波よせる場所
海へ向かう道を車で走らせる。窓を開ける。7月終わりの晴れた午後。乾いた風が髪を揺らす。フィアット500というこの車は可愛らしい姿だけど気持ちよい走りをする。
パパに買ってもらった。お父さんではないパパに。
街から郊外、田園地帯を抜ける。助手席には叔母さんの為に選んだシングルモルトとウイスキーグラスの包み、そして紅花を中心とした花束が座る。海に近付くと潮の香りが強くなる。叔母さんに会うのは五年振りぐらいだ。
裕子さん。
海岸に近い林の中にお父さんの姉である裕子さんの家がある。
私は中学校三年の初夏から四か月ほど、裕子さんの家にいた。
裕子さんは一人で一軒家に住んでいる。古めかしい、相当のボロい見た目なので近所の子ども達からはお化け屋敷とか言われていた。
*
中学三年、七月の上旬。お父さんに連れられて初めてその家に入った。
林の中の古い一軒家。夜十時。家の主はいなかった。裕子さんと言う人とは会ったことがない。道中の車の中でお父さんからはしばらくここで暮らしてほしいと言われた。お母さんが少し大変だからと。
この家は土足で入る様だ。お父さんは照明のスイッチの場所がわからず、部屋は暗いまま。月明かりを頼りにするしかない。大きなリビングとキッチンらしいけど全体が分からない。ソファがある。多分テレビはない。外にいる犬が二、三回吠えて、止んだ。
お父さんが言う。
「裕子さんが今日はいない、まだ真樹の部屋の用意ができていないはずだからこのソファで寝なさい」
「ちょっと待ってよ、誰もいないこんなところに何でいなきゃならないの、怖いよ」
「大丈夫だから。俺の姉さんだから大丈夫」
「そんなの関係ないよ」
呆然とする私を置いてお父さんは仕事があるからとそそくさと出て行ってしまった。お風呂も入れず、暗いリビング、目の前にあったソファで学校の制服まま寝るしかない。知らない家、聞きなれない大きな波の音。今まで鬱陶しい事しかなかった自分の家に心から戻りたいと願った。
夜が明けるにつれ、部屋の様子がわかる。
四人ほどが座れる革のソファ、もう一つ三人ぐらいの布のソファ。小さな薪ストーブ、壁一面の本棚、磨き上げられた焦げ茶色の床、至る所につるされたドライフラワー、レコードプレーヤーもある古そうなオーディオセット、キッチンには七~八人ぐらい席に着ける大きなダイニングテーブル、そのキッチンの壁に吊るされたフライパンや鍋などの調理道具。いろいろごちゃごちゃしている。
「あんたが真樹か」
後ろから声を掛けられる。振り向くと白髪が混じった髪、背が高く痩せた姿勢が良い体。薄い青に小花柄、少しやれたワンピースの女性がいた。多分裕子さん。足元には白と黒のボーダーコリーがうろうろしている。煙草を咥えて裕子さんが言う。
「今日は学校か?」
「いや、今日は土曜日なのでお休みです」
煙草の煙を吹きながら言う。
「そうか、あんたの部屋は二階の左側だから」
裕子さんはキッチンへ行き、大ぶりのグラスにウイスキーを1/3ほど注ぎ、ダイニングテーブルの椅子に座り飲み始めた。しばらくその姿を見つめていた。
「あんた、自分の部屋、いいんか?」
いいんか?と言われたのでその部屋を見に行く。
その部屋は埃が積もり、蜘蛛の巣が縦横無尽にある。部屋を間違えたと思い二階から降りて、部屋どこですかと裕子さんに聞く。
「だから、二階の左だ」
「凄く汚いですけど」
「掃除すればいいじゃないか」
「掃除って、出来ません」
「じゃあ、そのまま使えばいい」
もう一度部屋を見に行く。埃が積もった床、埃が積もったデスク、埃が積もったマットレスのないベッド。どうすればいいのか。
泣きそうになりながらキッチンに降りる。
「あんな部屋じゃ、住めません。帰ります」
「それはそれでいいが、あんたの家、今大変らしいぞ、やめておけ」
裕子さんはウイスキーを飲みながら煙草を吸い、眼鏡を掛けて分厚い本を広げている。
掃除するしかないようだ。仕方がないので掃除道具の場所を聞く。大きな箒、ちりとり、雑巾、バケツ。
「ああ、学校の制服は汚れてしまうと良くないな」
裕子さんは何かが入った紙袋を持って来た。カーキ色のチノパン、紺の分厚いTシャツ、白いコンバース、ローカットのオールスター。みんな使い古されているがサイズはちょうどいい。そして帽子。青いベースボールキャップ。大きくBそして星のマーク。かっこ悪い。「何ですかこの帽子」
「知らんのか?横浜ベイスターズ」
白黒のボーダーコリーが私を見上げている。こいつ、なんだかにやにやしている気がする。
二階の廊下はリビングと同じ様に磨き上げられている。私が使う部屋、そこだけ時間が止まったかのような別世界。埃が層になっている。靴を汚すのが嫌なので入口から床を箒で掃く。天井や壁の蜘蛛の巣を払う。箒をぶんぶん振り回したせいで目の前が見えないほど埃が舞い上がってしまった。何とか窓まで辿り着き開ける。凄い勢いで埃が外に飛ぶ。
床から掃除すると、天井や床を掃除した時に埃が落ちてまた掃かなければならないことに気が付く。天井の蜘蛛の巣と壁の埃を払い、床を掃く。壁と机の拭き掃除を始める。机の埃が床に落ち、結局床の掃き掃除をしなければならなくなった。
「なにこれ!」
マスクをあごに引っ掛けたままなのを忘れて大きな声を出した。埃が喉に入り無茶苦茶な咳をする。
箒を持って2階から階段を駆け降り、庭の地面に箒を叩きつけた。
全身で息をしていたら、裕子さんがその横を通り抜け塗装がところどころ禿げ、色褪せた青い軽トラでドコドコと出て行ってしまった。ボーダーコリーが走り、勢いよく荷台に飛び乗る。荷台から舌を出して私を見ている。
キッチンの電話でお父さんの携帯に電話を掛ける。初めて触るまさかの黒電話。でも掛け方は何となく知っている。古い映画で時々出て来る。私がそれを使うとは夢にも思わなかったけど。
ジーコジーコ。
「あ、真樹か。色々急ですまんな。荷物はまとめて送るから。お母さんも俺も大丈夫だから安心しろ」
「そうじゃなくて、ここで暮らさなきゃいけないの?なんで?」
と、言いかけたら電話が切れた。受話器を叩きつける。お母さんの携帯に掛けるが、現在使われておりません。
庭に出て、目の前にあった家の柱に箒をフルスイングする。家が揺れ、白いペンキのはがれかけたものがたくさん落ちてくる。家の揺れが止まらない。慌てて柱にしがみついて揺れを止めようとする。
ぎしぎし。
なんだか関係ないものを痛み付けた気がする。悪かった。でもさっきの黒電話の受話器を叩きつけたのは映画のようで楽しい。
紺のTシャツは汗でにじんでいる。キッチンで水を飲む。海沿いの街は水がまずいと聞いたけど、山の麓で飲む水の様に美味しかった。グラスは青いデュラレックス。梅雨の合間の空の様な淡い青。水を三杯ほど飲んで髪を一つに縛る。二階に行き掃除の続きをする。
さっきは気がつかなかったけど、簡素だけしっかりとした机と椅子だ。小さな棚には本が詰まっている。その本の埃も払う。本の埃を払うと埃が床に落ちて、結局床の掃除をする羽目になった。学習しないのは今に始まった事ではないので仕方ない。
本の間にノートが一冊挟まっている。他人のノートを断りもなく覗くのはどうかと思ったけど見る。多分世界史のノート。女の子の筆跡だと思うけどかなり力強い。世界史以外には落書きなどは書かれていない。自分の趣味の悪さに少し引きながら本棚に返す。
ベッドも枠を水拭きをし、試しに乾いた雑巾で磨くと見違えるようになった。薄いベージュの壁も乾いた雑巾で磨く。上は手が届かない。一階のリビングの横に倉庫らしき物があるのでそこから脚立を持ってきた。脚立の立て方がわからないけど何となく立てて登る。二段目で私の方に脚立が倒れ床に身体がごろごろ転がる。痛い。めちゃめちゃ痛い。
ベイスターズの帽子を被りなおして脚立を固定する金具らしきものを見つけ留めた。
*
十一時頃時頃、裕子さんと犬が青くてボロい軽トラで帰って来た。
「部屋の掃除は終わったかい」
「ええ、まあ」
「そうか。朝飯食べてないから朝ごはんにする。昼ごはんか、何て言うんだ、それ」
「ブランチ」
「それだ、ブランチ」
少し大きな紙袋の包みを抱えキッチンに入る。犬と私もついていく。裕子さんはコーヒーを淹れた後、包丁で手際よくトマトときゅうりを切り、ハムとチーズの形を揃える。切り終わったら具材の水気をふきんで丁寧に除き、パンにたっぷりとバターとマヨネーズを塗る全ての具材を丁寧に重ね、包丁でゆっくりと切った。
「パンの耳は切らないの?」
裕子さんは私の顔をしばらく見て言う。
「パンの耳もパン。旨いぞ」
優しく丁寧に作られたサンドイッチ。
「ブラックのコーヒーは飲めるのか?」
「はい」
飲めないのに、はい、と言った。黒くて苦いなんて口にするものではないと思っていた。飲める事にしておく。裕子さんがキッチンテーブルを拭き、サンドイッチとコーヒーを並べた。パンはふわりとしたままで、中の具材の水分が漏れ出していない。トマトもきゅうりも新鮮な香りがする。恐る恐るコーヒーを飲む。琥珀色のコーヒーは苦くなかった。
食べ終わって外を眺めていた。
「真樹、なんか言わんのか」
「え、何をですか」
裕子さんはしばらく私を見つめていた。煙草に火をつけて言う。
「サンドイッチとコーヒーはうまかったのか、まずかったのか」
「あ、美味しかったです」
「美味しいならそれを言いなさい。それから真樹は何も手伝わなかった」
「それは、手伝えと言われなかったから」
「言われなかったら真樹はなんもやらんのか」
そんな事言われるとは。まあ、言われないとやらないかもしれない。謝った方が良いのだろうか。とりあえずここを乗り切るには謝った方が良いのかもしれない。
「ごめんなさい」
裕子さんは煙草の煙を横に吹き出して言った。
「明日から朝ごはんは真樹が用意しなさい。七時までに。必要なものがあれば前日の夕方までに言う事。買い物は私がする」
「朝食なんか作った事ありません」
「誰だって最初は初めてだ」
「明日は学校があるんで」
「私も明日は仕事がある」
言い返す言葉が見つからない。
「わ か り ま し た」
ソファでだらんとしていたアイツが顔を上げ、私を見る。でかいあくびをした。犬にまで馬鹿にされた。なんでこの家に居なきゃならないのだろう。
*
中古住宅、一戸建ての家、四人家族。それが私の家族。見た目どこにでもいる家族。お兄ちゃんがいうには家は十五年ローン。お父さんは貿易とそれに関する法律を扱う事務所にいる。お母さんとはそこで知り合った。お父さんは国立の法学部、お母さんは英語教育で有名な私立大。お母さんはそこの大学のミスコンで優勝したらしい。お兄ちゃんが生まれ、私を妊娠した時にお母さんは仕事を辞めた。
たくさんお出かけをする家族だった。
夏はキャンプ、冬はスキー。一度夏のキャンプで標高の高い所にいったらとても寒く、テントの中みんなで寝袋を寄せ合った。私とお兄ちゃんが真ん中で端にお父さんとお母さん。四人がくっつくと少しだけ暖かくなった。
お父さんもお母さんもスキーが上手。お兄ちゃんは飛ばすだけのスキー。お兄ちゃんは一度転んで肩を脱臼した。お兄ちゃんはものすごく泣いた。
いつもいじられていた私は少しだけざまあみろと思ったけど、あまりに痛そうだったので自分がそんな事を考えた事が恥ずかしくなった。だから宿に帰って、お兄ちゃんやお兄ちゃんにつきっきりのお父さんの道具をしまったり、ありとあらゆる事をした。
宿に外科の先生がいて、お兄ちゃんの肩はあっという間に元の位置になり痛みが治まった。肩を固定されているけど痛みがないお兄ちゃんは私をこき使う。一瞬でも同情したことをとんでもなく後悔した。
それでもお父さんとお母さんは私をよく見てくれていて、組曲やらANNA SUIの服を買ってくれたので良しとした。お兄ちゃん、もう一回ぐらい怪我しないかなと思ったのは内緒にしておいた。
その頃お母さんは家で仕事を始めた。お母さんは仕事を辞めてもその貿易、法律、翻訳が絡む専門スキルがあるから何時でも戻れると考えた。
お母さんの様子が変わった気がした。少し怒りっぽくなった。夜遅くまで仕事をしていた。
お父さんも仕事が忙しくなり、帰ってくるのが深夜過ぎになった。夕食はお母さんがあらかじめ作ったものがダイニングテーブルにある。それをテレビを見ながら食べるようになった。
