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月明りの染み

 

 その通りすがりの夜は今でも僕のどこかに沈んだままだ。

 
 終電間際の乗客。彼らは輪郭がぼんやりしている気がする。明かりが足りないからかと思ったが、佇まいそのものが薄い。その輪郭は各々違う。
 郊外に向かう車両の窓を霧雨が濡らす。車内の会話はない。皆、スマホを眺めている。席は全て埋まり、立っているのは僕含め数人。この時期僕は仕事が詰まっている。二週間以上遅い時間の帰宅が続いている。でも明日は休みだ。遠距離の彼女が部屋に来る。
 
 電車に乱暴なブレーキがかけられた。僕は少しバランスを崩した。この場所での徐行運転はあまり記憶がない。車両は徐々に速度を落として止まった。
「〇〇駅にて故障を起こした先行車両があるため、しばらくここで停止いたします」
 自分の駅までまだかなりある。うんざりしてスマホを取り出す。電池が残り二%。インスタを立ち上げたら落ちてしまった。何も出来ない。電車が動いたのは十五分後だった。
 次の駅に着いたところで全ての運行が中止になった。前を行く車両の故障が酷く、動けないらしい。バスやタクシーの振替輸送を準備しているとのアナウンスが流れる。瞬間、だるい雰囲気だった客が弾かれた様に席を立ち、ホームの階段を駆け上っていく。呆然と見ていたが、皆バスやタクシーの確保に走ったのだ。慌てて階段を駆け上がり、改札を抜け乗り場にたどり着く。
 タクシー乗り場は既に蛇の様な形をした長蛇の列。駅員が拡声器で叫ぶ。
 先ほどバスが終了しました。手配はしておりますが時間がかかる模様です。タクシーにて振替をお願いします。

 タクシーが来る頻度、そして列の長さからざっと計算する。乗り込むまで一時間半ぐらいだろうか。革靴の中は湿気を帯び、冷えた汗がシャツを湿らせ体にまとわりつく。pcが入ったバッグは鉛でも詰め込まれたように重い。振替輸送のアナウンスがあった時にダッシュをしていれば、もう二十分は短縮できたかもしれない。仕事も少し早めに切り上げる事も出来たはず。今更だが課長のつまらない冗談に付き合った時間がもったいない。斜め前の席の新人の真理ちゃんを眺めている暇があれば先に進めていればよかった。さっきまでやっていた稟議案件の数字の精査はよく考えれば今日やる必要はない。腹が減った。昼に何食べたか覚えてない。何を食べようが一緒だ。安ければいい。身体に疲労が纏わりつく。熱い風呂に入りたい。靴下脱ぎたい。 
 タクシーは乗合をしていない。馬鹿正直に一人ずつ乗り込む。彼女が泊りで来るから部屋の掃除もしたいし、ゴムも買って置きたい。彼女は小柄で少し口うるさい。明日何処に行くんだっけ、一日部屋にいるのは駄目なのかな、駄目なんだろう。この何日か睡眠時間は四時間切っている。早めに出社しなければならないし、夜は遅い。snsにも付き合わなければならない。列は僅かにしか進んでない。部屋の掃除は別にいいかもしれない、シーツだけは替えておけばいいんじゃないか。

「君」
 
 不意に声を掛けられた。顔を上げると隣の列の男性が僕に言っている。六十代ぐらいだろうか。
「君、ずっとうつむいているからずいぶん他の人に抜かされたよ、僕の後ろだったのに」
 抜かされたという意味が分からず、声を掛けてきた男性も見覚えがない。

「君が今、私の後ろに来ても誰も文句は言わないだろう。みんな君のことを抜かしたんだから。こっちに来なさい」

 男性は僕を手招きする。僕が今、男性のところに行けば割り込みに見える。躊躇したが周りは皆スマホを見るため下を向いている。僕とその男性の間を数えると十五人以上いる。男性の後ろにつく事にした。周りは何も言わなかった。

「ぼさっと下向いているからさ、立って寝てるのかと思ったよ」

 言葉とは裏腹に男性は穏やかな笑顔を見せる。仕立ての良さそうな濃紺のスーツと白いシャツにグレーのニットタイ。スクエアフレームの眼鏡。このタイプの眼鏡は年配で痩せた方が使うと冷たい印象を与えるが、彼からは柔和な雰囲気が伝わってくる。
「ありがとうございます」
「あそこまでぼんやりしてたらタクシーに乗るのは朝になってしまうかもしれないね」
 優しい笑みを浮かべ、彼は前を向いた。

