その人の歴史。「ナースの卯月に視えるもの」感想
僕は療養病棟がある医療法人で働いている。
と言っても現場である医療や介護に関わらない。ITとか購買とか。時折各施設の病棟に出向き、師長さんと延々話をする時がある。大抵「あー、すみません、それ、こちらからの連絡が行き届いてなかったですね」などの話。
(師長さんたちは出来た人たちが多く、ほとんど「いえいえ、こちらも確認不足ですみません」で終わる。ありがたい)
ずいぶん前だが病棟をうろうろしていた時、顔見知りの看護師さんが僕に近寄って来た。
「悪いんだけど、あの方の傾聴お願いしていい?私、あっち行かなきゃならなくて、今頼めるほかの看護も介護もいないのよ」
傾聴とは簡単に言うと相手の話を丁寧に聴くこと。それが患者の心の負担を柔らげ、安らぎにつながる。僕も一昨日あたりに大きな仕事が終わったので時間があると言えばある。
病室に行くと80代の男性がベッドに「しゃん」と腰掛けていた。僕も丸椅子に腰掛ける。
「天気いいっすね」
「お前、誰か知らんがもうちょいまともな問いかけ出来んのか」
「あ、これはすみません」
「あの川の名前、言ってみろ」
窓から見える川を指さす。
「あれは〇〇川ですよね」
「ダメだな。あれは〇〇川に流れ込む支流の△▽川だ。このあたりで仕事するならそれぐらいわかってないとダメだ」
結構手厳しい。
「だいたい自分の周りにもっと気を配らなければならん。そういう所が最近の政治離れにつながるのだ」
そう来たか。
話し方から判断するに認知症も無さそう。これは話が長くなるパターンだ。そして活舌がいい。高齢者は筋力の低下や唾液の減少で活舌が悪くなりがちだが、話す言葉がしっかりとしている。
それから20分ほど今の政治の話を聞いた。政治経済の話は嫌いじゃない。でもさすがに20分も自分の席を空けるのは厳しい。切りのいいところで丁寧に礼を言って帰ろうとした。
「あ、途中で席を立つのか。どういう料簡をしてるのか。まったく」
数は少ないが今まで傾聴した人となんか違う。何というか、僕との間に何かしっかりとした線引きがされている気がした。
一週間ぐらい経った。先日の看護師さんに呼び止められた。
「この間は助かった。あの先生話長いから」
「先生?」
「知らなかった?あの人、上手(かみて)の小学校と中学校の校長先生やってたのよ。話難しいでしょ。木村さん(僕)なんかそういうの好きそうじゃん。あ、明日あたりまた行ってあげてよ」
先生だったのか。線引きは先生と生徒だったか。
僕は時間を作り、時々その方の所に行くことにした。周りに聞くと校長先生として、山奥にある寒村の教育レベルをあげる事に奮闘したらしい。生徒には厳しかった。半径50㎞には彼に廊下に立たされた生徒が200人はいるらしいとの事(前述の看護師さん談)。部屋にいるのは一回十分程度にした。さすがに頻繁には行けない。
校長先生の話は多岐にわたった。
昨今の政治から始まり、そのよくない流れを明治維新まで遡る。近くにいる動物の生態。里山の成り立ち。昔の子どもたちの貧相な食生活。中国の哲学である老荘思想。歴史小説はおもしろい。ただそれを鵜呑みにしてはいけない、など。
僕は彼を「先生」と呼び、部屋をおいとまする時にはあたかも職員室を出る時の様に少し大きな声で「失礼しました」という事にした。そうすると先生も納得した顔になる。
三日に一度は行くことにした。僕が行くと先生はほんのわずかだが目元が緩んだ気がした。
しばらくして仕事が忙しくなり、頻繁に他施設に出向かなくてはならなくなった。先生の部屋にも行けなかった。
2か月ほどして先生が亡くなった。あれだけの知識の宝庫が「すん」と消えてしまったことが何か僕の中に残った。
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秋谷りんこさん著「ナースの卯月に視えるもの」
療養型医療施設に勤務する看護師、卯月には患者さんの「思い残し」たものが見える。それを卯月は丁寧に拾う。
その「思い残し」は亡くなる方の一部。
病院のベッドに横たわるのは人である。その人には無限の宇宙があり、歴史がある。卯月はそれをないがしろにできない。
秋谷りんこさんは看護師だった。この物語やnoteに書かれた「老人ホーム デスゲーム」を読むと、看護師だった時に患者さんの歴史や何かを感じ取りながら働いていたのだろう。
それはメンタル的にとても大変な作業。でもそれを汲み取ることは、患者さんにとってよい看護師さんだったはずだ。
(「老人ホーム デスゲーム」は卯月とは全然違うぶっ飛んだものなのでこれも是非)
療養型医療施設が舞台というのも僕を惹きつけた。急性期病院と違い、劇的な事は起きない。ドラマを作りにくい様に思える。
でも、秋谷さんは療養型に詰まっている豊穣な物語を拾った。
続編も楽しみです。
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最近思うのだが、あの先生は数多くの生徒たちに豊穣な知識を授けた。そのおこぼれを僕は貰ったわけだ。お礼を言った方がいいだろう。何て言おうか。
職員室から出る時は確かこういったはずだ。
「失礼しました」