お母さんは家にいるのだが、忙しいからと言い夕食時も部屋から出てこない。食事も日によってコンビニなどの弁当が出る。お兄ちゃんは野球の練習で勝手な時間に帰ってきて、お母さんからもらったお金で外で食べてきた。みんな家にいる時間はあるのに、お話をする時間がどんどんと減っていく。お父さんとお母さんが喧嘩をすることは少しずつ多くなった。
近所の幼馴染に水野君という男の子がいた。学校に行くのも放課後遊びに行くのも一緒だ。サッカーなど男の子しかいない遊びにも周りの男の子を説得して水野君が混ぜてくれた。水野君は私の話をちゃんと聞いてくれた。一生懸命に聞いてくれた。
おうちにも遊びに行った。水野君のお父さんやお母さんは私を夕食にたくさん誘ってくれた。水野君のおうちは私の家とは違い、ずいぶん古くて狭くて散らかっている。物があふれている。本などがいろいろな所に積みあがっている。でも汚い感じはない。そのおうちが大好きだった。あの頃、うちの両親といる時間より水野君のお父さんやお母さんと顔を合わせていた時間の方が長かった。
小五の時、水野君と自転車で隣の市に出来た大きなショッピングモールまで出かけた。私が行こうと言った。随分時間をかけてショッピングモールにたどり着いた。
フードコートでジュースとたこ焼きとアイスを食べていたら気が付いた。これは、デートかもしれない。なんでよりによってテニスで使うヨレヨレのアディダスのTシャツとヨレヨレのショートパンツ。水野君はピシッとしたネイビーのポロシャツにカーキ色のショートパンツ。
急に水野君の顔を見ることができなくなる。
「真樹ちゃん、アイス溶けちゃうよ?」
私の顔を覗き込む水野君。いまさら気が付いたけど、水野君結構かっこいい。しょうがないからアイスをガツガツ食べる。
アパレルショップのポスターに水野君と同じようなネイビーのポロシャツの男の子。襟を立てている。
少し煽る。
「ほら、襟ぐらい立てないとだめなんじゃないの」
水野君はポロシャツの襟を立てた。やばい。想定外。かっこいい。
帰り道、少しだけ遠回りになるけど、行きと違う道にしようと水野君が言う。川の土手沿いを行った。淡くて濃い夕焼けが全てを包んだ。空も川も土手も水野君も私も茜色に染まった。自転車を手で押して色んな話をした。学校の事、担任の先生がなんかむかつくこと、友達のこと、家のこと。
「真樹ちゃん、最近おうちのみんなでキャンプとか行かないの?」
「うん。お父さんもお母さんも忙しいみたい」
「そうなんだ。今度、うちで海行くけど行かない?お父さんの知り合いが海の家やってるんだよ」
「あ、楽しそう。行きたいな」と答えつつそれは海水浴で海水浴となれば水着なわけで。うろたえる。でも水野君はそんなことに気が付かずに言う。
「真樹ちゃんくると楽しいな。うちのお父さんもお母さんも喜ぶよ。僕一人っ子で女の子いないから真樹ちゃんいるとお母さん楽しいんだって」
いや、それには水着というハードルがあるわけで。
「あ、でも私水着持っていないから行けないかな」
「それじゃ、今度僕とうちのお母さん三人で買いに行こう!」
外堀も内堀も埋められた。埋められて本当に嬉しい。
しばらくして私の自転車がパンクした。水野君が私の自転車を代わって押してくれた。歩いても歩いても見知らぬ景色。土手から降りて街中を歩くけど全然知らない街。水野君は何回も「遠回りしてごめん」と言う。日が沈む。気が付いたら辺りは暗かった。泣いて自転車を押す。水野くんは本当に悪そうに私に謝った。水野君が謝れば謝るほど、涙があふれた。
最近こんなにたくさん話しかけてくれた事がない。こんなに私のことを考えてくれた人はいなかった。
知らない街の暗闇がいとおしくてしょうがなかった。
小六の頃、うちが道路拡張による立ち退きにあった。徒歩二十分ほど離れた学区内に新築の家を建てることができた。水野君の家とは離れてしまったけど、学区は同じだ。中学の今、水野君は同じクラスだけど、幼馴染というのはなんか気恥ずかしくてあまりしゃべれない。
お母さんの具合が良くない。怒りっぽい。近所の仲がいい人たちと離れてしまったのが駄目だったみたい。近いのだから遊びに行けばいいのにと思うけど、道路拡張で家を建てたのが妬まれている、とお兄ちゃんは言う。
水野君に軽く話をすると「暇な人ほどつまんない事を考えるんだよね」と言う。
*
犬が吠える。玄関のドアが開き、誰かが言う。
「配送の者です。すみません、さっきからブザー鳴らしているんですが」
裕子さんが答える。
「ああ、ブザーなんか随分前から壊れているんだ。なに?」
「マットレスとその他一式です」
「重くて申し訳ないけど2階に上げてくれ、真樹、案内して。全部あんたの父さんからだ」私の部屋に上げてもらう。犬も階段を駆け上がる。マットレスの梱包を解いてもらう。 配送の人たちは玄関で帽子をとり一礼し帰って行った。
「終わったみたいです」
裕子さんはキッチンテーブルでウイスキーを飲んでいる。
「そうか。配達の人に礼を言ったのか」
「いや、言っていない」
「お礼は大事だ」
「でもあの人達はお金を貰ってやっているんですよね」
「お金とか関係あるんかな。この家にいる限り何かしてもらったら礼を言いなさい」
私はそのまま立っていた。裕子さんはまたウイスキーを飲み始めた。
「あの部屋は終わったのか」
「だから、終わったみたいです」
「それは良かったじゃないか。部屋が出来たんだね」
「いや、そうじゃなくて、配送が終わったみたいです」
「真樹、あんたの部屋だ。自分で何とかしなさい」
犬は私を見て舌をぶらぶらさせた。
納得いかないまま布団などの梱包を解いた。一緒に送られた自分の服など荷物を整理し部屋にしまった。
部屋の棚にある本を見てみる。かなり古い。三十年ぐらい前だろうか。赤川次郎、林真理子など知らない作家が並んでいる。柴門ふみは聞いた事がある。よしもとばななと村上龍は何冊か持っている。さらに古い本が並ぶ。太宰治、三島由紀夫、芥川龍之介。武者小路実篤。
そうだ、wifiがない。今までスマートフォンがない事に気がつかなかった。クラスの友達にlineしなければ。
「スマートフォン、返してください」裕子さんに聞いてみる。
「なんだそれ、私は知らんよ」
頭に来て、お父さんに黒電話で電話する。ジーコジーコ。
「お父さん!私のスマホは!」
「あ、真樹か、また後で電話するわ、しばらくスマホなしで頼むわ」
「何それ!」と言っている間に電話は切れた。
スマホなしで学校に行けない。
*
夕飯などの買出しに行くと裕子さんが言う。ぼろぼろの軽トラだ。知らない家に連れてこられて、その家はとんでもなくボロい。とんでもなく不愛想で酒ばっかり飲んでいるババア。朝食作れとか言う。荷台に乗っている犬まで私を馬鹿にする。とんでもなく汚かった私の部屋。これは私が綺麗にしてやった。
「海、見てみな」
ババアじゃない、裕子さんが言う。
「は?」
「海だよ、海」
気が付くと軽トラは海沿いを走っている。キッチンにあったデュラレックスのグラスの様な何処までも透き通った青空。水平線に白く光る入道雲が一列に並んでいる。濃い青の海がそれを受け止めている。
軽トラの窓から乾いた潮風が舞う。
「梅雨が明けたんだな」
気持ちいい。知らないうちに小さな声でつぶやいていた。
「そうだろ。夏は皆に来る」
小さなスーパーで買い物をする。
駐車場に軽トラを停める。裕子さんが知り合いらしい年配の男性と話を始める。
「お、また可愛い子だな、いくつな?」私に聞く。
「十五」
「十五か、中学生か」
頷いておいた。めんどくさいから私だけ店に向かう。後から裕子さんが店の中で言う。
「人が話しかけているのに勝手に行くな」
「何で知らない人と話さなければならないんですか」
「私の知り合いだ」
「私の知り合いじゃありません」
「そうか。だがな、あの人は私の大事な知り合いだ。その人に雑な態度はやめろ」
何で知らないジジイに。
「それから、あの人はあんたの事、可愛いと言うたぞ」
確かに。そこは気分が良かった。昔からたくさん言われているけど。
店内を廻る。「明日の朝食は決めたのか?」
「はい、何となく。アメリカンブレックファーストです」
良くホテルで出るやつ。簡単に決まっている。パン、卵、ベーコン、冷凍のハッシュドポテト、ヨーグルト、シリアル、オレンジなんか買う。裕子さんは首を少し傾げながらレジでお金を払っていた。帰りがけ、さっきのジジイ、じゃなくておじさんがまた話しかけてきた。「裕子ちゃんも、可愛い女の子連れていると楽しいだろ」
「まあな」
会釈なんかしてみる。
家に帰ると裕子さんが冷蔵庫に食材を詰め込んでた。
「あ、レディボーデン」思わず声に出た。
レディーボーデンと幼馴染の水野君のおうちはセットだ。水野君のおうちの冷蔵庫には必ずレディーボーデンがあってよく二人でジブリの映画を見ながらそれを食べた。
「え、あ、そのレディーボーデン、それくらはい」
興奮して、くださいがちゃんと言えなかった。裕子さんは仏頂面だけど私にレディボーデンをくれた。ソファでがつがつ食べる。裕子さんも隣で食べる。美味しくてたまらない。そして多分そんな顔をしていたんだろう。裕子さんが言う。「もう一個食べて良いぞ。家にあるものは勝手に使って勝手に食え」遠慮なくもう一つ食べる。
気が付いた。この家にはエアコンというものがない。でも涼しくて過ごしやすい。
「エアコンないのに何で涼しいんですか」
「遠くから続く裏の森が涼しい風を運んでくる。海の湿り気は林が止めてくれる。冬は南からの暖流が良いことする。見えないものがたくさん良い事をしてくれる」
裕子さんは小さな星がたくさんついている箱から煙草を取り出す。
「見えるものが全てじゃないからな」
「どういう事?」
裕子さんは少し考え、何も言わず、寄ってきた犬の頭を撫でてキッチンに行ってしまった。
*
私のおじいちゃんが隣の市に一人で住んでいた。お母さんのお父さん。おばあちゃんは随分前に亡くなった。おじいちゃんは大きな声で怒鳴るから私はあまり好きではなかった。そのおじいちゃんが転んで脚の骨を折った。入院中はお母さんが時々病院に行くぐらいだったけど、退院してから大変になった。家にいるしかないおじいちゃんの介護をお母さんがすることになった。最初は私も手伝いに行った。
おじいちゃんはお母さんが作ったご飯を食べない。
好きな時間に好きな物を適当に食べていたから、お母さんのご飯が気に入らない。今まで勝手に食べていた時間帯とも合わない。お母さんはしっかりした食事を作った。おじいちゃんは今までカップラーメンやコンビニのお弁当を食べていた。
二人ともいらいらする。大きな声で二人がやりあう。私はその場にはいたくなかった。最初はお父さんもお兄ちゃんも私も、お母さんに手伝うと言った。お母さんは硬くに拒んだ。
私のお父だから私が面倒を見るのが当たり前だと。
一日に何回もおじいちゃんから電話が来る。お母さんが行くと、ティッシュを取ってくれなど些細な事ばかり。おじいちゃんは少し歩ける。ティッシュも自分で取れる。
老健施設などに入る話も出た。でもおじいちゃんはそれを拒絶し、また介護度も入所するほど高くなかった。だから週二日のデイケアサービスを利用する。お母さんはその2日だけが仕事に向き合える日になるはずだった。
しかしおじいちゃんがデイケアサービスで頻繁に騒ぎを起こす。別のデイケアサービスに行っても同じだ。
結果おじいちゃんは家に毎日いることになった。
お母さんはそれに付き合った。
*
その頃からお母さんがお酒臭くなった。キッチンに毎日違う料理酒が出ている。お母さんに聞く。
「お酒の匂いするけど、お酒たくさん飲んでる?」
「そんなことないよ、少しだけ。私だってお酒くらい飲むよ」
「どんな時に飲むの?」
「少しだけだけど、仕事が進まない時とかね」
「本当に少しだけなの?」
「お酒はその人によって量が違うのよ。大丈夫だから」
「お酒、楽しい時に飲むんじゃないの?私、カフェフラペチーノとかしんどい時に飲もうとかあんまり思わないよ」
「大人は違うのよ」
少しずつリビングやキッチンが荒れてきた。しょうがないので掃除などしようとするとお母さんにそれは私の仕事だから、と止められる。でもお母さんはそれができない。気が付くとリビングのソファで寝ている。お酒の匂いをさせて。
新築の新しい家にお酒の空き瓶がたまる。ごみが積まれる。
*
夜は裕子さんがチキンソテーを出してくれた。オーブンで皮がかりかり。ソースは薄い醤油とにんにく。付け合わせのニンジンのグラッセ、そしてマッシュポテト。