 少し後ろで大きな声を出す男がいる。
「乗合しろ! いつまで経っても家に帰れないぞ! 乗合だ!」

 その声をきっかけに群衆は口々に自分の駅名を周りに口にし、乗り合いするグループを作る。一気に列が短くなっていく。しかし彼らが問いかける駅名に僕の駅はない。僕が降りる駅はこの路線からさらに乗り換えをしなければならない。このまま待つしかない。

「駅はどこなの」
 さっき声をかけてくれた男性が言う。僕は駅名をあげた。
「少し遠いな。その駅まで行く人はあまりいないかもしれない。でも私も同じ方角だ。途中まで一緒に行こう」
 
 二十分程でタクシーに乗れた。乗り合いの威力は大きかった。そして男性が声をかけてくれなかったらこんなに早く乗れなかった。
「ありがとうございます」
 男性は少し笑った。
 座席に座り、彼はジャケットのボタンを外す。ネクタイを緩めようしたが結局しなかった。
「君、どこまで通っているの?」
 僕は都心から少し離れた下町の地名を言う。
「お、近いね。僕、その隣だ」 
 僕の勤務先の隣町は大きな大学がいくつかある。
「大学にお勤めなんですか?」
「今日は学会の帰りなんだよ。こんなことになるとはね」
  彼は柔らかく言う。学会。教授なのだろうか。
「君の職場近くに有名な天丼屋さんあるよね、あそこ美味しいけど、量多いよね。僕の年だと流石に厳しくて。君ぐらいだといけるだろ」
「まあ、何とかいけます」
 電車の運行中止からの長蛇の列。後部座席に身を沈めると深い安堵が僕を覆った。他愛もない会話を少しする。タクシーは国道をスピードを出して走る。ガソリンスタンドやコンビニの光が窓を流れていく。その光に映し出された男性の横顔。列に並んでいる時には解らなかった、深く刻み込まれたような疲れが見えた気がした。彼が柔らかく僕に話しかければ話しかけるほど、浮き上がって見える。

「お客さん、この先で大きな事故があったみたいなんすよ、ちょっと車停めていいですか」
 声の大きい運転手がコンビニの駐車場にタクシーを滑り込ませる。
「今ね、会社からメッセが来ましてね、橋の上でトラックが転んだらしい」

 その橋は僕の部屋に帰るために必ず通らなければならない。運転手がタブレットを僕らに見せる。交通情報を示す地図。橋には通行止めの×、周辺道路の混雑を示す色は赤ではなく、茶色から黒に変わっていく。動脈が麻痺しつつある。このまま橋近くに入り込んだら抜け出すのにどれだけ時間がかかるのか。橋を迂回するルートはまだ動いているが、そのルートを使ったら時間と金がいくらかかるかわからない。目の前の国道は既に渋滞になりそうな車の流れ。
「あの橋は片側一車線だから事故処理まで相当時間かかりますね。どうします?」
  運転手は帰りたい雰囲気を遠慮なくまき散らす。しかしここで放り出されても行くところがない。タクシーの電源を借り、周辺ホテルの空室を探す。一部屋たりとも空いていない。ネカフェや漫画喫茶を考えたが今日の列車の運休でたぶん満杯だろう。
 途方に暮れていると隣の男性が少し遠慮がちに言う。

「君、よければうちに来ないか? 部屋も余っているし、どうだろう。行くところないんだよな。僕の家までなら今のところ裏道が空いている」
 いろいろ考える。彼が同性に興味をもつ者かもしれない。人は簡単に自分の 家に邪心もなく誘うのだろうか。しかしそれ以上深く考えるには僕は疲れすぎていた。
「差し支えなければ、お願いしてもよいでしょうか」
「もちろんだ、さすがにあの時間の電車からこの流れはしんどいよな」
  彼は運転手に自分の家の住所を伝えた。

