくうまい。女性だからこその嫉妬、苦悩、喜び。山と人の対峙だけではなく、周囲との人間関係がしっかり描かれるので、まるで自分がエベレストの頂上を目指しているように思えてくる。これは数々の恋愛小説を書いてきた唯川さんの力量以外の何物でもない。そしてほかの山岳小説と異なる点でもある。
また、淳子の旦那さんの存在が素晴らしい。妻は家にいて子供の面倒をみているのが普通、という時代だ。夫婦で夢を共有し、時に淳子が待つ側、時に旦那さんが待つ側になる。
タイトルにある「淳子のてっぺん」は旦那さんの言葉からきている。創作なのかな。実際の言葉なのかな。それはわからないけれど、少なくとも女性初のエベレスト登頂登山家の裏側にはこの旦那さんがいる。そこも、この本の読みどころだ。
この本の中に以下の言葉がある。
「 目的に達するために一歩を踏み出す。そして、もう一歩、さらに一歩。
それがどんなに小さな一歩であろうと、足を進めることで掴めることが必ずあるはずだ──」
田部井さんはもうこの世にはいない。そして、荻窪の駅ビルの屋上で我が子を遊ばせ、遠くを見れば、丹沢の山々と、よく晴れた日には富士山も見える。今もこの瞬間、あの山に一歩一歩を重ねて登っている人がいるのだろうな、と思いを馳せる。 また登りたいなあ。
コロナの感染者は日ごと増し、テレビやネットには世の中の不満が渦巻き、噴出している。
完全リモートできない夫を送り出し、もし感染したら、家庭は?仕事は?こどもは?と気が滅入りそうになる。うまくいかないこともある。
そんなときに、この言葉を思うと、1日1日無事に、健康に過ごすしかないのだと気づかされる。
いつになるかわからないこのパンデミックが収束する日も、
その積み重ねでやってくるのだと信じたい。
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