「全部、美味しい、凄い」
裕子さんは、ふふ、と笑う。
「ありがとな」
私には山桃のジュースを出してくれた。裕子さんはやはりウイスキー。
「今日の片付けは私がやるから。次からは料理しなかった人が後片付けな」
私は頷いたけど片付けは一緒にやった。お皿を一緒に洗いながら聞く。
「この家は建ってからどれぐらいの家なの?」
「そうだな。細かい年数はわからないけど、多分五十年ってところじゃないかな」
「ずっと裕子さん一人で暮らしているの?」
「ずっとという訳ではないけどここ二十年ぐらいはね」
「寂しくないの?テレビもないしスマホもないし」
「テレビは私の部屋にある。野球しか見ないな、スマートフォンとか特に必要ない。寂しいと言えば横浜があんまりに弱いけど、それは今に始まった事じゃないからね。時折強くなるヤクルトスワローズが羨ましい」
「でも友達とかといつも連絡しなきゃいけないじゃないですか」
「毎日連絡するのか、真紀は」
「しなくちゃ、話についていけないし」
「話についていけないと友達じゃないのか」私は頷いた。
「私は毎日連絡しなくてもたくさん友達はいるぞ」
お風呂に入る。となりのトトロでお父さんとさつきちゃんとメイが入ったようなお風呂。薪?と聞いたけど、流石にガスだよ、うち、どれだけ古いんだ?と言われた。シャワーはないけど昼間の汗と浴びた埃が流せたし、小さなタイルが敷き詰められて可愛い。
十分働いたので、さっさと寝ることにする。一応裕子さんに挨拶して、ベッドに入る。お父さんが送ってくれた寝具一式はなかなかだ。父よ、よくやった。
*
寝坊した。学校に間に合うかぎりぎり。全てを秒で済ませ、階段を駆け降りる。昨日教えてもらったバス停までの時間、時刻表、電車。瞬時に計算する。ご飯を食べる時間はない。
「あんた、朝食はどうなったん?」
完全に忘れてた。私が作るんだった。
「ごめんなさい!」と言い捨てて玄関から飛び出す。
まじでヤバイ。アメリカンブレックファーストとか言う以前の話だ。
電車の中で朝食のことを考えて絶望的な気分になる。授業も上の空。こりゃあ、がっつり謝るしかないよなぁ。裕子さんも朝食抜き。悪いことしたな。家だから何か食べるものはあるだろうけど。それにしてもまずい。大体三時間目なのにとんでもなくお腹が空いている。
給食をがつがつ食べる。近くの水野君が「大丈夫?」というぐらい。
授業が終わる。帰るのはいいけど、裕子さんに何て謝ればいいんだろう。
家の前で立ちすくむ。蝉がジャンジャン鳴いている。蝉になりたい。そこにいてもしょうがないので家に入る。裕子さんがいる。大きな声で言う。
「朝、朝ごはん、すみませんでした。本当にごめんなさい」
裕子さんが近づき、言う。
「しょうがねぇなぁ。明日は作ってくれよな。シフォンケーキ焼いたんだ。食うか?」
腰が抜けた。気が付くと朝からこの事ばかり考えて体がガチガチだったみたいで、ありとあらゆる所が凝っている。
紅茶シフォンケーキだ。裕子さんはロイヤルミルクティーを出してくれた。美味しい。
「とっても美味しいです」
「ありがとな」
「あの、あの白と黒の犬は何て名前なんですか」
「ユタカ」
「ユタカ?」
「そう、ユタカ」
「人の名前じゃないですか」
「そう、人の名前」
「誰ですか?」
「高木豊」
「誰それ」
「真紀ちゃん、野球少しわかるか?」
「結構わかります。ダルビッシュはかっこいい」
「横浜ベイスターズが、昔大洋ホエールズだった頃の選手。足速い、打てる、守備はうまい、いい選手だった。盗塁ってわかるか」
「わかりますよ、ルールもわかるし。4-6-3はセカンド、ショート、ファーストのダブルプレー」
「なら早い。というか良く知ってるね」
「お兄ちゃんが野球やっているから」
「そうか。盗塁ってな、足が速いだけじゃダメなんだ。頭がいい事、そして度胸だ。その度胸も相手の投手のくせを見抜く目が必要だ。つまり良い判断が出来ないとだめだ」
「じゃあ、いきなりサニブラウンが一塁立っても盗塁出来ないんですね」
「そや!」
裕子さんの大きな声は初めて聞いた。ユタカも吠えた。
「でも高木、盗塁の失敗も多かった。アイツは朴訥とした顔だが功を焦るところがあるのかもしれない。でも失敗したところも絵になった」
「今、高木豊は何やってるんですか」
「ガールズバーの経営」
「はあ?」
「良くわからん。朴訥とした顔でな」
私はユタカ!と呼んだ。ユタカは飛んできて嬉しそうな顔して私にじゃれた。
次の朝も寝坊した。朝食は作れなかった。
*
その次の日は何とか起きて朝食を作った。もちろんアメリカンブレックファーストなんか作れるわけがなく、ぐちゃぐちゃになった焦げた卵と焼いていないパン。コーヒーは粉をコップに入れてお湯を注いだ。
「すげぇトルココーヒーだな。この焦げた黄色いのはスクランブルエッグか」
「いや、オムレツです」
裕子さんは楽しそうに笑う。私は走って学校に急いだ。バス停までユタカも走ってついてくる。乗り込んだバスの窓からユタカに手を振る。
とりあえず全力は尽くした。そうそう、誰もが最初は初めてだ。
*
裕子さんに一から教わりたい。
「あの、朝食の作り方教えてください」裕子さんは煙草を吸いながら笑う。
「真樹、今夕方の五時。これから作ると夜に朝食食べることになるけど」
確かに。
「あ、私はいいですけど、裕子さんはどうでしょうか」
「なら、やろう」
「とりあえず今日はスクランブルエッグだけにしよう。オムレツはきれいに作るにはそれなりの技術がいるからな」
裕子さんが煙草を消しながら言う。
「ボウルに卵と牛乳、塩を入れる。泡立て器で良く混ぜる。そうそう。ここでな、むかつく先生の事とか考えちゃだめだ。丁寧に、でもしっかりと。そうだな、好きな子を自分の好きな場所に連れていく時に引っ張る手かな。そうすると綺麗な黄色が出来るんだ」
好きな子を自分の好きな場所へ。好きな子を自分の好きな場所へ。
「お、真樹、ちゃんとボウル見て」
好きな子、すぐに思いつかないからとりあえず水野君にしておく。でも好きな場所ってどこだろう。
「熱したフライパンにバターを入れて溶かす。本当は鉄フライパンがいいんだけど、真樹は初めてだからこのフッ素加工にしよう。もし鉄フライパンを使うようになったら流しの下に仕舞うのはだめだ。錆びてしまう」
「あ、だから壁にフライパンが掛かっているのね」
「そう。それからサラダ油じゃなくてバターがいいな。風味が違う。弱火にしてさっきの卵を入れよう。ここで火が強いと直ぐに固まる、そう、そんな感じ」
へらでかき混ぜる。
「そこもゆっくりな。でもヘラを止めないように。卵の底が少し固まってきたらヘラでかき回す。ゆっくり過ぎると火が通ってしまうし、速すぎるとふわふわじゃなくなる。そうそう、上手」
集中しすぎて目が痛い。外ではカラスがぎゃあぎゃあ鳴いているけど気にならない。
「後は真紀がいいと思うタイミングの少しだけ前に火を止めて、皿に載せるだけ」
ふわふわのとろとろのスクランブルエッグが出来た。裕子さんがパセリを乗せてくれた。
「ホテルみたい」
「すっごいボロホテルな、蝶ネクタイしたウェイターもコンシェルジュもいないけどね」
「じゃ、裕子さん先に座っててよ」
私はソファに放ってあったバンダナを取り、頭に巻いた。裕子さんの前にスクランブルエッグが載った皿を差し出した。
「こちら、ボロホテルのスクランブルエッグでございます」
裕子さんは一瞬間を空けて大きな声で笑った。私も笑った。ユタカは吠えた。
*
夏休みが来た。
お父さんからは相変わらず連絡がない。スマホもない。一学期の終わりごろには私はクラスの話についていけなかった。クラスのグループの話題は大抵夜中のline。周りの子から少しずつ浮いた。付き合いも悪いと言われる。仲が良い友達だと思っていた子が率先して私のことを何か言っているようだ。
夏休みに入れば何とかなるんじゃないかな。
裕子さんがサーフィンを勧めてくれた。ここの海はサーフィンが盛んだという。正直海は好きじゃない。海に入ればベタベタするし、何が浮いているのか分からない。なんか、怖い。泳げない事はないけど、そもそも初心者というのがカッコ悪い。
裕子さんが言う。
「真樹はスクランブルエッグも初心者だった。最初から上手い奴はこの世にいない」
裕子さんに連れられてサーフショップに行く。恵美ちゃんという同い年の女の子が中古の道具を全て選んでくれた。恵美ちゃんは日によく焼けて、細いけど全部筋肉の様だ。すっきりした一重。身振り手振り、しぐさがかわいらしい。男の子女の子問わずモテそう。
恵美ちゃんが選んだのは素人目にも良さそうな道具。
「でも、私そこまでお金ないんだ」
「あ、それは大丈夫。裕子さんの姪からお金なんか取れないからってお父さん言ってた」
「どういう事?」
「私もね、良く分からないけど、いいんじゃない?」
恵美ちゃんは白いボードと薄い青いボード、二つから選ばせてくれた。薄い青いボードがとても可愛い。それにする。恵美ちゃんは言う。「やっぱり道具って大事だよね。自分がいいなと思ったものだと続くよ。これ、セミロングだから乗りやすいし」
恵美ちゃんの教え方はとても分かりやすかった。最初に安全について教えてくれた。頭を守る。水中で冷静でいる。恵美ちゃんは危険について脅すのではなく、優しく。そしてなぜそれが必要なのか。
ワイプアウト。ボードから自分から落ちる。危険だと思ったらわざと落ちる。そして直ぐに頭を守る。
「コツはダンゴムシ。ダンゴムシって触ったらくるっと丸まるでしょ。あんな感じ」
分かりやすい。恵美ちゃんは続ける。
「よくあるのが自分のボードが頭に当たるの」
「自分が乗っていたボードに?」
「そう、もちろん混んでいる時に他の人のボードが当たる時もあるけど、自分のボード」
「今まで仲良くしていたボードにやられるんだ」
「まあ、そういう事になるね。でもリーシュコードがあるとすぐ戻って来るし。なんかあったの?」
私は学校の友達のことを考えていた。でもアイツらにリーシュコードなんて付けていないし。
恵美ちゃんと私は波がない入江で海中に潜りワイプアウトの練習をした。練習する理由がわかると私は素直だ。浜辺でパドリングの練習をする。でも恵美ちゃんが直ぐに止めて海に行くと言う。
「なんか、早くない?」
「うん、真樹ちゃんもうフォーム出来てるし、だいたい浜と海じゃ全然違うし。形はあくまで形」
「なんかかっこいい」
「もちろんお父さんの受け売り。ボードに乗ってみよう」
ポップアップというのがボードに乗ることらしい。私はすぐ出来た。
「真樹ちゃん!天才だよ、すっごい!こんなに早く乗れた人いないよ!」
学校やテニス、今までありとあらゆる事を教えてもらったもののなかで恵美ちゃんの教え方が一番分かりやすかった。こんな事はちゃんと伝えたほうが良いのかもしれない。サンドイッチやチキンソテー、スクランブルエッグのように。少し勇気がいることだけど伝えてみる。
「恵美ちゃんの教え方が本当に分かりやすかったからだと思う」
恵美ちゃんは照れて向こうに行ってしまう。
いつの間にか潮の香りが心地よくなり、海の水が私に馴染んできた。私が馴染んだのかもしれない。恵美ちゃんが私の手を優しく引っ張ってくれたのだろう。
毎日サーフィンをした。
海の上を進むのは不安定だけど、波に優しくすれば優しく答えてくれる気がする。逆に強引な事をしようとすると波は強く怖いものになる。
大抵恵美ちゃんと一緒。恵美ちゃんがいない時は恵美ちゃんのお父さん、アツシさんが付き合ってくれた。
アツシさんは物静かだ。アツシさんはほとんどアドバイスしない。見ているだけ。私がどうにもならなくなって聞いたときに、アドバイスしてくれる。それも細かく言うのではなく、大雑把にイメージしやすい話で。
私と恵美ちゃんは私のサーフボードにかもめの絵を書いた。
恵美ちゃんが最近「かもめのジョナサン」を読んだらしい。
それを借りて読む。
*
裕子さんに何か料理を教えてもらうことにする。
「どんな料理がいい?」
「何だか大変なやつがいい」
「手間暇掛かるやつか。この時期悪くなりやすいけどアツシ達にも食べてもらえばいいのか。ビーフシチューにしよう」
「缶とかルー使うの?」
「いや、デミグラスソースを一から作る」
「それそれ!一からっていい!」
「二日は掛かるぞ」
「マジか!」
市場で大量の材料を買い込んだ。牛の骨が山のようにある。不気味だ。これ食べるのか?