  彼女は何時に来るんだっけ。

 彼の家は古かった。アメリカの映画に出てくる農家。そんな家をこじんまりさせたものだった。庭らしいものがあるが、全く手入れされておらず草が伸び放題。玄関の前には椅子が二つ。その椅子に人が座ったのは何年前だろう。ひさしや柱の白いペンキは所々かさぶたの様に剥がれ落ちている。住宅街のはずれに佇むその家は暗闇に押しつぶされるぎりぎりのところにいる様な気がした。
 男性から玄関から靴のまま入っていいと言われる。

「そうは言っても革靴は脱ぎたいよね」

 クロックスのサンダルを貸してくれた。自分の足の臭いに躊躇したが、ありがたく履き替える。部屋には古いが座り心地の良さそうな三人掛けのソファがローテーブルを挟み、向かい合わせにある。床はしっかりとしたフローリングだがこの前磨かれたのはいつなのか。部屋は薄暗く、リビングの隅には小さくまとめられたゴミ袋が幾つか無造作に置いてある。
「乱雑なところですまないな。やろうとはしているんだが、腰が重くて」

「父さん、帰ったんだ」
  奥から人が来る。
「聡、起きてたのか」
「うん、今日はね、身体の調子が良くて。そちらは?」
 僕は男性に名乗っていないことを思い出した。男性が言う。
「今日、電車のトラブルでずいぶん手前で下ろされたんだよ。タクシーを乗り合いしたんだが向こうの橋が通行止めで。彼は行き場所がなくなっちゃって」
「嶋津と言います。夜分にほんと申し訳ないです」
「そうだね、確か名乗ってなかったな。逢坂と申します。私の息子です」
 かなり後悔していた。疲れに任せておじゃますることにしたが、逢坂という男性の家に家族がいることを全く考えなかった。

「それにしてもさ、父さん、よくこんなごちゃごちゃの家に連れてきたね」
  彼は暗闇に合わせたような小さな声で言う。そして密やかに笑い、ソファの端に座った。おそらく僕と同年代。グレーのTシャツ、その上にこの季節にしてはかなり厚手の青と黄色のチェックのフランネルシャツ、ゆったりとしたベージュのチノパン。部屋着に丁寧に着こなすという表現があるのかわからないけど、そんな気がした。逢坂さんが言う。

「まあ、そうだな。嶋津さん、気にしないでと言っても無理かもしれないけど、くつろいでください。でもさ、英語でmake yourself at homeとか言いますよね、自分の家の様にってやつ。あれ俺たちにはハードル高すぎると思わない? あいつら人の家の冷蔵庫開けて飲み物とかお菓子とか本当にバンバン喰うでしょ、できる? 嶋津さん」
「いや厳しいですよね」
「でも今日は、make yourself at homeで」
 逢坂さんは笑いながらソファを勧めて、続けた。
「明日は早いのかな」
「昼過ぎに帰れば大丈夫です」
 逢坂さんは自分もソファに座り、少し間を置いて言った。
「もしよろしければ、少し飲みませんか」
 
 聡さんがスーツだとくつろげないでしょ、とTシャツとハーフパンツ、そしてグレーのトレーナーを貸してくれた。サイズはちょうどいい。彼は僕にシャツを渡す時に少しだけバランスを崩した。
 疲労と眠気がピークなはずなのに、この家に入ったらどこかへ消えてしまった。古いファブリックのソファは体が余計に沈まない程よい硬さを持っている。背もたれの角度も浅すぎず深すぎない。逢坂さんが聞く。
「ビールがいいですか、それともウイスキーにしますか。いいウイスキーがあるんですよ」
「そのいいウイスキー、頂きたいですね」
 逢坂さんは笑いながら、そんな感じで聞くとウイスキーになりますよねと言い、ローテーブルに瓶とグラスを並べた。聡さんが背もたれとひじ掛け、そして座面に手を添えながら時間を掛けてソファにゆっくりと丁寧に身を沈めた。その仕草は自分の体を赤ん坊のように大事に扱う様に思えたが、何かが違う。聡さんは逢坂さんに言った。
「僕ももらえる?」
「お前、大丈夫なのか?」
「すごく薄くしてよ」
「嶋津さんはロックとか水割りとか、どうしますか」
 僕はロックをお願いした。ウイスキーは五月の若々しい草いきれの様な香りがした。たぶんすごく高い。

