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愛はキッチンにある。

私は料理が下手だ。
いや、下手というか、苦手意識があるという方が正確かもしれない。
上手か下手かを判断できるほどに、頑張ってこなかった。
今からだって、一から頑張れば上手くなる可能性はゼロではないけど、少なくとも現状は、挑戦することよりも苦手意識が勝る。

小さい頃からお菓子を作るのは好きだった。
それだって、自信をもって「得意です」と言い張れるほどではないけれど、成功したり失敗したりを繰り返しながら、もっと上手に作りたいという探究心で頑張れていたんだと思う。

お菓子も料理も同じようなものじゃないか、と思うのに、どうも料理がだめなのだ。
そこにはいくつか理由があると思っていて、もちろん私の経験不足からくる手際の悪さや、面倒くさがりゆえの横着など、私起因のものも十二分にあるのだけど、第一、レシピにある「塩少々」というのは難しすぎないか。
お菓子のレシピなら、絶対に「小さじ1」とか「43g」とか明確に書いてくれているのに、料理になった途端「少々」が濫用される。
どこかで、「少々というのは指3本でつまんだ量」と書いてあったのを見たから、それからはその方式に従うようにしているんだけど、よく考えたら指の太さだって人によって違うんだから、3本の指で掬える量なんてまちまちに決まっている。

同じ要領で、火の通し具合も難しい。
「まずフライパンに油を熱してお肉を炒める。次にきのこを入れてさらに炒める」とあった時に、冒頭「油を熱する」でつまずく。
多分熱しすぎても熱しなさすぎてもだめなんだろうなという予測はつくものの、適温がわからない。
しかも、お肉を炒めてからきのこを追加するタイミングも難易度が高い。
たまに、「お肉の色が変わり始めたら」とか、丁寧っぽく書いてくれているレシピもあるけれど、どの瞬間をもって「変わり始めた」と判断したら良いのか分からず、大抵火を通しすぎる。

最近は動画で紹介するレシピが多いので、今まで文章では伝えきれなかった細かい具合を、誰でも把握しやすくなったのかもしれない。
とはいえ、料理家さんが「このくらいですね〜」と見せてくれるフライパンの中の様子をしっかり記憶したつもりでも、いざとなると「これでいいのか…?」と不安になって、迷ってる間にベストタイミングを逃す。
どこまで便利な世の中になっても、感覚を会得するのは、なかなか難しい。

じゃあ料理教室にでも行って、専門家に手取り足取り教えてもらえばいいんじゃないか、というのはその通り。
なんだけど、料理教室のメニューにあるような、肉じゃがとかハンバーグとか、別にそういうのが作りたいわけじゃないんだよなあと思って立ち止まる。
私が作りたいのは、仕事帰りの疲れた日でも、パッと作ってシャッと食べれる料理だ。
そういうシンプルなデイリーごはんは、料理教室だと教え甲斐がないんだろう。
まあそんな感じで、言い訳を盾にしながら、料理を遠ざけていた。

そんな私に、突如料理の先生が現れた。
お世話になっているパートナーである。
その人はとても料理が上手だ。
いつも食べたいものを作ってくれるし、食べたいものがない時でも、その人の料理を前にすれば、食欲がわいてくる(ゆえに食べ過ぎるのが難点)。
毎度作ってもらってばかりで、本当は私が少しでも手伝えたら、ちょっとは楽になるかなあ、申し訳ないなあと思いながらも、自分でさえ美味しいと思えない料理を人に食べさせるのは流石に気がひけるので、私に唯一できる買い出しだけ、全力で担当してきた。

ある日、その人が「今度作ってみなよ、教えるから」と言った。
私は嬉しいのと怖いのと、半々の気持ちだった。
本当にいつも頼ってばかりなので、自分にできることが増えるかもと思ったけれど、美味しくなかったら夜ごはんが台無しになるかもしれないとか、私が下手すぎてイライラさせるかもしれないとか、何となく結末が見え透いてしまって怖かった。