朝早くから私たちは一からのビーフシチューを作り始めた。
「一番フォンから始めよう」
牛骨 2Kg
牛スジ肉 1.5Kg
玉葱 1個
ニンニク 半株
人参 1本
セロリ1本
トマトホール缶 250g
赤ワイン 250cc
水/コントレックス= 5L
骨と肉がごろごろしている。ユタカが落ち着かない。
「水はなんでコントレックスなの?」
「硬水がいいんだ。雑味が出ない」
骨とスジ肉、人参1本、セロリ、玉葱一個を別々にオーブンで焼く。
ホールトマトは包丁で細かくし、ニンニク半株は皮を剥いて鍋に入れ、鍋に水を張った。
これだけで三時間は掛かった。
「弱火で十二時間」
「はぁ?」
「九十度から九十三度。ここに温度計があるから見てて」
「ずっと見てるの?」
「まあ、な。アクと脂はちゃんとすくいだして。水が減ってきたら赤ワイン」
「マジ?」
「真樹がくそメンドクサイのがいいって言ったんだろ」
確かに。
「まあ8時間ぐらいでいいか」
裕子さんは軽トラでどっか行ってしまった。ユタカは残って私の周りをうろうろしている。
八時間。八時間は長い。ずっと見張っていなければならない。
しばらくするとユタカも何処かへ行ってしまった。つまらない。しかしここで投げ出す訳にはいかない。
火力を上げると直ぐに九十三度以上になりそうだし、アクも脂も取らなければならない。めんどうくさい。
昼は牛スジ肉が余っていたので青ネギと塩コショウで適当に炒める。激うま。私は料理の天才なんじゃない?というか天才だ。そう思うと煮込んでいるフォンの面倒を見るのも苦ではない。天才が見てあげるのだから美味しくなるに決まっている。アクや脂をすくうときも優しくなる。
裕子さんが帰って来る。
「お、真面目にやっとるな」
「天才だから」
「なんだそれは。それじゃ2番フォン作るか」
「この中に肉とか入れるんじゃないの?」
「まだ早い」
玉葱 1個
ニンニク 半株
人参 1本
セロリ 適当
マデラ酒 250ccぐらい
水 3リットル
「真樹が見張って出来た一番フォンをザルで濾そう。残りの野菜を最初と同じようにオーブンで三十分ほど焼く」
「ホテルとかはここまでやるんだ」
「まあ、そうだな。でもやらないホテルもたくさんあるだろう。缶詰のデミグラスソースで済ますとこもあるだろう」
「それって詐欺じゃないの?ホテルって高いじゃん」
「そうとも限らないぞ、真樹。建物は豪華なところが多いし、たくさんの人がサービスしている。座る時にはボーイが椅子を引いてくれる。みんな蝶ネクタイだ。それにそのホテルには他の得意な料理があるかもしれない」
「スクランブルエッグとか?」
裕子さんは咳き込んだ。
「スクランブルエッグはまあ、どこのホテルも何とか作るだろう、ボロホテルもな。真紀が今回一から作った味を覚える。それだけでいいんだよ。本物を知った上でそれを簡単にした物を使うのはいいんだ。時と場合で本物は変わるから」
「どういう事?」
「真樹、時々アツシの所でラーメン食わせてもらうだろ。あれ、本物か?」
「本物かと言われると、多分違う。スーパーで買った麺とかだし」
「でも、美味しいだろ」
「うん、めちゃめちゃ旨い」
「なら、それは本物だ」
オーブンで焼いたものとニンニクなどを鍋に入れ、水を足す。
「一番の弱火。これを八時間」
「な!」
「今日は遅いから明日にしよう、明日八時間よろしくな」
マジか。
*
早く起きた。五時前だ。空はまだ暗い。
アクを取り、水が減ってきたらマデラ酒を足す。裕子さんが起きてきた。ちらっと見てユタカと外に行く。ユタカは律儀に私の周りを二周して出て行った。
一番小さい弱火。これを8時間。気が遠くなりそうだ。いくら涼しい風が舞う家とは言えずっと火をずっとつけているとさすがに暑い。バンダナに汗が染みる。バンダナを取り換え、タオルを頭に巻く。鏡で見る。意外といいかもしれない。三週間前に頭にタオルを巻いてビーフシチューを作るとは考えもしなかった。
火加減に慣れてくると少し余裕が出てくる。改めてこの家を見回す。昔、結構なお金持ちが建てた別荘だそうだ。かなりぼろいけれど、お金が掛かっているだけあって建物自体はしっかりしているらしい。
お世辞にも整理整頓はされていない。本があちらこちらに積まれている。「ヤバい経済学」「申し訳ない、御社をつぶしたのは私です」そんな本の隣に「カラマーゾフの兄弟」「偉大なるギャツビー」「スラムダンク」「よつばと!」「重力の虹」。
スラムダンクとよつばと!以外は読んだことがないけど、題名からだけでもむちゃくちゃな並び方だと思う。
レコードプレーヤーがある。レコードがプレイヤーに置きっぱなしだ。かけてみる。
「ビートルズ ラバーソウル」
そばにアルバムのジャケットがある。中に歌詞とライナーノーツが印刷されたもの。
nowhere manという曲。
題名のnowhereman、nowとhereの間に力強く「/」スラッシュが引かれている。その下にこう書かれていた。
nowhere man。どこにもいない男?居場所がない
now here man。今ここにいる男?
部屋で見たノートと同じ筆跡のようだ。
*
裕子さんが帰ってきた。
「なかなか上手く出来ているね、次行こうか」
二番フォンが出来上がったら漉し、フォンと合わせる。
一旦強火にして沸かし、浮いたアクを掬い出したら極弱火で、また煮詰める。また、である。
修行かもしれない。これでフォンドボーは完成らしい。小鍋でブラウンルーを作る。小麦粉をバターで狐色になるまで炒める。これもじっくりと時間をかける。修行。
フォンドボーを少し入れて弱火にかけ練る。とにかく焦がさないように。そこからドミグラスソースを作る。マデラ酒やナツメグをいれて混ぜる。これも焦がさないように。ようやく肉を丁寧に鍋に放り投げる。3時間半ほど、1.5㎏の牛すね肉のブロックを煮る。
とりあえず完成だ。野菜は食べる30分前に入れる。
ここまで手間が掛かると思わなかったけど、頭が梅雨明けの風の様にすっきりしている。
夜、アツシさん達を呼んだ。
アツシさんと恵美ちゃんと、恵美ちゃんのお母さんの順子さん。順子さんには初めて会う。恵美ちゃんそっくりだ。会っていきなり「真樹ちゃん!」と言い、ハグしてくれた、順子さんは地元の信用金庫に努めているらしい。
「裕子さんにはいつもお世話になっているのよ」
「え、何をですか」
「真樹ちゃん、聞いていないの?裕子さん信用金庫の支店次長してたのよ。今は嘱託だけど裕子さんいないとうちの支店まわらないの。信用金庫って地元の方と深いつながりがあるからその人たちにいい距離感でお付き合いしなければいけないの」
「でも裕子さん、いつもむっとしていますよ」
順子さんは大きな声で笑った。裕子さんはいつの間にかキッチンに消えている。
「支店次長、偉いんですか?」
「大阪西支店にいた時の半沢直樹より偉い」
よくわからないけど、順子さんは嬉しそうだ。
みんなでダイニングテーブルを囲む。
アツシさんの様子がおかしい。浜に打ち上げられた海藻の様だ。
「どうしたんですか」アツシさんに聞く。
恵美ちゃんが言う。「お母さんになんかめちゃめちゃ怒られてた」。
戻ってきていた裕子さんも聞く。
「アツシ、何した?」アツシさんは歯切れが悪い。
みんなにごろごろ肉が入っているビーフシチュウを配る。
順子さんがサラダと地元では有名なパンを山のように持って来てくれた。
裕子さんと順子さんはウイスキーを飲み始めた。
「アツシさん、飲まないの?」聞いてみる。
順子さんが言う。「ランパブで飲んでればいいのよ」
「だからあれは消防団で無理に連れていかれたんだよ」アツシさんはうんざりして言う「何もここで言わなくてもさ」
恵美ちゃんが聞く。「裕子さん、ランパブってなに?」
裕子さんはしばらく考えて真顔で言う。
「恵美。ランパブって大変なんだ。お酒飲むところに女性がいるのはよくある話なんだけど、ランってな、ランニングのラン。ジムにある走るマシンがあるよね、ベルトコンベアーみたいなの。その上をアツシが走るんだ。走ると喉が乾くだろ。そしたら給水みたいに女の子がお酒を注いでくれる。で、頑張ってアツシが走るんだ」
恵美ちゃんが言う。
「お酒飲みながら走るって、それって修行じゃん」
「そうだ、修行だ。アツシは修行をしてきたんだ。煩悩を振り払う修行だ。まあ、煩悩の犬は追えども去らずとも言うけどな」
恵美ちゃんも私もアツシさんを珍しい動物を見るかのように見た。
順子さんが言う。「裕子さんにはかなわないわ」
後日本当のことを知った恵美ちゃんからアツシさんは1週間無視された。
シチューは皆が口々に褒めてくれた。
「これ、裕子さんが作ったの?」
「いや、ほとんど真樹が作った」順子さんが言ってくれた。
「これ、相当高いお店で出せるよ、本当にこれはすごいよ」
「真樹が時間と仲良くしたからね」裕子さんが言ってくれる。
その日はダイニングテーブルの上をいろんな声が飛び交った。恵美ちゃんが小さい頃、サーフィンが大嫌いで店のサーフボードをこっそり海に流そうとしたことや、信金の営業だった裕子さんがメガバンクや地銀の顧客をごっそり奪ってしまって界隈で険悪な雰囲気を作ったこと、順子さんが膝の靭帯断裂の手術したとき、全身麻酔が覚め、その時のうわごとでアツシさんへの愛を叫んだとか。みんなずっと笑っていた。
アツシさんが持ってきたギターを弾き始めた。スラックキーギターというらしい。ハワイ発祥とのこと。緩い音がリビングに流れる。優しいギターの音と外から聞こえる虫たちの声、ベランダに置いた蚊取り線香の香り、昼間とは違う顔色の夜風。そしてみんなの笑い声。
この場所には確かに何かがあった。
*
八月の最初の頃、恵美ちゃんと海に出ようとした。
アツシさんが言う。
「今日はやめておけ」
恵美ちゃんが言う。「お父さん、海見てよ。そこまで風がないのに結構いい波だよ?最高なんじゃない?」
「いや、今日は止めておきなさい。恵美はまだ始めたばかりだし、なおさら真樹ちゃんを連れて行ってはだめだ」
私は思わず言う。「始めたばかり?恵美ちゃんが?」
アツシさんが答える。
「そう、恵美がサーフィン始めたのは去年の夏の終わりだ」
恵美ちゃんを見ると、へへへと笑いながら後ずさりする。
アツシさんは続ける。
「だから恵美もこの波を知らない。今日はやめておきなさい」
店にいた裕子さんは海の向こう、遠くを見ていた。
*
恵美ちゃんが言う。
「何だろう。あれぐらいの波だったらお父さん、海行け海行けうるさいんだけど」
「そんな事より、恵美ちゃん、サーフィン、去年の夏の終わりから始めたってどういう事よ、つい最近じゃない、でも無茶苦茶上手いし。あの浜だったらアツシさんの次だよね。教えるのも上手いし。私なんかと一緒にいる場合じゃないと思うけど」
「ありがとう。家がサーフショップなのにサーフィン嫌いだったじゃない。でも始めたら楽しくて。サーフィンのプロになりたいなってお父さんに言ったの。そしたら真樹ちゃんをしっかり教えてみなさいって。そしたらね、私、凄く乗れるようになったの。お父さんに聞いたら人に教えると自分が上手くなるんだって。基本が染みつくから」
良かった。しばらく前から恵美ちゃんの足手まといになっているとちょっと思っていた。
恵美ちゃんが突然言い出した。
「テニス教えて。私さ、十回ぐらいやったんだけど、コートにボールが入らないの。真樹ちゃん関東ジュニアでかなり勝ち上がったって裕子さんから聞いたよ」
なんと。裕子さん。余計な事を。
恵美ちゃんは渋る私の手を引っ張り、近くのリゾートホテルでコートと道具一式を借りた。教えたことなんかないよ、と言ったけど、恵美ちゃんは「私もそうだった!」と相手にしてくれない。
私がネットの向こう側から球出しをする。恵美ちゃんのフォアハンドはネットかホームラン。でもスイング自体はちゃんと斜め下から出ている。サーフィンの時の恵美ちゃんは、膝を沈めても肩が前のめりになっても、頭が真っ直ぐだ。今は真っ直ぐに見えない。頭が斜めにぐらぐらしている。
片足だと真っ直ぐになるはずだ。片足で頭が前後左右にぶれると立っていられないはずだ。
「恵美ちゃん、自分の体の右で打つとき、フォアハンドって言うんだけど、その時右足だけ、右足だけの片足で打ってみて。打ち終わったら左足着いていいから」フォアハンドは右足が軸だ。
恵美ちゃんは恐る恐る右足だけで打ち始めた。軸が最初からぶれない。綺麗なフラットドライブがコートに吸い込まれる。「え、なんで!」。恵美ちゃんは自分の打ったボールに驚く。サーフィンでもテニスでも軸がぶれるとだめなのかもしれない。
「今度は両足でいいから。今の気持ちで」
恵美ちゃんはさっきと同じフラットドライブをコートに叩きこんだ。私は調子に乗って恵美ちゃんに「打つ前にラケットの先を少しだらんと垂らして地面に近づけて」と言ってみた。ボールは重い回転が掛かった。ネットの上を高く通過し、その後ベースライン近くで急激に落ち、そして高く弾んだ。トップスピン。