「今日はずいぶんと調子が良さそうだけど、寝なくて大丈夫か?」
 逢坂さんが言う。逢坂さんはタクシーに乗っている時と少し違う。屈託がないものを一生懸命作っている。聡さんが答えた。
「うん、かなりいい。窓から見える夜の雰囲気がよくて、虫の声も良く聞こえるんだ。起きてないともったいない。こんな日は滅多にないからね」
 虫の声。少し耳を澄ましたが何も聞こえなかった。

「嶋津さんは何のお仕事をされているのですか?」
「聡、いきなりお仕事聞くのはどうなんだよ」
「あ、全然かまわないです。広告代理店にいます、といっても僕は広告を一切作らない経理ですけど」
「経理の仕事ってこんな夜遅くまでやるんですか」聡さんが聞く。
「9月決算なんですよ。期末は決算の対応でしょうがない。でもむかつくのが経費精算してない馬鹿社員がそのタイミングで山の様にテキトーな領収書持って来るんですよ。お一人様のキャバクラが何で経費で落ちるって思うんでしょうかね。あいつら一度地獄に落ちた方がいい」
 二人は小さく笑った。部屋の照明は期せずして静かなバーの様に落とされている。その薄暗い照明からでも分かるぐらい聡さんは痩せていた。話し方はゆっくりだ。光の加減か、シャツの色からか、彼の姿がおぼろに見える。
 
 聡さんは広告代理店の仕事に興味を持ったらしく、僕にいろいろ聞いてきた。広告の社員達は自分が世の中をわかった様な顔をしているが、自分の会社の経理の事さえ想像出来ないクソ馬鹿ばかりだと話す。
 そう言いながら僕は今日の夕方に来る彼女の裸を思い浮かべ、形のいい乳房やそれを揉みしだいた時の彼女の声を想像していた。
 
 逢坂さんは冷蔵庫からソーセージを出しフライパンでボイルして持ってきた。スーパーではあまり見かけないソーセージ。ケチャップと粒入りのマスタードが添えてある。さほど腹は減っていなかったが、噛んだ時に肉汁があふれバジルの爽やかな風味が広がる。

「二割ぐらいお湯が浸るようにしてボイルするんだ。お湯が無くなった後、そのまま軽く炒めるだけ。その辺のソーセージでも美味しくなる」
「どこのですか」
「北海道。学会が札幌だったんだ」
「どうせ馬鹿ばっかりだとか言うんでしょ」聡さんが言う。
「まあ、そうだった」

 ケチャップを多めにつけたソーセージをトレーナーに落とし、短パンまで転がしてしまった。慌てておしぼりで拭ったが染みが広く濃く残ってしまった。洗って返すと言ったが二人とも笑って取り合ってくれない。
「そんなよれよれの使い古し、着てもらうのも申し訳ないぐらいですから」    聡さんが言う。
  逢坂さんはウイスキーをストレートで飲む。三杯目だが様子が飲み始めと変わらない。会話はとりとめないものが続く。

「昔三人で北海道スキー行ったよね」聡さんが言う。
「そんなこともあったな。まだ母さんがいる時な。あ、妻は四年前に亡くなったんです」
 いつも思うのだが他人の家族が亡くなった話はどういう顔をすればよいのだろう。そう思いながら頭の中には今日来る彼女の白い肌や腰の美しいラインが浮かぶ。
「皆さんスキーはよくされるのですか」
「母さんが一番だったよね」
「そうだった。普段は石橋を叩いても渡らない人だったけどスキーになったらアグレッシブだったな、コブとか難なく滑るし」
 唾液で光る彼女の唇が僕の頭を巡り、浸食する。

「嶋津さんはスキーとかスノーボードとかされるのですか?」
「ボード、時々やります」
「どの辺りですか」
「新潟の越後湯沢が多いですね、雪質は長野にくらべればよくないんですがアクセスが良くて」
 しばらくスキーやスノーボードの話をしていた。
 
 トイレを借りるためにダイニングキッチンの傍を通る。テーブルの上にある薬のシートが目に入った。抗がん剤と強い鎮痛薬。五年前に叔父ががんで亡くなった。看取るための在宅看護に切り替えた時にその薬を使っていた。かなり特徴のある色だったので覚えていた。
 