でも、やってみない限りは、できない自分から変われないのだ。
そしてこの週末、ついに料理教室第一回目が開催された。
初回のメニューは「鶏肉のカシューナッツ炒め」。
「えー、なんかもっとオーソドックスなやつじゃないの?」と思われそうだけど、材料が揃えやすく、手順も比較的簡単で、冷めても美味しいからお弁当にもぴったりで実用的、ということでこのメニューになった。
個人的に、思い出がある一品でもある。
父が好きな料理だったので、よく実家の晩ごはんに登場したのだ。
「カシューナッツ」というナッツがあることを知ったのも、この料理がきっかけだったと思う。
大好きな鶏肉が主役だし、炒め物だけど油っぽくなくて、あっさりと食べやすいから、昔から馴染みのある料理だった。

そんなわけで始まったクッキング。
隣にぴたっとついてもらって、「鶏肉はこのくらいの大きさに切る」とか「弱火っていうのはもっと弱い火のこと」とか、私が今まで学んでこなかった基礎を一つ一つ教えてもらった。
普段の私なら絶対にやらない、食材のサイズを揃えて切るとか、調味料をあらかじめ混ぜておくとか、先生の前では横着できないので、そういうことをちゃんとやった。
そうしたら、私が作ったとはとても思えないほど、いつも先生が作ってくれる味と見事同じになった。
全部教えてもらいながら作ったし、何より味がいつも食べているのと同じなので、自分で作った実感はあまりわかなかったけれど、シンプルに「やればできるじゃん私!」と思った。

で、次の日。
先生は不在だったので、復習を兼ねて、一人で同じメニューを作ってみることにした。
教えてもらった通りにやったつもりが、全然違う味になってしまって、とてもじゃないけど美味しいとはいえない、「いつもの私の料理」に早変わりしてしまった。
多分、「鶏肉の下味は手で揉み込む」と言われたところをスプーンでふいふいっと軽く混ぜただけだったり、「片栗粉は慎重に」と口酸っぱく言われたのに、大して溶かさずじゃじゃっと入れちゃったから。
あとは、これもいつも通りだけど、心配になってお肉に火を通しすぎた。
やっぱり私は、まだいつもの私である。

上手くいかなかったという話を、帰宅した先生に伝えたら、「練習あるのみ」という至極当然の教えが帰ってきた。
結局そうなのである。
でも、今回は教えてもらったおかげで、何が原因で上手くいかなかった
か自分でもわかるから、次はそれを改善すればいい。
ちゃんとやれば美味しくなるのに、ちゃんとやらないからだめなんだと、これまた至極当然なことを身をもって学んだ。

生まれつき面倒臭がりな私からすれば、教えてもらう一つ一つのことが、ちょっとしたハードルだ。
丁寧に食材を切ることも、時間をかけて下準備することも。
それを毎日当たり前のようにやっている先生は本当にすごいと思う。
先生は美味しいものが好きな人なので、何より自分が納得できるものを作りたいというのが強いんだと思うけれど、美味しく作りたい気持ちよりも、横着が勝ってしまう自分だから、本当に尊敬する。

キューピーのCMだと「愛は食卓にある」だけど、今回教わってみて、いや、「愛はキッチンにある」だなと思った。
美味しいごはんを作ろうと思う気持ちがキッチンにあるからこそ、食卓は明るく温かいものになる。
それが自分のためであろうと、誰かのためであろうと、食材に対してであろうと、美味しくなるための手間ひまを惜しまない気持ちは、間違いなく愛である。
私も目の前の面倒臭さにあっけなく敗北せず、そんな愛を込められる人になりたい。

なんて偉そうなことを言っている場合ではなく、まずは初級メニューのカシューナッツ炒めを早くクリアせねば。
そして次の課題は明太パスタの予定です。
次回もどうぞよろしくお願いします。

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