私は駆け寄って恵美ちゃんと手をとってはしゃいだ。
松林の向こうからの潮風が私たちを包み、そして彼方へ消えた。
*
裕子さんが急に言い出した。軽トラ運転すると。
「どういう事?」
「だから、真樹が軽トラを運転するってことだよ」
「ねえ、私まだ十五だよ。免許もってない」
「そんなことは分かっている。裏の山にアツシが持っているかなり広い空き地がある。そこには誰も入ってこない。スクランブルエッグもビーフシチューもサーフィンも何とかなっただろう」
裕子さんのこの感じは慣れた。でも車はどうかと思う。でも興味はある。
運転席に乗る。ユタカは助手席から乗り込んでくる。
「ユタカ、さすがに今日はやめておけ。お前のシートベルトはないんだよ」と裕子さんが言うがユタカは動かない。
「ねえ、ユタカ、今日は私だから降りてよ」
ユタカは動かず、結局裕子さんの足元に座らせた。
ハンドルが熱い。窓は開け放しだ。
「裕子さん、ペダルが三つある、アクセルとブレーキじゃないの?」
「右からアクセル、ブレーキ、クラッチだ。とりあえずエンジン掛けようか。真ん中のブレーキを右足で踏む。ギアはニュートラル。キーを捻ってエンジンを掛ける」
エンジンがかかった。初めて乗る運転席は思った以上に目に色んなものが飛び込んでくる。
その事を裕子さんに言うと「命運って奴を自分が握るからだろ」と言う。
「一番左のクラッチを左足で奥まで踏む。ギアを1速に入れる。クラッチを手前にゆっくり戻しながら、アクセルをゆっくり少しだけ踏む」
車が前後に大きく揺れ、エンジンが切れた。ユタカが私を見て吠える。
「ユタカ!だから言ったじゃない、札幌でガールズバーやってなさい」
「そうか、札幌だったのか、真樹、何で知ってる?」
「恵美ちゃんに教えてもらった。恵美ちゃん最近キャバクラとかランパブとかガールズバーの違いを力説するの。今の何が悪かったの」
「クラッチを戻すのとアクセル踏むタイミングが合わなかった。もう少しアクセルは踏んでもいいぞ」
「いやいや、アクセル踏んだらスピード出ちゃうじゃん」
「アクセル踏まないと何事も進まないぞ。ほら、エンジンかけて」
しかし何でここで私は軽トラの運転をしているのだろう。良くわからない。でも楽しいのは間違いない。
目の前にはだだっ広く砂利が敷き詰められた広場。遥か向こうの森の上には白く輝く入道雲。
ブレーキとクラッチを踏み、エンジンを掛け、クラッチをゆっくりと戻すと同時にアクセルを少しだけ踏む。また車が大きく揺れエンジンが止まった。ユタカが私に吠えるがそんなの知らない。もう一度エンジンを掛ける。今度は少し早くアクセルを踏み込む。
ぎくしゃくしながら軽トラは走り始めた。
「おし、ハンドルはそのままで前見て。このまま少し走ろう」
がたがたしながら軽トラは走る。
「スピード出てる、出てる!八十㎞ぐらい?」
「ちょうど十㎞や」
「え、それ壊れてるんじゃないの?」
「どうでもいいから前を見ろ、ゆっくり左にハンドルを、そうそう、ゆっくり。で、ゆっくり戻す」
軽トラが広場の端で大きく左にターンした。
「今度は二速に、クラッチを踏み込んで同時にアクセルを戻して、そう、ギアを2速にゆっくりでいいからクラッチを戻しながらアクセル!
ぎくしゃくしながら軽トラは走り続ける。
汗だくだ。ハンドルを握る手も汗にまみれる。
裕子さんは煙草を吸いながら言う。「このまま何周かしよう」
窓からは風が吹き込む。私のTシャツを羽ばたかせる。アクセルを少し踏み込む。裕子さんは笑っている。なんか唄いだした。ハンドルにしがみつきながら私は聞く。
「それ何の唄?」
「小難しいおっさんが歌う優しい唄」
「何て曲なの」
「Forever young」
「あ、わかった、裕子さんがいつまでも若ければいいなって唄でしょ」
裕子さんは大きな声で笑った。
*
私の十五歳の夏は過ぎていった。
夏の終わりにお父さんが迎えに来て、私は家に帰った。
帰る時には裕子さん、恵美ちゃん、アツシさん、恵美ちゃんのお母さん、そしてユタカが見送ってくれた。ユタカはしばらく車の後を追いかけていた。
その後、裕子さんとは何度か手紙をやり取りをしたけど、海辺の林にあるあの家には行けなかった。
お父さんがあの夏私を突然裕子さんの家に放り込んだのは理由があった。お母さんがアルコール依存症になっていた。
お父さんがお母さんを病院に入院させる時のごたごたを私に見せたくなかったからだ。
お母さんは仕事に復帰した時に気が付いた。たった5年ほどのブランクがお母さんにとって、計り知れない距離を生んでしまったことを。タイミングが悪い事に業務に関わりのある法改正、それも大きなものがいくつかあった。昔の知識が活かせない。会社で一緒に仕事をしていた同僚は遥か彼方に進んでいた。会社にいた時は下訳を任せる人がいて、そこから上がったものをお母さんが整え納品した。今、そのレベルに追いついていない。努力してもステップアップが見えない。
同僚が着実にキャリアを積み重ねる。しかし自分は取り残されている。仕事を辞めない道があったのではないか。
そしておじいちゃんの介護。自分で家族の助けを頑なに振り切って。
お母さんは料理をするついでに料理酒のワインを飲み始めた。ふさいだ気持ちが少し晴れた気がした。ふさいだ気持ちを晴らすために飲むお酒は良くないとわかっている。ふさいだ気持ちの強さで酒が簡単に増える。
道路拡張で家を新築したのもお母さんに良くなかった。道路拡張での立ち退きはかなりのお金が保証される。近所の仲の良い友達たちはその道路拡張に引っ掛からなかった。妬みがお母さんに向けられた。
リビングのソファで酔いつぶれているお母さん。トイレで吐きながら崩れ落ちているお母さん。お父さんのサポートはほとんどなかった。
ある時私が服を買おうと繁華街にいた。お父さんがいたので声を掛けようとした。やめた。隣に女の人がいた。その人は引っ越しをする前に近所だった人。お母さんに訳の分からない妬みを向けた人。胃が黒くなるのがわかる。ついていくしかない。二人はホテルに入っていった。
お母さんに言える訳がない。
お兄ちゃんは寄宿舎のある高校の野球部だったのでその騒動にはかかわらないで済むはずだった。しかしタイミングが悪いことに肘をケガした。お兄ちゃんはやさぐれた状態で家に戻って来てしまった。ある意味まともな状態なのは私だけ。でもまともでいられるわけがない。
お母さんが病院から戻ってきた。通院と自助グループの参加などでリハビリをしていたが、お母さんを受け止めるのは私しかいなかった。お兄ちゃんは知らない人達を家にたくさん連れてきた。
リビングでくつろぐなどできない。
その中で私は裕子さんと手紙のやり取りをしていた。便せんに文字を書くことは新鮮で気持ちが良い。手紙を書く時はいろいろなものが頭から少しだけ消えた。
裕子さんは毎回返事をくれた。その手紙はまるで私の隣に裕子さんがいて煙草を片手にウイスキーを飲みながら頷いてくれる気がした。
しかし手紙を出す頻度は少しずつ減っていった。
*
十七の時に東京の芸能事務所からスカウトされた。
両親に相談するという選択肢は頭になく、スカウトについて東京に通う。小さい頃から周りに可愛い可愛いと言われていた。だからスカウトについていけばこの訳の分からない所から出ることが出来るはずだ。
オーディションをたくさん受けた。ものすごい綺麗な子とか、ものすごいかわいい子がゴロゴロしていた。その中にさして綺麗でもなく可愛くもなく子もいる。しかし周りの光を奪うようなオーラがあった。そんな子はもれなく売れていった。
私はどちらでもなかった。
事務所の友達からパパ活を勧められた。私の地元から少し離れた場所なら出来るだろうと、その子が言うまともなパパを紹介してもらう。距離で言うと地元から百㎞。写真など撮らせなければ大丈夫だと。簡単だった。ご飯一緒に食べるだけ。それがご飯以外のデートになれば金額が上がる。
最初のパパに言われた。日本人男性の多くはロリコンで童顔が好き、でもその顔にアンバランスな大きいおっぱいも好き。君は少し童顔で胸はそんなに小さくないからそのマーケットニーズにはまるはずだ。
すぐにパパが何人も出来た。各々月に十万円。デート1回で三~五万。ほとんどが地方中小企業の社長。お金をたくさん持っている。ハローワークやネットなどで調べてみた。パパたちの会社で仕事をする女の子のお給料は十六~十七万円。そのお給料は何かの切っ掛けで上がるのだろうか。上がるとしても何年待つのだろうか。その女の子達と私、どちらがまとも何だろう。
パパの一人からホテルに誘われた。添い寝だけにする。キスはさせない。それでももらえるお金は上がった。私にはそれだけの商品価値があるのだ。
ホテルで添い寝をしている時にあるパパがきつく勃起している。その硬さを感じた時、私は何故かそのパパの家族とその会社で働いている女の子達を思い浮かべた。添い寝をしながら手でしてあげた。出してあげることでパパが家族とか社員の女の子達に視線が向くような気がした。
あるパパが学校の制服で同じことをしてほしいと言う。ここまでにする。そして私の商品価値は更に上がった。でもここまでにする。
パパ活で時間を取られて大学は一浪して入った。でもパパ活は続ける。自動車整備工場を経営しているパパからフィアット500を買ってもらう。その車で100㎞を週3~4回往復する。かなりのお金がたまり始めた。パパの一人から株式と投資信託での資産運用を教わる。雪だるま式にお金が増えていく。
お母さんは入退院を繰り返したが少し落ち着いた。リビングで酔いつぶれていることは無くなった。お父さんも少しだけ家にいる時間が増えた。お兄ちゃんは家を出た。
*
パパ活の帰りはたいてい深夜になる。車で疲れ切って家の近くまで辿り着くがあの家にすぐに入ることが出来ない。
家から少しだけ離れた場所にある、国道沿いにある古いドライブイン。その向かいに何台か自動販売機があり、車を停められる場所もある。
その日も家に真っ直ぐ帰る気がせずに、たまたま自動販売機の横に車を停めた。車の中から国道の向かい側のドライブインをぼんやりと眺めていた。
暗闇の中、大型のトレーラーが地響きを立てて通り過ぎる。遠くで誰かのクラクションが聞こえる。カーオーディオの音楽がうるさく感じるので消す。暖かみがなく、救いがない闇。
その場所は何かが違った。ドライブインの窓から何故か夕陽の様な、暖かくな淡い光が漏れている気がした。
随分長い間ドライブインを見ていた。古ぼけたドライブインからの光は私を包む。
水野君がいた。
ドライブインのカウンターに水野君がいた。
子どもの時に一緒に遊んだ水野君。一緒にジブリの映画を全部見た水野君。自転車で遠くまで一緒に行った水野君。
闇に包まれている私とドライブインが違う色を帯びている。
夕陽が沈む直前の茜色。いろいろなものを置いてきてしまった所にある茜色。とても暖かい茜色。その中心に水野君がいる。そしてなぜか裕子さんとユタカと海辺の林の中にある家が浮かんだ。
ずっと眺めていた。ドライブインに入って行きたかった。忘れたものが多分あるドライブイン。水野君や裕子さん。他にもたくさんあるはずの何か。
ドライブインに入りたかった。でも入って行けなかった。入った途端に浮かんだ何かが幻と消えてしまう気がした。
深夜、パパ活の帰りにそのドライブインを眺める事にした。水野君は週4日ほど働いている。いつも年上の男性と二人で働いていた。水野君の姿を見ると、何かが少しだけ私を満たした。
夏から秋にかけて私は水野君を見続けた。いつ見てもドライブインにいる水野君は暖かいものを放っている。古ぼけたドライブインは生活感にあふれているけど、明るく、清潔で、何からも汚されていない。
同じ様な所を知っている。裕子さんの家だ。
水野君と話がしたい。裕子さんと話がしたい。
秋の終わり、深夜にいつものようにドライブインを眺めていた。お客さんが1人入る。その後に水野君といつも一緒の店員さんが帰る。さっき入ったお客さんの姿はお店の中に見えない。お店には水野君しか見当たらない。
私はいつの間にか車をお店の駐車場にいれ、お店の中に入った。
水野君は少し驚いて私を迎えてくれた。
私のことをちゃんと覚えていてくれた。
「真樹ちゃん、久しぶりだね。元気だった?」
「水野君がここで夜働いているって聞いて来てみた」
なんとなくサンドイッチとコーヒーをお願いした。
水野君は手際よくトマトときゅうりを切り、ハムとチーズの形を揃える。その間にバターをレンジで常温に戻す。具材の水気を丁寧に除き、パンにたっぷりとバターとマヨネーズを塗る。全ての具材を丁寧に重ね、包丁でゆっくりと切った。無駄がなく、余計な音をたてない。しなやかな指の動き。時々私をみて微笑む。
裕子さんと同じサンドイッチ。優しいサンドイッチ。
「水野君凄いサンドイッチだね、美味しい。ちょっと驚いた」
「嬉しいね。深夜にサンドイッチなんか食べるお客さん少ないからさ、真樹ちゃんとはいつ以来だろう」
「七年振りぐらいかな」