 ウイスキーのおかわりをもらう。どこからか金木犀の匂いがする。さっきまで降っていた雨の匂いも残っている。空気が冷え、しんとしている。まるでこの世からほとんどの人がいなくなった様な静けさ。
 話はクラシックロックに変わった。意外にも二人はかなり骨太のロックを聞くらしく、僕は生まれて初めてドアーズやデビッドボウイ、ポリスなどの話を他人とした。そんな話をする人が周りに今までいなかった。
「一番かっこいい曲って何ですか」聡さんが言う。
「かっこいい、ですか?」
「なんだそれ」逢坂さんは笑う。
「ほら、ロックってそもそも初期衝動じゃないですか、赤ん坊が産まれた時にぎゃーって泣くでしょ、あれとおんなじですよ。あれかっこよくないですか」
「お前の言うことは分からないでもないが、そうなるとみんなデビュー曲になるんじゃないか?」
 グラスを口に運びながら逢坂さんは言う。
「いや、聞き手の気持ちだけでいいんだよ。単純にロックの原点的なかっこよさみたいの。自分にとって赤ん坊のようにぴちぴちのやつ」
「一番好きなのじゃなくて、かっこいい曲か」
「そうそう、バラードとかもありで」
 聡さんは穏やかな笑みを浮かべ、薄い水割りを口にしながら僕らを見る。

「かっこいい曲」を選ぶのは楽しい作業だった。僕と逢坂さんは自分のスマホのリストを眺める。聡さんはもう決まっている様だ。
 「これはなかなか難しいな」逢坂さんがつぶやく。
「父さんはその時々でハマるのが極端だからね。スティーリーダンからキッスまで」
 思わず吹き出してしまった。スティーリーダンは練りに練られたサウンド。一曲作るのに十人以上のギタリストを雇い、その中から一人、そしてその一小節だけを採用するような緻密さ。渋い大人のバンドだ。キッスは白塗りのメイクに奇抜な衣装、ステージには必ずと言ってもいいほど大きな炎があがる。両極端にもほどがある。
「大学でキッスの話しても誰も分かってくれないんだよ」逢坂さんが言う。
 結局、僕がビートルズの「デイトリッパー」、逢坂さんがデビッドボウイの「スターマン」、聡さんはヴェルヴェットアンダーグラウンドの「日曜の朝」をあげた。
 各々の曲についてお互いが感想を言う。僕があげたデイトリッパー。ジョージハリスンのギターリフの格好良さは二人とも頷いてくれた。逢坂さんのスターマン、聡さんは少し子どもっぽいと言う。
「おいおい、初期衝動の話だろ、いいじゃないか、かっこいいだろ、子ども達に夢を与えるいいギターだろ、ミックロンソンだぞ」
 逢坂さんが口をとがらす。
 聡さんがあげたヴェルヴェットアンダーグラウンド。六十年代のニューヨーク、同性愛やSMなどの当時の性におけるタブーなどを文学的に表現したバンド。そのヴェルヴェットの「日曜の朝」。
 その内容を聡さんの前で語るのは辛い。闇に引き込まれるような虚無感を日曜の朝に感じているという歌。
「落ちていく日曜の朝、知りたくもない感覚に襲われる」
「すぐ後ろには、無駄にした年月」。
 僕は歌詞には触れずに曲に使われているチェレスタという鍵盤楽器の話をした。そしてヴェルヴェットの他の曲の話をすることにした。
「ヴェルヴェットのバナナのジャケット書いたアンディーウォーホールって、このバンドに関してはむちゃくちゃ面倒なお節介野郎ですよね」
「そうそう、あのジャケット、ヴェルヴェットのアルバムなのにヴェルヴェットの名前ないんですよね、どこ探しても。アンディーウォーホールの名前しかない。成功したおっさんが若いやつをかき回す一番良くないパターンかもしれない、お父さん大丈夫?」
 逢坂さんは「俺がそんな訳ないだろ、俺は若い研究者に好かれているんだ、アンディーウォーホールと一緒にすんな」と言う。
 たぶんそうなのだろう。

「ヴェルヴェッドのロックンロールって曲、後年ルーリードがソロでいいライブしてますよ、イタリアで」僕が言う。
「イタリア? そうなんですか、どんな感じですか」
 聡さんは興味深く聞いてくれる。
「ハゲで地味なロバートクワインってギタリストとの掛け合いがむちゃくちゃかっこいいです」
 そんな会話の中でも彼女の滑らかな身体の感覚が僕にあふれていく。彼女の白く透き通るうなじ、柔らかい耳朶。