「かもしれない。真樹ちゃん覚えてる?トトロごっこ」水野君が言う。
「何それ」
「地獄のトトロごっこ。小1ぐらいの時に真樹ちゃんが俺と近所の石崎呼んでトトロの真似をしなさいって公園で宣言したんだよ。俺と石崎すげぇ頑張ってトトロのものまねしてさ、延々と。そしたら真樹ちゃんが本物のトトロは石崎君ですって判定くだしたの。そしたらさ、真樹ちゃんがサツキちゃんで石崎がトトロで二人で帰るんだよ。俺を公園に置いてさ」
笑う。笑いがとまらない。
「私ひどいね、で、水野君1人で帰ったの?」
「そうだよ。真樹ちゃんと石崎が仲良く帰るところ邪魔しちゃ悪いから、少し後で帰ったよ。あれは寂しかった」
「全く覚えてない。凄いね、私」
「今でもサツキとトトロに置き去りにされる夢を見るよ」
自分の顔がどうなっているかわからないぐらい大きな口を開けて笑う。
外を見ると雪が舞っている。
「今、大学生?」水野君が聞く。
「そうだよ、水野君もそうだよね、春から四年生?」
水野君は昔から勉強が出来た。算数を良く教えてくれた。
「いや、一年浪人した」
「あ、私も」
雪が降るには少し早い時期だが、見ているうちに降りが強まる。水野君は遠慮がちに私が芸能事務所にスカウトされた事を聞いた。
私はいつの間にか水野君に全部喋っていた。
オーディションはまるで太刀打ちできなかった事。パパ活で相当な金額を稼いだこと。車をもらった事。
「お誕生日にはパパのみんながプレゼントくれるの。でね、例えば6人パパがいたらみんなに同じものプレゼントにお願いするのよ。例えばエルメスのガーデンパーティーの同じ色とか。一個だけ手元に置いて後は売るの。そしたらみんな自分がプレゼントしたものだと思うじゃない。みんなhappy。パパの誕生日とかバレンタインとかは三万ぐらいかけてしっかり餌撒くの。そしたらみんな感動してくれてお願いした五十万ぐらいの同じものが帰って来るの。で、一つ残して売るの」
「それはばれたりしないの?」
「ばれたりはしてないと思う。でも、もしかしたらばれていると思う。みんな言わないだけかもしれない」
ジンジャーエールとピスタチオを出してくれた。爪が割れるといやだと水野君に言う。そんな訳ないのに。
水野君が割ったのを指で私の口に運んでくれた。
デートだ。本当のデートみたいだ。
「真樹ちゃん、そのパパ活、キスはさせるの?」水野君は言う。
「まあ、それぐらいはさせてあげるよ。でもクローズドだけ」
「なに、クローズドって」
「こんな感じ」
私は立ち上がってカウンター越しに水野君に軽くキスをした。
店にはオアシスのWhateverが流れている。
「水野君、これいい曲だと思うんだけどどういう意味なの?」
「君は人目を気にし過ぎている、本来の自分を殺してしまっているだろ、もっと自由にしていいんだよ、って感じかな」
「そうか、そうか。人目意識するの、お得なところ一個もないからね」
「確かに、確かに」
雪と風が強くなっている。雪のせいで国道を行くトレーラーの音があまり聞こえない。
「いくら稼いだの?」水野君が聞く。
「十七の時からだから、そうだなぁ」
「えっ?十七って高校生だよね?」
「そうそう。概算で千七百万。積立式投資信託と株を運用して。今はそれがもっと大きな金額になっているけど。運用の基礎は何番目かのパパが教えてくれたの。パパも役に立つのよ。証券口座の数字見るとすごく安心する」
水野君が残り物だけど、と言ってオニオンスープを出してくれた。
お店にはしわがれた声のヴォーカルが歌うミディアムテンポのロックが流れている。水野君が急にカウンター越しに両手で私の左手を握りしめた。水野君の体温が伝わる。
私も思わず水野君の手に右の手のひらを重ねた。
「私ね、ほんとはね、水野君がここで働いているのずっと前から知ってた。この通りの向こうに自販機が五台ぐらいあるじゃない、そこ、自販機の前に車停められるところあるよね。そこからこのお店が良く見えるの。パパ活とかから帰って来た時、車停めてずっと見てたの、水野君の事。毎回三十分ぐらい見るの。そうして帰るとちゃんと眠れるの」
「僕でも役に立っていたんだね」
「そう、知らない間にね。オッサンの相手してクタクタになって、夜中、あと少しで家なのに疲れ果てて運転できなくて、自販機の前に停めたの。そしたら道路の向こう側に水野君がいて。暖かさが伝わってくるの。まばゆい暖かさだったよ。光り輝いていてさ。私がどっかに置いてきたものが全部このドライブインにあって、水野君が守っている気がしたの」
「それは思い出とかかな」
「それもあるんだけど、なんていうかな、汚されていないというか、わかんないけど。とても大事なもの」
「中に入って来れば良かったのに」
「めちゃめちゃ行きたかったよ。でもさ、入ってそれが幻とかだったら、私死んじゃう気がしたの。だから入れなかった。今日さ、いつも一緒にいる人が帰ったじゃない。もうさ、気持ち抑えきれなくて。中に入ったら実はそんなものは幻とかだったら、私死んじゃうかもって思ったけど、入ったの」
水野君が言う。
「どうだった?」
「最高だった。入って良かった。水野君、全然変わらないし」
「トトロじゃないけどな」
「トトロだったよ。トトロって子どもの時にしかみえないんだよね、じゃあトトロで合ってる」
「まだパパ活、続けるの?」水野君が聞く。
「今日決めた。少しずつフェードアウトする。お金もいっぱい稼いだし。でもすぐやめられないな。パパたちの中に私も取り込まれている。適当に辞めてしまうとパパたちの気持ちもまるで無視してしまう気がするし、私も取り込まれたままになる気がする。周りにも良くないことが起こりそうだし、せめてそこだけでも誠実にいたい。でも早くやめる」
雪がかなり積もった。水野君は原チャリでここまで来ていた。雪道を原チャリで行くのは厳しい。私が送ることにする。
車に乗った時に聞いてみた。
「さっきカウンターで私の手を握りしめてくれたよね、あれはどうしたの」
「嫌だった?」
「ううん、すごく暖かくて、良かった」
「あの時さ、店にロッド・スチュワートっていう人の曲が流れていてさ。ガソリンアレイってやつ。タイミング的に歌詞がちょっと切なくて」
「どんな感じの?」
もしもうまくいかなくてもさ、
おれをこの土地へ、
ほうむるなんて やめてくれよ、
ここは寒すぎるぜ
「こんな感じの。俺さ、真樹ちゃんがどっか遠いところ行っちゃう気がしたんだよ」
「今は?」
「うん、大丈夫」
「ちょっと聞きにくいんだけど、水野君遠慮なしで話して欲しいんだけど、私がもしパパ活でパパと最後までやっていたら、水野君、こんな感じで私にお話してくれていたかな」
水野君は私の目を見て、すぐにはっきりと答えた。
「関係ないな。真樹ちゃんがどうあろうと、真樹ちゃんが今ここにいるだけで僕は十分だよ」
雪は降りやみ、雲の切れ間から日が差し込んでいる。陽の光が雪に反射して全てが明るい。
「水野君、一日空いてる日教えてよ。朝から晩までジブリ見ない?」
「それ、レディーボーデン食べながら?」
「そうそう」
「トトロごっこしないならね」
次の日水野君のおうちでジブリを見た。
私は裕子さんに会いに行くことに決めた。
*
裕子さんの家に電話を何回かかけたけど誰も出ない。アツシさんのお店に電話してみる。アツシさんが裕子さんに連絡してくれた。
*
七月の終り。乾いた風が吹く晴れた日の午後。裕子さんの家まで車を走らせる。冬の始まりに行く事を決めたのに、お母さんの調子を見ていたら夏になってしまった。
家のそばに車を停める。てっきりユタカが吠えながら出迎えてくれるものだと勘違いしていた。ユタカは二年前に亡くなっていた。
裕子さんが玄関から出てきた。淡い水色のワンピースだ。
「真樹、えらいかっこいい、洒落た車だな」
裕子さんは随分と痩せた気がする。
「そうそう、フィアット500っていうの。マニュアルよ」
「おお、イタリア車か。なんでわざわざそんな酔狂なものを。昔アツシがアルファロメオを新車で買って、ここと新潟往復したら買った車屋の兄ちゃんが『それ、大冒険ですね』と言ったらしいぞ」
「なんで」
「イタリア車は新車でも壊れるから」
二人でイタリア車と今時マニュアル車を乗るバカバカしさを笑いながら家に入った。
「紅花の花束なんて洒落ているじゃないか、紅花の花言葉知ってるか」
「ん、わかんない」
「特別な人、だよ」
「そうそう、裕子さん特別な人だから!」
「今知っただろ!」
大笑いしながら二人で夕食の準備を始めた。今日は正統派手抜きのビーフシチュー。裕子さんは相変わらずウイスキー。私も一緒に飲む。持って来たシングルモルトを裕子さんは喜んでくれた。
「あんた、いつまでいる?」
「二泊させてよ」
「ああそんな話だったな」
「裕子さん、煙草は?」
「うん、やめた」
「何でまた」
「ダイエット」
二人で笑う。
「恵美ちゃん、どうしたかわかる?」
「あの子はハワイに行ったよ。でな、向こうの人と結婚して。夫婦でプロサーファーだよ。あの子さ、あんたがこっちに来ない事、随分寂しがっていたぞ。連絡したれ」
「ネットで探したんだけど、結婚していれば名前が少し変わったのか、後で教えてね」
「明日、アツシのところにも顔出そうか」
「うん」
裕子さんは私が今何をしているのか、何をしてきたのか、何も聞かない。
裕子さんはノートパソコンを持って来てなにやら調べはじめた
「いつからパソコンなんて始めたの」
「デジタルネイティブだからな」真面目な顔で裕子さんは言う。
「何見てるの?」
「天気図その他諸々だ。明日、いいもの見せてやるから朝四時前に出るぞ」
夜型の生活をしていた私にはキツイ時間だけど、いいものを見せてやるという言葉は抗しがたい魅力がある。
「じゃあ、朝ごはんは今のうちに作ろうか」
「お、いいね、それあれか、得意の何だかわからんぐちゃぐちゃ玉子か」
「ねえ、何年前の話、それ。最近サンドイッチの美味しい作り方教えてもらったのよ」
「誰から」
ちょっとためらってから言う。
「男の子」
「お、サンドイッチ上手く作る男は甲斐性があると言うぞ」
「甲斐性って?」
「頼りがいがあるって事だよ。その子は真樹を大事にしてくれるのか」
「うん」
「真樹もその子を大事に出来るのか」
「うん」
「ならいい」
「え、もっと聞かないの?」
「もう十分だろ、やったのやってないの聞いてもしょうがないだろ」
裕子さんの肩を少しだけ押した。軽く押しただけなのに裕子さんは少しよろけた。慌てて支えた。やっぱり痩せたな。
明日のサンドイッチの準備をする。裕子さんはとっておきのコーヒーを淹れてくれるらしい。
*
朝三時。裕子さんは香りだけでも満足してしまいそうなコーヒーをポットにいれた。てっきり軽トラで行くのかと思っていた。
「真樹、よう考えろ、あんたが十五の時にぼろぼろの軽トラが今でも現役なわけないだろ」
「確かに。裕子さん、今どうやって移動してるの」
「バスやらオンデマンドタクシーやらアツシやら。何でもある。今日は真樹のフィアットで行こう」
闇の中、車を出す。海岸沿いを少し走り山への道を登る。切り立った断崖近くに車を停めた。アウトドア用の椅子と小さなテーブルを崖の間近に置く。裕子さんが私に何を見せるのかは見当がついていた、日の出だ。恵美ちゃんとサーフィンしてた頃にもたくさん見た。正直、今更という気持ちは拭えない。
テーブルにサンドイッチを置き、ポットからコーヒーを注ぐ。夏とはいえ夜明け前は肌寒い。ブランケットを裕子さんに渡す。
「結構、気の利く子になったな」
「そうですよ。裕子さんの娘みたいなものですよ。あの短い夏の間にね」
「嬉しい事言うね」
その朝焼けは今まで見たことがなかった。圧倒的だった。水平線の遥か奥から闇を中和するような柔らかい光が来る。東の空が黒から濃い青を帯びる。全て手に取れるかのようだ。
裕子さんがコーヒーの入ったマグカップを持って言う。
「平安時代が専門のものがいるんだが。あの色、深縹と呼ぶらしくて。藍染の中で最も濃く深い色」
「もう一度、なんて呼ぶの?」
「こきはなだ。もうすぐ消える」
ゆっくりと、しかしその歩みは止めずに淡く深い朱が少しずつこきはなだを染める。
それまでわからなかった水平線に浮かぶ入道雲の輪郭が浮かぶ。
やがて私たちもその朱に包まれた。
こきはなだの濃い青と朱の光。
何かのこだわりとか、自分らしく生きるとか、そんなものを全て拭い去る。
私は裕子さんに全部話す事にした。
*
帰りにアツシさんの店に寄る。お店は一部改装されていたけど雰囲気は変わっていない。車を停めると、白と黒のボーダーコリーが飛び出てきた。思わず、ユタカ!と声を掛けた。ユタカの息子だそうだ。
「アツシさん、名前は?」
「イチロー」
「それ、裕子さんが付けたんでしょ」
裕子さんは言う。
「走、攻、守、三拍子揃っているだろ。イチロー、ガールズバーは経営してないけどな。ユタカとは少しだけ違う」