 部屋の様子が気になる。家に着いた時から気になっていた。乱雑過ぎる。酔いが回った振りで言う。
「すみません、唐突で申し訳ないんですが、僕、酔っ払うと掃除したくなるんですよ。さっきから我慢してるんですけど、掃除しちゃっていいですか」
 二人ともあっけにとられている。
「それっていつものなの」逢坂さんが聞く。
「そうなんですよ、だから大掃除の時は飲みます」
 これは本当だ。僕は続けた。
「初めて来た人様のおうちをいきなり掃除するなんて、本当に失礼で自分で無茶苦茶だと思うんですが」
 逢坂さんは大笑いしながら言う。
「こっちが申し訳ないけど、なんなら是非お願いしたい」
 聡さんも笑いながら言う。
「古今東西こんな話は聞いたことないな」

 キッチンから攻める。シンクに溜まった食器を洗い、ゴミをまとめ、流しをクリームクレンザーを使い磨く。壁には何種類ものフライパンが掛かっている。長い間使われていなかったようで埃が溜まっているので払い、乾拭きする。ダイニングテーブルの上にある明らかにゴミとわかるものを捨てる。乱雑に放置してある書類などをまとめる。最初に住居用の洗剤、次に水で濡らして固く絞った雑巾で拭く。深夜にやるのは躊躇したが断って掃除機をかけ、フローリングシートで床を拭く。もうすぐここから旅立ってしまう、年が近い男を汚れて乱雑な場所に居させる事は出来ない。少しでも清潔で整った場所にいて欲しい。酔いも手伝ってそんな気持ちが強く僕の中で膨らんだ。

 二人にダイニングテーブルに移動してもらう。リビングにもある小さなゴミ袋を大きなものに一つにまとめる。本棚の埃を拭う。本の系統がまるでない。「アンナ・カレーニナ」の横に「三毛猫ホームズ」があり、その隣には「老人と海」。本自体も何とかしたかったが流石に時間がない。埃にまみれたまま置かれる「銀河鉄道の夜」。
 
 ファブリックのソファ、中性洗剤をわずかにしみこませた布でさっと拭く。床はリビングと同じように素早く掃除機をかける。ワックスが含まれているシートがあったのでそれで床を拭く。ここまで三十分でこなした。たぶん過去最速だ。そして決して雑ではないはずだ。

「いや、驚いたな。この短い時間でここまでやるとは。そんな仕事をしてたのかな」逢坂さんが言う。
「学生の頃、ハウスクリーニングのバイトをしていたんです。酒飲むとやりたくなるんですよ」
「この深夜に半径百キロの民家でここまで掃除してるの嶋津さんだけですよ」聡さんが言う。
「半径千キロならもう一人ぐらい、居そうですよね」
 僕は答えた。

  三人でソファに座り飲み直す。聡さんの声が小さくかすれ気味なので隣に座ることにした。逢坂さんが別のウイスキーをロックでくれた。今まで飲んだウイスキーのなかでぶっちぎりに旨い。十何年もの二十何年ものとかいうやつなのだろう。深い森に入り込んだ様な香り。聡さんはグラスに口をつけるだけだが楽しそうに僕らの話を聞く。聡さんは広告代理店の社員に興味を持った。
「広告代理店の人って、むちゃくちゃ働くんですよね」
「最近はそんな事ないですよ。酷い事が色々ありましたし、世の中の流れもありますし。今馬鹿みたいに働いているのは広告系ではなくスタートアップの人たちですよ。僕の知人は一年近く休んでないですね」
「それだけ働くモチベーションがあるって凄いですよね」
「何かになりたいんでしょうかね」
 僕はこの取り残されたようなひっそりとした空間で、生々しい自意識を持った連中の話をあまりする気分にはならなかった。
「その何かとか何者かになるとかよくわからないんですよね」僕は言った。
「嶋津さんはこのまま今の会社にいるんですか?」
 逢坂さんはソファに深く腰掛け、スーツのまま僕らを見ている。ネクタイも緩めていない。
「特にやりたいこともないんですよね。もしスタートアップやる奴がいて、経理業務で誘われたら行くのもいいかもしれないけど、スタートアップ企業で経理部門が立ちあがるのは規模がそれなりになってからなんですよ。だからゼロからの立ち上げっていう面白さは味わえないかもですね。お金が動いてこその経理なんで」
「何だかんだで嶋津さんは何かやりたいんですね」
 聡さんがいたずらっぽく言う。もしかしたらそうなのかもしれない。聡さんの言葉からそんなことを考えている最中にも、彼女の舌が僕の身体を満たしていく。

「ボブディランっているじゃないですか」
 唐突に聡さんが言った。逢坂さんは何かつまみを探しにキッチンにいる。
「あのぐしゃぐしゃしたしわがれ声、あの声聞いていると何か全部どうでもいいって思うんですよ。はいどうぞ、全部過ぎましたよ、終わりましたよ、特に何も残っていませんって」
 薄汚れた窓から月が見える。窓を掃除すればよかった。そうすれば明るく美しい月が見える。聡さんが続ける。
「諦めるって事と違うと思うんだけど、だからどうなんだと。でもそんなこと言うと父はどう受け取るのかなって」
 遠くから誰かのクラクションが聞こえた。
「初めて会う方に何でこんな話しているのか分からないんですけど。嶋津さん、昔の知り合いに似ているからかな」
 逢坂さんはキッチンから戻らない。ボブディランの声を思い出せないが何となく相槌を打つ。相槌を打ちながら僕の中で勝手にボブディランの声を作ろうとしたが、彼女の艶のある声が浮かんできた。

「小学校のときとかに、防災訓練ってありましたよね」聡さんが続ける。「ありましたね」
「机の下に潜りませんでしたか?」
「ええ」
「一度潜ったまま出て行かなかった時があるんですよ、小学校二年生ぐらいかな。訓練が終わってみんな机の下からさっさと出て動いているんです。僕はみんなの足だけ見えるんです。それ、ものすごく速いんですよ。僕の机の横をびゅんびゅん動く。普段そんなところいないからわからないですよね。自分は止まっているのに周りは何かのために物凄い速さで動く。防災訓練って静かにしなきゃいけないですよね。その反動でみんなうるさいんですよ。それが机の下にいると何を言っているのかわからない。誰が話しているのか、誰に話しているのか。なんとなくわかる子もいるんですけどたくさん飛び交っているから結局わからない。机の外ではものすごい勢いで色んな事が動いているんだけど僕は机の下なんです。そして教室の中にいるのに机の下に潜っているだけなのに、誰も僕に気が付かないんですよ」
「その後、どうしたんですか」
「もう忘れてしまいました」
 聡さんは窓の外を見た。秋の夜の静寂が僕らを包んだ。ここは時間が止まっているようで、もの凄い勢いで流れている。その流れは誰にでも平等なはずだけど、ここではそう思えない。行き着くところは同じだとしても。

  逢坂さんが戻って来た。
「聡、三時過ぎてるけど大丈夫か?」
「うん、大丈夫。しんどくなったらちゃんと休むから」
 逢坂さんが何か言っている。話を聞いていなかった。午後に来る彼女のブラのホックを外していた最中だった。僕はいつも最初には外さない。
「すみません、ぼうっとしてました」
「奥にベッドがあるけど、使う? 眠くない?」
 逢坂さんは笑いながら言う。
「大丈夫です、眠くはないんですけど」
「コーヒー、淹れようか」聡さんが言う。
「この時間でコーヒーって、嶋津さんのこと寝かせないつもりか」
 逢坂さんは聡さんを見ながら言う。
「寝かせない」
 聡さんはいたずらっぽく僕を見ながらソファを立ち、キッチンでお湯を沸かした。

 逢坂さんはソファに深く身を沈め、しばらく目を閉じた。そして言う。
「嶋津さん、今日、僕はすごくあなたに感謝しているんですよ」
「いや、こちらが押し掛けてしまって」
  逢坂さんはそれには答えず続けた。
「昔からあまり友達が多い方ではなくて、おまけにこの歳で余命とかいう言葉が彼の周りにまとわりついてしまって。来る人も少なくて。いきなりこんな状況に嶋津さんを巻き込んで、申し訳ないです」
「そんなことはないです、楽しいですよ。昔のロックの話なんて僕の周りでしてくれる人いませんから。唐突に掃除始めたのは自分でもどうかと思いますが」
 逢坂さんは少し笑った。
「あれは驚いたよ。私があまり家に居ることが出来なくて、ヘルパーさんも来てたけど聡があんまりいい顔しないのですよ。二か月以上お願いしていなかった」
 