アツシさんに連れられて店の奥に行く。私が使っていたサーフボードが壁に掛けられている。私と恵美ちゃんがサーフボードに書いたかもめの落書きもそのままだ。埃ひとつない。このお店も古くてごちゃごちゃしているけど、その空気が馴染む。
アツシさんが言う。
「真樹ちゃん、いつまでこっちにいられるの?」
「明日の夕方帰る」
「そうか」
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
アツシさんにしては煮え切らない。
「恵美に連絡とってやってくれ。会いたがってた」
「うん、そうする」
*
朝早かったので二人でソファで寝る。アツシさんのところから何故かイチローがついてきた。イチローが私と裕子さんの間に入る。裕子さんの寝息。少し離れた波の音。イチローの体温。
昼頃に起きる。コーヒーを淹れる。キッチンに缶詰のコンソメスープと玉ねぎがあったのでオニオンスープを作る。そしてアツシさんが山の様なサラダと蒸し鶏とサンドイッチを持たせてくれていた。
「裕子さん、二回続けてサンドイッチだけど」
「アツシのサンドイッチも旨いぞ。で、今何時だ?」
「十二時半」
「それ、食べるか。で、飲むか」
ダイニングテーブルにコーヒーとオニオンスープ、そしてアイリッシュウイスキーが並んだ。
アツシさんのサンドイッチもとても美味しい。近所の農家の方が朝、きゅうりやトマトを持ってきてくれるらしい。この土地の味がする。だからサラダもサンドイッチと同じ具だけど食べ飽きない。
「裕子さん、今日の日の出、凄かったけどあれはあらかじめわかったの?」
「ああ。日の出は冬のほうが綺麗に見えるのは知ってるね」
「うん、空気が乾燥しているから」
「そう。夏は湿度が高いから冬に比べてボヤっと見える。でも条件さえそろえば冬と違う凄みのある空が来る。雨が何日も降らないで、風が岸から海へ吹く時」
「オフショアだ」
「そう。今日はいい条件が重なった。あれ見るとつまらん事をやる気がしなくなる。頭のつまらんものを全部持って行ってくれる」
アツシさんの蒸し鶏がすごい。たれは醤油、酢、ごま油とネギ。でも全部ネギなんじゃないかと思うぐらいネギの塊。ウイスキーに合う。
「真樹、あのフィアット、買ったんか」
全部話そう。
「パパから買ってもらった」
「ん?真樹、いつから自分の親父をパパとか言うようになったんだ?」
「そのパパはお父さんの事じゃないの」
「どういうことだ?」
知らないおじさんをパパと呼び、食事をしたり、デートをすることでお金をもらえる。1人につき月に五~十万円。会うたびにまたいくらかもらえる。そんな話をする。
ウイスキーのグラスを持ち上げたまま裕子さんは言う。
「なかなか理解できないけど。そのおっさん達はやらんでもいいのか」
「やらないとお金が貰えない子もいれば、やらなくても貰える子もいて、その中でももっと欲しい子はやる」
裕子さんはグラスを持ち上げたまま、口につけない。
「その差は何なのかな」
「商品価値」
裕子さんは大笑いした。私もつられて笑う。イチローもこっちに来て吠える。
「真樹の商品価値はどうだった?」
「とてもとても高い」
二人で笑う。二人でウイスキーを飲む。アツシさんのサラダが瑞々しい。
裕子さんがオーディオから音楽を流し始めた。しわがれた声。やる気があるのかないのかわからない声。
「この歌、前に裕子さん、よく歌っていたよね」
「ボブディランな。Forever young。いい曲だ」
「いつまでも若々しくいたいぜロケンロー!って感じかな」
「まあ、そのうち歌詞カードでも読んでくれ。で、真樹、いくら稼いだ」
「そこ?すごくいっぱい。このあたりで結構な家が買える。それを投資で増やした」
裕子さんはイチローをなでながら笑う。
「真樹、やるなぁ、金は無いならないでなんとかなるけど、あると困ったときに助かるからな。恵美の母ちゃんの信金に少し預けたれ」
「裕子さんは私がパパとやったかやっていないか、聞かないの?」
「お、そこか。真樹が今健康でここにいるだけで十分だろ。なんだ、聞いて欲しいんか。まあ、真樹がこの場でさらさら言うぐらいだし、やってないだろ」
窓から乾いた夏の風が流れ込む。イチローは家や外を走り回って裕子さんや私の所に来てなでられるのを待つ。オーディオからは最近の音楽が流れる。
「これは何て曲?」
「ジョンメイヤー。男前だぞ。Gravityって曲だ」
「Gravityだから重力?」
「色んなものに引っ張られることから自由になりてーって曲かな。あ、真樹。このジョンメイヤーってやつ、経験人数500人超えているらしいぞ」
ウイスキーを派手に吹いてしまった。イチローの背中に掛かる。イチローが吠える。
「五百人ってすごいね、何したらそんなことになるんだろう」
裕子さんが言う。
「彼は凄腕のギタリストなんだ。レコーディングに行くだろ、そこで著名な女性アーティストとそうなるらしい」
「その五百人とか、公表するの?」
「まあ、アメリカとかの芸能界だと売りになるらしい。所変われば色々変わるよね。でさ、五百人集めてみたいな。真ん中にお立ち台作ってそこにジョンメイヤー」
裕子さんは目を細めて笑う。私はイチローの背中を拭う。
「それはそうとしてな、真樹。密室はやめておけ。知らない男との密室は危ない。信用できる奴だけにしておけな」
アツシさんのサンドウィッチや蒸し鶏をあらかた食べてしまったので、キッチンを漁る。サラミとピクルスを皿に盛る。イチローが物欲しそうな顔をするので裕子さんに場所を聞きドッグフードをあげる。ソファに移動する。このソファは体がちょうどよく沈む。
「イチローはよく来るの?」
「この間1人で来た。あれは流石にまずかったな。ここ、好きみたいなんだ、だから時々アツシが寄越すんだ」
「ユタカの気配でもするのかな」
「アイツはガールズバーで忙しいから気配などないはずだ」
「それは高木豊でしょ」
イチローは床を転げまわっている。
風が少しやみ、波の音が聴こえる。
「裕子さん、今日アツシさんもみんな海に出てないね」
「うん、今日は海に出ないほうがいい」
「そういえば、私がここにいた時も一日だけそんな日があったじゃない。風がそれほどでもないのにいい波が来て」
裕子さんはウイスキーをグラスに少し注いで言う。
「土用波ってやつだ。遥か南の台風、二千㎞ぐらい離れた台風から来る波。波は風が起こすだろ。土用波はこの場所の風ではなくて、遠くの風が起こす。それがうねりになってここに来る。うねりには周期がある。遠くで生まれたうねりは長い周期になる。だから沖では見えない。岸に近づくと急に立ち上がる。高さもまちまちで千回に一回ぐらいは3倍ぐらいのものになる。予測がつかない。アツシの弟と私の娘がそれで死んだ」
夏の午後、風はない。音楽はいつの間にか止まっている。波の音が向こうに引いて行く気がした。
裕子さんは続ける。
「あの日は雨が降っていたけど風はなかった。雨も強くなくて。波は確かにいい波だった。でも地元の奴らは知っているんだ。これは土用波だって。アツシの弟のタケル、サーフィンを始めて一年ぐらいだった。離れた街中から通ってきていた。ここの者じゃないんだ。私の娘が教えていた。タケルはすぐに上手くなった。うちの娘の教え方も良かったらしい」
裕子さんは一度話をやめて、お湯を沸かしコーヒーを淹れた。オーディオを操作し音を流す。オーディオからはビートルズのアクロスザユニバースが流れた。
「この歌、いいよな。月日は百代の過客。最近フィオナアップルという女の子がカバーしたやつもいいぞ」
コーヒーを持ってきて裕子さんは続けた。
「うちの娘、聡美って言うんだ。その日はやめたほうがいいってタケルに言ったんだ。でもタケルはこんなにいい波だからって海入ったんだよ。聡美、心配になって後から岸に見に行って。見ていたらタケルが波に飲まれて上がって来ない。だから聡美も海に入って。二人とも戻って来なかった」
裕子さんが淹れたコーヒーはいつも美味しい。でも味がしない。
「真樹がこの家に来た時、ちょっとびっくりしたよ。雰囲気が聡美そっくりで。もちろん姿かたちは違うんだけど、しぐさとか、色んなことの出来なさ加減とか、出来る様になった時の切っ掛けとか、犬のなで方とか。私が勝手に聡美と重ね合わせただけなんだけどね」
「私が借りたお部屋は聡美さんのお部屋なのね」
「そうそう。ある程度処分したけど本やらが処分できなくてな。掃除も出来なくて。真樹、掃除してくれてありがとう」
少し強い風が部屋に吹き込み、カーテンを大きく揺らした。
私のスマートフォンをオーディオに繋ぐ。最近よく聴いているアコースティックギター。
「アツシが弾いていたよな、スラックキーギターだったね」裕子さんが言う。
*
裕子さんの事を全く知らなかった自分が恥ずかしい。ここで、聞くべきなのだろうか。そんなことを考えている間に聞いていた。
「私、裕子さんの事あんまり知らないの。聞いていい?」
「おう、何でもいいぞ。何ならここで全部脱いでもいいぞ。パパ活、しに行くか?あ、商品価値ないか」
「何言ってんだか。裕子さんの旦那さんの事聞いていいかな」
「そこだ。聡美が生まれてすぐに死んじまった。土用波にもまれて。旦那も娘も仲のいい奴の弟も土用波。何だかひどい話だろ。なのにまだその海のそばにいる。一度、土用波の日に真樹と恵美が海に出たいって言っただろ。アツシも私も流石に上手く説明出来なくてな。土用波は見えない。見えないものを相手にするのは難しい。でも落とし穴なんてみんなそんなものだ」
裕子さんは続ける。
「聡美が死んだときにさすがに他の所に移ったほうがいいと思ったんだよ。街のマンションとか何件か下見した。みんなきれいなマンション。でもどうしてもそこで住むイメージが出来ない。それでだらだらここにいる。何故か少し考えた。言葉ではっきりさせたかった。それをやらないと感傷でここに居続ける気がして。感傷はそれでいいんだけど、なんかすっきりしないし、私はそれが嫌だったんだ」
裕子さんはキッチンから煙草を持ってきた。久しぶりだとくらくらすると言いながら美味しそうに吸う。
「旦那がボロボロの家を見つけて二人で直して。田舎だから最初は周りに馴染めなくてね。聡美が生まれて。金がない時に苦労して育てて。三人で海に出て。この場所に何かを吹き込んだのかもしれない」
裕子さんは続ける。
「旦那と聡美がいなくなって最初はしんどかった。眠れないし、二人の事しか頭に浮かばない。何回夜の海に行ったか分からない。家族が二人消えちまったんだから。三年ほどして、寂しいよりもっと奥にある無力感とか寂寥感とか、そんな厄介な奴にはなんとか辿り着かなくなった。朝起きて仕事して帰ってきて、そんな一日の中で旦那の事も聡美の事、思い出すけどしんどくはないんだよ。ここが家族の場所だったのかな。場所に捕らわれている訳ではないけど。私はここで立て直したほうがいいと思ったんだよ」
ウイスキーがまだあったので氷をいれ、裕子さんにも渡す。裕子さんはグラスに口をつけながら言う。
「私の場合、この場所が良かったのかもしれない。普通、二人がいなくなった近くで気配が詰まった場所に住み続けるのはしんどいかもしれないけど」
裕子さんは目尻にしわを寄せて笑う。イチローがソファの上にあがり、リビングの中を夏色に染まった風が揺れた。
私には裕子さんが言うような場所があるのか考える。
裕子さんに水野君の事を話す。
幼馴染で、子どもの頃水野君のおうちでたくさん遊んだこと。その家は新しくもきれいでもなく、雑然としていたけどとても素敵な場所だったこと。それからパパ活の帰りの深夜のドライブイン。水野君がいる古いドライブイン。優しくて暖かくてそれだけの光があふれてくるドライブイン。
そして裕子さんの家。
「このおうち、古くてぼろぼろで物がごちゃごちゃしているけど、ここはいろいろな事と仲良くなれる感じがする」
「それは嬉しいね。その水野君の家とかドライブインも同じなのか?」
「水野君のおうちはとかドライブインは昔好きだったものや今でも気になるものがたくさん詰まっている気がする」
「真樹、相当水野君のこと好きなんだね。今度連れてきな」
「うん、ありがとう」
カーテンから夏の日差しが差し込む。リビングのところどころを黄金色に染め、それを風が揺らす。
冷蔵庫に恵美ちゃんのお母さんが作ったブルックリンチーズケーキがあるらしい。見ると一ホールある。それにしても今日の裕子さんと私の食欲はちょっとした山を切り崩す勢いだ。裕子さんがアイスティーにしようと言う。セイロンのディンブラティーがアイスティーに良いらしい。お茶の葉がガラスのティーポットに舞う。
レコードプレーヤーが目に留まる。棚にはビートルズのラバーソウルがある。前に来た時に確か歌詞カードにメモ書きがあったはず。
あった。
その歌詞カードを裕子さんに見せる。
「このnowhere man、見て。このメモ聡美さんじゃないかな」
題名のnowhere。nowとhereの間に力強く「/」スラッシュが引かれている。
nowhere man。どこにもいない男?居場所がない男?