 キッチンからコーヒーのよい香りがする。その香りは重厚感がある。聡さんはスツールに腰掛けてドリップしている。逢坂さんが続けた。
「お願いがあるのですが」 
「何でしょうか」
「よろしかったら、またここに来て頂けないでしょうか」
「もちろんです」
 逢坂さんの気持ちを考えると受けない訳にはいかない。掃除もしたい。

 聡さんがポットと大き目のマグカップを持って戻って来た。僕の隣に座った。コーヒーは力強く奥が深い。ここ最近で飲んだものの中で一番おいしい。しかしさすがに深夜三時を過ぎるとコーヒーを飲んだところで疲労とウイスキーが連れて来る眠気には勝てない。一瞬だけ目を閉じたところで僕は寝てしまった。
 
 朝日が部屋に差し込み目を覚ました。僕に聡さんが寄り掛かり寝ている。聡さんの掌は僕の掌に重ねられている。その体温は随分低く感じられ、それは彼の奥から絞り出されている気がした。
 逢坂さんは向かいのソファで寝ている。しばらくして聡さんは僕の手をわずかに力を込めて握り、誰かの名前をつぶやいた。その名前には君が付いていた。
 動くと聡さんが目を覚ましてしまうので、同じ姿勢でいる事にした。かなりきつい姿勢だが、慣れるとさほどつらさは感じなくなった。明るくなったリビングを眺めると三人家族だった頃の名残が漂っている。リビングの隣にはちょっとした物置がある。天窓から日が差し半分開いたドアから中が見える。家族用のキャンプ道具がある。少し前の型の様だ。その奥にはスキーが三セット壁に立てかけられている。キャンプ道具と同じ様に少し古いデザイン。リビングの壁に目を移す。家族三人の写真がいくつかある。その写真達はこの古い家と同じ様に朽ちようとしていた。

 姿勢を崩さない様にローテーブルにある聡さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。その香りは冷めても手に取るように力強く、香ばしい。正面の本棚を改めてみると、一番下の段に料理の本が並んでいる。どれも何年も読まれていないようだ。
 逢坂さんと聡さんがあげた、デビッドボウイの「スターマン」とヴェルヴェットアンダーグラウンドの「日曜の朝」。これからこの二曲を聞くと何を感じるのだろうか。それとも忘れてしまうのだろうか。

 もうすぐ彼女が地元の駅から新幹線に乗る時刻だ。

 
 いつの間にかまた眠りに落ちていた。逢坂さんが立てた音で目を覚ます。聡さんは僕から少し体をずらしそのまま眠っていた。フランネルのシャツが少しはだけている。慎重に背中に手を廻し、抱き着くような姿勢でシャツを整えた。壁に掛かる時計を見ると八時少し前だった。スーツに着替え帰ることにした。僕はケチャップの染みが付いたトレーナーやハーフパンツを自分のバッグに入れる。
「すみません、洗ってお返ししますね」
 僕は逢坂さんに言った。
「そんなの気にしなくていいよ」
「結構な染みなんで」
「じゃあ、返しに来てください。またウイスキーとか用意しておきますので」
 僕はいつでも呼んでくださいと連絡先をスマホで交換した。部屋を出る時に振り返ると逢坂さんは僕に軽く手を上げた。聡さんはさっきと同じ姿勢で目を閉じていた。
 

 家を出ると秋にしてはきつい日差しが目に刺さった。僕は彼女の腰のくびれを思い浮かべた。早く家に帰り、掃除をしなければならない。

 

 夕方に彼女が部屋に来た。僕は彼女を激しく求め、そしてそれは収まることがなかった。彼女の肌は滑らかで、しっかり力を入れないと何処かにすり抜けてしまいそうだ。彼女を抱え込むように抱きしめた。自分の時間の流れを喰い止め、輪郭を元に戻しているような気がした。

 
 逢坂さんからはそれ以来連絡は来ていない。預かったトレーナーとハーフパンツを洗ったが、ケチャップの染みは落ちなかった。

 

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