now / here man。今ここにいる男?
「これは聡美の字だ。こんなの知らなかったよ。良く見つけたね。でも何を意味しているのかな」
ブルックリンチーズケーキ、ほろ苦いチョコクッキーの香ばしさがアクセントになっている。裕子さんはばくばく食べながら、よくわからんな、と言った。
ティーポットから紅茶を注ぎながら裕子さんは言う。
「真樹、まだ何か話したいことあるんじゃないのかな」
私が向き合っていない私の家族のこと。一番酷い時からは少し落ち着いたとはいえ、みんなで顔をあわせて食事をしていない。リビングにはいつも誰もいない。いまさら昔の様に和気あいあいとまではしなくていいけど、このままでいいのかどうかもわからない。そして私は最初から最後まで家族に何もしていない。裕子さんはお父さんから聞いたのだろう。全部知っているようだ。
「うちの家族のことだよね。よく分からない。このままでいいのかどうかも」
「真樹はどうしたいの」
「いまさらみんなでどこかへ出かけるなんて事はしなくてもいいから、せめて食卓やリビングで自然な雰囲気だったらそれでいい」
「まあ、大人だから皆に首輪引っ張って連れてくる訳にもいかないし。母ちゃんの状態はいいのか」
「入院する前よりはるかにいいけど」
「話はしないのか」
「しない。みんなしない」
「難しいな」
裕子さんは冷蔵庫から炭酸水を持ってきて私にもくれた。外に出ていたイチローが帰って来たので水をあげる。板張りの床はひんやりとしている。その上をイチローが転がる。
しばらく考えていた裕子さんが口を開いた。
「さっき私がこの家の話をしたよね」
「うん」
「真樹は水野君のおうちとドライブイン。そしてこの家がいいと言ってくれた」
「うん」
「そういうことじゃないか」
「どういうこと?」
「場所。その人が気を許せる場所。家族ってやつは難しい。一筋縄ではいかないだろ。真樹の家も四人の色々な事がとんでもなくこんがらがってほどくのが大変だ。それをいきなりほどくのは無理じゃないかな」
「まあ、そうだし、そんなしんどそうな事は私も出来ない」
「そうそう。だからさ、取り敢えずこんがらがったものをほどく場所を作ればいいのかもしれないよ」
「場所」
「そう、場所。真樹はさっきこの家のことを色々な事と仲良くなれる感じがすると言ってくれた。そんな場所があれば色々なものがほぐれやすくなる気がするけどどうかな」
私は今の自分の家のリビングを思い浮かべた。
掃除がされていない。窓を掃除したのはいつだろうか。ソファはお母さんが何回も吐いた。適当に掃除したので染みがついている。床にも壁にも何もない。お母さんやお父さん、お兄ちゃんの物も何もない。私の物もない。住宅展示場のモデルハウスが十年放置されればこんな感じになるのだろう。
私は子供のころは水野君のおうち、そして水野君のドライブイン。そしてこの裕子さんの家。そんな場所があった。お父さんやお母さん、お兄ちゃんにそんな場所はあるのだろうか。ない気がする。
「その場所を作る」
「そう。みんなが何が好きなのか、どんなものがあれば落ち着くのか、なんとなくでもいいから。それに沿ってその場を作ればいいのかもしれない。それは皆を無理強いするものではないよね。場所作るだけだから。近くて遠いぐらいが丁度いいのかもね。お、真樹、金持っているだろ。ソファぐらい良いものに取り替えてやれよ」
裕子さんは続ける。
「さっきから考えていたのだけど。うちの聡美のメモがあっただろ、ビートルズのnowhere manの歌詞カード。nowhere manなら居場所がない男。でもスラッシュ差し込んで、now / here man、今ここにいる男。スラッシュ入れるだけでまるで違う。でも簡単な気がするけどどうかな。つくってやればいいんじゃないかい?」
裕子さんは炭酸水を飲み干して言う。
「真樹は聡美の部屋の埃を払ってくれた。少し遠く離れていた聡美が戻った気がしたんだ。now/here manとか連れて。時として家族にも少し埃がたまる。そんな時は場所の埃を優しく払ってあげればいいのかもね」
私はこの家になかなか来ることが出来なかった。裕子さんへの手紙も続かなかった。でもこの場所は忘れたことがなかった。自分の事がひと段落した時に真っ先に来るべき場所はここだった。
近くて遠い。物理的な距離もそうだけど、一緒に住んでいても近くて遠い距離感を裕子さんとは保てる気がする。
近くて遠い。お互いその距離感がつかめれば他人でもなく、無駄な力を必要な関係でもないのかもしれない。
nowhere manとnow / here man。
裕子さんに聞く。
「裕子さん、家族ってよく分からないけど、私は勝手に裕子さんの事、家族だと思っていいよね」
裕子さんは私の近くに来て、私の肩を抱きながら言った。
「ありがとう」
*
多分、そうだろうと思っていた。
次の日、裕子さんと別れ、イチローを連れてアツシさんのところに寄った。アツシさんと順子さんが話があると言う。お店の奥にあるテーブルで聞く。
裕子さんが病気だと。それもあまり状態が良くないらしい。
「瘦せたと思っていたけど、やはりそうなんだ」
「うん、真樹ちゃんが来るから体調整えるって頑張ってたの」
順子さんが言う。
「それにしても凄い食欲だったよ」私が言った。
「ね。食べることが出来ない日が続いたけど、真樹ちゃんが来ると決まってから食べることが出来る様になったのよ。この後、病院に戻るの」
もっともっと早く来るべきだった。
アツシさんが言った。
「こんな事俺が頼むような事ではないと思うけど、時々来てくれないか」
私は頷いた。
*
時間がある限り、裕子さんの所に行く事にした。
裕子さんは私が病室に行くと驚くと思ったけど、ごく普通に迎えてくれた。
「アツシかから聞いたか。まあしょうがないな。窓開けてくれないか」
向こうに海が見える。今日はオフショア、サーファー達が海に浮いている。
「この病衣ってやつがどうも気に食わなくてさ。そこにTシャツがあるから取ってくれないかな。着替えるよ」
タンスからTシャツを取り出す。胸にプリントされている。
「酒は裏切らない」
まったく。裕子さんは笑っている。
「これ、もしかしたら、笑わせるために置いてあるの?」
「そんなことないが順子も他の奴らも笑ってくれた。けどアツシだけは真顔で言うんだ『あいつらは簡単に裏切る』ってな」
二人で大笑いした。
「そうだ、真樹の家はどんな感じだ?」
「今、掃除している。壁から床から。とりあえずキッチンから攻め込んでる。母さん、タバコも吸っていたからヤニが大変で」
「それであれか、水野君、手伝わせているわけだな」
「うわ、何で分かるの、裕子さん」
「え、ほんとにそうなのか、おいおい」裕子さんは楽しそうだ。
「今度水野君連れてきていいかな」
「もちろんだ。この病室も掃除してもらおう」
*
秋の終わりに裕子さんは亡くなった。
遺言で旦那さんと聡美さんが消えた辺りに散骨した。
恵美ちゃんは裕子さんが話すことが出来るうちにハワイから駆けつけ何とか間に合った。恵美ちゃんがベッドに横になる裕子さんをハグした。裕子さんは「ハワイからの押し掛けハグ」と言って喜んだ。
自宅で仲間内だけの式をするつもりが、近所の人達や信金時代のお客さんがひっきりなしに訪れた。イチローは裕子さんが亡くなったことを理解したのか、元気がなかったが、その内弔問客に愛想を振りまいた。
アツシさんがスラックキーギターを弾いたり、オーディオからジョンメイヤーやビートルズが流れたり、順子さんがウイスキーをみんなに振る舞ったり。裕子さんらしいお別れになった。
ひと段落してアツシさんに呼ばれた。
「これ、裕子さんからの手紙。裕子さん、真樹ちゃんの事話す時本当に楽しそうだった」
厚めのクラフト紙の封筒。表に力強く「真樹へ」とある。
真樹へ
お話した通り、私は家族をずいぶん前になくしたと思っていました。
でもあの夏に真樹が来てから少し考えが変わりました。
真樹が家族のように思えたのです。
家族が何なのか。それは人それぞれでしょう。
私は勝手に思うことにしました。遠くにいても、それがどんな形であれその人の事を愛おしいと思えば家族だと。
図々しいかもしれませんが、私は真樹ちゃんが家族に思えてならなかった。こんな想いを許してくれれば嬉しいです。
真樹ちゃんの車の運転はとても上手でした。
アクセルやブレーキの踏み方、クラッチの繋ぎ方、ハンドルの切り方。
優しくて素敵でした。同じようにすれば良い場所も自分で作ることが出来るでしょう。
真樹にはそんな人生が待っているはず。
私には海原を悠々と進む真樹ちゃんが見えます。
大丈夫よ。
離れたところにいても、
遠いところにいても、
ちゃんと憶えているから。
憶えているから、大丈夫。
家族だから。
よく生きなさい。
*
電車のなかでふとした拍子に裕子さんが時々歌っていたボブディランの「Forever young」の詩をスマートフォンで読んだ。
神に愛され いつもいつもいつも見守ってもらえますように
君の夢が 本当になりますように
人に尽くし 人に尽くしてもらえますように
星空へ登るはしごを築き 一段一段上っていける様に
君がいつまでも若くありますように
毎日が君のはじまりの日
清らかに育ちますように
誠実に育ちますように
君を囲んでくれる光に、気が付きますように
いつも勇敢に まっすぐで強い人でありますように
いつまでも若く
毎日が君のはじまりの日
君が常に夢中になるものを持っていますように
君が行くべき場所にすぐに迎えますように
風向きが変わる時も依る場所がありますように
君の心が喜びに満ち
君のブルースがいつも歌われ
いつまでも若くありますように
いつまでも若く
君の情熱や喜びがいつまでも若く
裕子さんは自分のために歌っていたのではなかった。
私に向けて歌っていた。自分の娘に向けたように。
電車の中で、人目もはばからずに泣いた。
*
家の掃除を続け、そしてソファを買いに行こう。
お父さん、お母さんそしてお兄ちゃんの好きなものを少しづつ思いだしてリビングを作ろう。
もちろん水野君にも手伝ってもらう。
簡単には上手く行かないだろう。
でもその場所が誰かの「風向きが変わる時も依る場所」になるといい。
了
参考させていただいたwebサイト
【ナミノリザンマイ】
https://www.nznaminori.com/
【サーフメディア WAVAL】
https://waval.net/
【特選男の料理】
https://www.mr-cook.net/
【LyricList】
https://lyriclist.mrshll129.com/
【洋楽と和訳 洋楽と映画を好きなだけ】
https://ameblo.jp/uebersetzung/
【毎日がちょっと冒険】
https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11
画像引用元
【フォトライブラリー】
https://www.photolibrary.jp/